最強の師匠、最後の授業 ~「強くなれ」と教えた弟子が暴君になったので、責任を取って殺しに行きます~

トウガイ(灯亥)

文字の大きさ
10 / 10

第10話 世界で一番優しい、最後の授業

しおりを挟む
秋が深まり、冬の気配が忍び寄る頃。

俺とエリナは、あの村へ戻ってきた。

道中、季節が移り変わっていくのを見てきた。

木々の葉が赤く染まり、やがて散っていく。朝晩の空気が冷たくなる。畑では収穫が終わり、次の春に備えて土が耕されている。

世界は回っている。止まることなく、ただ回っている。

エリナの歩き方も変わった。

以前は俺の後ろを追いかけるように歩いていたが、今は並んで歩く。背も少し伸びた気がする。顔つきも、どこか大人びてきた。

「先生、もうすぐですね」

「ああ」

「どんな顔して迎えてくれるでしょうか」

「さあな」

会話が途切れる。でも気まずくない。沈黙が心地いい。

風の音、鳥の声、自分たちの足音。それだけで十分だった。

村の入口に立つと、見慣れた風景が広がった。

だが、何かが変わっていた。畑が増えている。家々の壁が塗り直されている。子供たちの笑い声が、以前より明るい気がした。

生きている。この村は、生きている。と、俺は何気なく一人で呟いた。

「先生、あれ」

エリナが指差す先に、一人の男がいた。

鍬を持ち、泥にまみれ、黙々と土を掘り返している。

フェリクスだ。

近づいても、彼は気づかない。作業に没頭している。

額に汗が光り、鍬を振るうたびに息を吐く。その使い方はまだ少しぎこちない。力任せに振り下ろして、刃が土に深く刺さりすぎている。

その様子を見て、隣の畑で作業していた老人が呆れたように首を振った。

「フェリクス、そんなに力を入れるな。土が固まるだろうが」

「すみません」

フェリクスが頭を下げる。

「何度言っても覚えん。本当に王様だったのか、お前は」

「昔の話です」

「まあいい。とにかく休憩しろ。見てるこっちが疲れる」

老人はそう言って、井戸へ向かう。フェリクスは鍬を地面に立てかけて、自分の手のひらを見つめる。

マメができている。

潰れて、血が滲んでいる。

それでも彼は顔をしかめるだけで、手当てをしようとしない。ただ、じっと見つめている。

俺は声をかける。

「いい手になったな」

フェリクスが顔を上げる。目を見開く。一瞬、信じられないという表情。それから、鍬を置いて駆け寄ってきた。

「師匠」

息を切らせて、立ち止まる。

「本当に、師匠なんですか」

「他に誰がいる」

彼は自分の手を見る。泥だらけで、傷だらけの手。それから俺を見る。

「見てください、この手を。剣ダコとは違う、痛くて醜いマメです」

彼は苦笑する。

「でも、悪くないんです。この痛みは」

「そうか」

「はい。これが、生きているということなんですよね」

フェリクスは笑った。顔中泥だらけなのに、その笑みは清々しかった。

「老けましたね、師匠」

「お前は逞しくなった」

「そうですか。でも村の人たちには敵わないんです。土の扱い方も、種の蒔き方も、何もかも」

「当たり前だ」

「はい。当たり前なんですよね」

フェリクスは空を見上げる。青い空。白い雲。風が吹いて、畑の土が少し舞う。

「毎日、マルクの墓に謝りに行ってます」

「そうか」

「でも、まだ言葉が見つからなくて。ただ、頭を下げることしかできない」

「それでいい」

やがて、老人が水を汲んで戻ってきた。器をフェリクスに渡す。

「ほら、飲め」

「ありがとうございます」

フェリクスは両手で器を受け取り、一気に飲み干す。それから深く頭を下げた。老人は何も言わずに、また自分の畑に戻っていく。その背中には、もう敵意はなかった。

ただ、日常があった。

エリナが小さく息を吐く。

「変わりましたね」

「ああ」

「村の人たちも」

「そうだな」

フェリクスは俺を見る。

「師匠は、どこへ行っていたんですか」

「色々だ」

「また旅を?」

「ああ」

彼は少し寂しそうに笑う。でも、それ以上は聞かなかった。問い詰めない。縋りつかない。ただ、そこにいる。

成長した証だ。

「リアは?」

俺が聞くと、フェリクスの顔が明るくなる。

「目覚めました。二ヶ月前です」

俺は「そうか」とだけ呟いた。

「今は村で、子供たちに読み書きを教えています。師匠に会いたがってましたよ。毎日のように『まだ帰ってこないのか』って」

胸の奥が、少しだけ温かくなる。

「案内します」

フェリクスが先導し、俺とエリナが続く。すれ違う村人たちは驚くことなく、軽く会釈をして通り過ぎていく。この村にはもう、穏やかな日常が根付いているようだった。

村の広場にある小さな建物。以前は物置だった場所から、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。

「リア先生、これ分かんない」

「どれ?ああ、これはね」

懐かしい声だ。二十年前と変わらない、鈴を転がすような響き。

俺たちは扉の外で足を止めた。

窓越しに中の様子が見える。リアが黒板の前に立ち、白いチョークで文字を書いている。子供たちの視線は真剣だ。

「今日は歴史の勉強です。この国には、昔、悪い王様がいました」

リアの言葉に、子供の一人が手を挙げる。

「悪い王様って、どんなことしたの?」

「戦争をしました。たくさんの人が死にました」

「怖い……」

「ええ、とても怖いことです」

リアは少し間を置いて、窓の外へと視線を向けた。その先には、泥まみれで働くフェリクスの姿がある。

「でもね、その王様は本当は悪い人じゃなかったのかもしれません。とても悲しい王様だったのよ。誰も助けてくれなくて、一人ぼっちで。だから、間違った道を選んでしまった」

子供たちは静まり返り、リアの話に聞き入っている。

「その王様は今、この村で畑を耕しています。毎日、一生懸命に」

「許してあげたの?」

「許すかどうかは、簡単には決められないわ。でも、その人が変わろうとしているなら、私たちも見守ってあげることはできるでしょう?」

子供たちが頷くのを見て、リアは優しく微笑んだ。

扉の外で、フェリクスが壁に背中を預けていた。

目は閉じられ、肩が小刻みに震えている。溢れそうになる涙を、必死にこらえているのだ。

エリナが、俺の袖を引いた。

「先生、リアさん、強いですね」

「ああ」

「優しくて、強い」

「そうだな」

フェリクスが目を開ける。涙を拭う。それから、深呼吸をする。

「行きましょう、師匠」

彼が扉を叩く。

「リア、客だ」

「客?誰――」

リアが顔を出す。

そこで、彼女の動きが止まった。

チョークを持ったままの手が、力なく下ろされる。

大きく見開かれた瞳が、瞬きもせずに俺を捉えていた。

まるで、幻でも見ているかのような顔。

やがて、その瞳から大粒の涙が溢れ出した。

「師匠」

震える声だった。

彼女は子供たちに背を向け、外に出てきた。俺たちの前に立つと、深く頭を下げた。

「お帰りなさい」

その言葉を聞いて、俺は初めて気づく。

ああ、そうか。俺は帰ってきたのか。

帰るべき場所に。

「ただいま」

リアは泣き崩れた。声を殺して、ただ涙を流し続ける。細い肩が震えている。

エリナが心配そうに見守り、フェリクスは静かに目を伏せた。

俺は、懐に手を入れた。

指先に触れる、硬くて温かい木の感触。

二十年前から彫り続け、旅の途中でようやく完成させたもの。

俺はそれを取り出し、彼女の前に差し出した。

手のひらサイズの人形。

その顔は、優しく微笑んでいた。

「これを」

俺は人形を差し出した。

リアが顔を上げる。涙で濡れた顔で、目を見開いてそれを見つめる。

「これは……」

「お前のだ」

「私の?」

「二十年前に作り始めた。……遅くなった」

リアは震える手で人形を受け取った。

掌の上で、小さな木彫りの少女が微笑んでいる。

「顔が、ある」

「ああ」

「完成したんですね」

「そうだ」

リアは人形を胸に抱きしめた。まるで壊れ物を扱うように、大切に、優しく。

「ありがとうございます」

その声は、小さくて、でもはっきりしていた。

「やっと、私を見てくれたんですね」

俺は何も言えなかった。

言葉が出ない。ただ、深く頷くことしかできなかった。

リアは微笑んだ。涙を流しながら、この世で一番美しい笑顔を見せた。

「私、嬉しいです。本当に」

「そうか」

「これからも、ずっと大切にします。師匠の分身として」

彼女は人形を抱いたまま、建物の中に戻っていった。

中から子供たちが「リア先生、泣いてる?」と騒ぐ声が聞こえる。

「大丈夫よ、嬉しい涙なの」

リアの明るい声が、さらに続いて聞こえた。

「さあ、みんな、授業を続けましょう」

エリナが俺を見上げた。

「先生、良かったですね」

「ああ」

「本当に、良かった」

彼女も少し泣いていた。袖で目を拭うその姿を見て、俺はようやく肩の力を抜いた。

フェリクスが静かに笑っている。

「師匠、一つお願いがあります」

「なんだ」

「マルクの墓に、一緒に来てください」

俺は短く肯定した。

三人で墓地へ向かう。村外れの、静かな場所だ。木立に囲まれて、日の光が優しく差し込む。

マルクの墓は、花で飾られていた。誰かが毎日手入れをしているのだろう。草一本生えていない。墓石も丁寧に磨かれている。

フェリクスが墓の前に膝をつく。

額を地面につける。

しばらく、そのままだ。

「マルク」

やがて、彼は顔を上げる。

「俺は、まだ償い切れていない。お前に何をしたか、忘れたことは一日もない」

風が吹く。

木の葉が揺れる。

「でも、生きていく。お前が愛したこの村で。泥にまみれて、汗を流して」

フェリクスは立ち上がる。目を赤くしている。

俺の方を見る。

「師匠の番です」

俺は墓の前に立つ。

しゃがみ込む。

墓石に手を置く。

冷たい。

でも、嫌な冷たさじゃない。

「マルク」

何を言えばいいのか。

何を言えば、お前に届くのか。

「お前は、正しかった」

それだけだ。

それしか言えない。

「強さとは何か。お前が最後に教えてくれた。俺は、それをようやく理解し始めている」

墓石の前に、小さな花が咲いていた。白い花だ。マルクが好きだった花。

「ありがとう」

俺は立ち上がる。

エリナが墓の前に進み出る。彼女は深く頭を下げる。

「マルクさん、私はあなたに会ったことがありません。でも、あなたのことは師匠から聞きました」

彼女は顔を上げる。それから、腰に差していた短剣を抜く。村を出る時、フェリクスがマルクの形見として渡してくれたものだ。刃には小さな傷があるが、よく手入れされている。

エリナは短剣を墓石の前に置く。

「これを、しばらくお借りします。あなたの守りたかったものを、私が引き継ぎます」

彼女は真剣な顔で言う。

「先生のことも、任せてください。私が守ります」

それから短剣を拾い上げ、鞘に収める。

深く一礼する。

俺は何も言わない。

言葉にできない。

ただ、エリナの背中を見る。

大きくなった。

本当に、大きくなった。

三人で、しばらく黙祷する。

鳥の声が聞こえる。

遠くで、子供たちの笑い声。

生きている音。

墓地を出ると、リアが待っていた。人形を抱いて、微笑んでいる。

「師匠、今夜は村に泊まっていってください」

「いや」

「お願いします。せめて、一晩だけでも」

俺はエリナを見る。彼女は小さく首を縦に振る。

「じゃあ、一晩だけ」

その夜、村人たちが集まって小さな宴を開いてくれた。質素だが、温かい食事。笑い声。子供たちが走り回る。

フェリクスは隅の方で静かに食事をしている。誰かが酒を勧めると、彼は丁寧に断る。

「俺には、まだその資格がない」

村長が立ち上がり、俺に杯を差し出す。

「旅の人よ。感謝する」

「何をだ」

「あの男を、連れてきてくれて」

村長はフェリクスを見る。

「最初は、殺してやりたいと思った。今でも、許したわけじゃない」

「ああ」

「だが、あいつは逃げなかった。それだけは認める」

村人たちが静かに頷く。

その時、一人の男が立ち上がった。中年の男だ。顔には深い皺が刻まれている。彼は
酒の入った器を持って、フェリクスに近づく。

場が静まる。

男はフェリクスの前に膝をつく。器を差し出す。

「飲め」

フェリクスは戸惑った顔をする。

「でも、俺は」

「飲めと言っている」

フェリクスは震える手で器を受け取る。

男は自分の器を掲げる。

「俺の息子は、お前の戦争で死んだ」

フェリクスの手が止まる。

「許したわけじゃない。一生、許さないだろう」

男は続ける。

「だが、お前が作った野菜は、うまかった」

フェリクスは目を見開く。

「この村で生きるなら、ちゃんと生きろ。半端な覚悟で、俺たちの前に立つな」

「……すみません」

「謝るな。ただ、生きろ」

男は器を一気に飲み干すと、乱暴に自分の席に戻った。

残されたフェリクスは、器を両手で握りしめていた。

涙が零れている。だが声は出さない。震える手で器を口に運び、一口、また一口と、噛み締めるように酒を飲む。

村人たちは誰一人言葉を発さず、ただその背中を見守っていた。

それは、許しではないかもしれない。だが、拒絶でもなかった。

夜が更け、宴が終わる頃には、月が高く昇っていた。

人々が三々五々と家路につき、俺とエリナも用意された部屋へと向かう。リアとフェリクスが、外まで見送りに来てくれた。

「師匠、明日も村にいてくれますか」

リアが尋ねる。その瞳には、名残惜しさが滲んでいた。

俺は首を横に振り、「朝には出る」と短く告げる。

「そうですか……」

彼女は寂しそうに微笑んだ。引き止めたい気持ちを飲み込んで、「じゃあ、良い旅を」とだけ言う。

その横で、フェリクスが一歩前に出た。

「師匠、一つだけ聞いていいですか」

「なんだ」

「俺は……いつか、許されるんでしょうか」

切実な問いだった。俺は夜空を見上げ、少し考え込んでから答えた。

「分からない」

「分からない?」

「ああ。でも、それでいい」

フェリクスは戸惑った顔をする。俺は彼の目を見て、言葉を続けた。

「許されるために生きるな。ただ、生きろ。それだけでいい」

俺の言葉に、フェリクスは目を見開いた。

やがて、彼は深く頭を下げ、「はい」と短く、けれど力強く応えた。

二人は去っていった。

人形を抱くリアと、その隣を歩くフェリクス。

月明かりの下、二つの影が寄り添うように重なり、夜の闇へと溶けていく。

俺はそれが見えなくなるまで、窓辺に立ち尽くしていた。

部屋に戻ると、エリナがすでに床に入っていた。

「先生」

「どうした?」

「私、ずっと考えてたんです」

「何を」

「強さって、何かなって」

俺は窓際に座って月を見げた。

「分かったか?」

「少しだけは、わかった気がします」

エリナが体を起こし、膝を抱えた。

「強いっていうのは、諦めないことなんですよね。フェリクスさんも、リアさんも、マルクさんも、みんな一度は逃げても最後まで諦めなかった」

彼女は俺の背中を見つめ、言った。

「先生も」

俺は月を見上げたまま、動かなかった。

本当は、俺は何度も逃げた。今も逃げているのかもしれない。

だが、それを否定する言葉は出てこなかった。

「でも、私にはまだ分からないことがあります」

「なんだ」

「先生は、これからどうするんですか」

どうする。

どうするんだろう。

俺にも分からない。確かな目的も、帰る場所もない。

「……歩く」

「それだけですか」

「それだけだ」

エリナは少し考えてから、ふふ、と笑って横になった。

「じゃあ、私もついていきます」

「好きにしろ」

「はい。おやすみなさい、先生」

やがて、彼女の穏やかな寝息が聞こえ始めた。

俺は窓枠に肘をつき、月を見続けた。

欠けた月だ。でも、また満ちる。そういうものだ。

翌朝、俺は村を出ることにした。

リアとフェリクスが入口まで見送りに来てくれた。畑仕事の手を止めた村人たちも、何人か手を振っている。

エリナが大きく手を振り返した。俺も、村が見えなくなるまで小さく手を上げ続けた。

しばらく黙って歩いていたが、村が完全に見えなくなった頃、俺とエリナは街道を外れ、誰も通らない獣道を選んで歩いていた。理由は単純だ。王都から追っ手が来る可能性があるからだ。フェリクスが王位を捨てたとはいえ、あの国は今、大きな混乱の渦中にあるはずだ。誰かが責任を取らされる。そして、その矛先が俺たちに向かないとは限らない。

道を歩きながら、俺はエリナの横顔を見た。

いつもなら何か文句を言うか、質問を投げかけてくるのだが、今日は違う。眉間に小さな皺が寄り、視線は地面に落ちている。

「なあ、エリナ」

俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせた。

「な、何ですか」

「お前、実はあの村に残りたかったんじゃないか」

エリナは足を止めた。俺も立ち止まる。風が木々の葉を揺らし、ざわざわと音を立てた。彼女は俺を見ず、拳を握りしめている。

「……そんなこと、ないです」

「嘘つくな」

俺は彼女の肩に手を置いた。エリナは身体を硬くする。

「先日マルクの墓の前で泣いてただろう。俺は見てたぞ」

「見てたなら、声かけてくださいよ」

エリナは唇を噛んだ。目に涙が滲んでいる。

「あの村には、マルクさんがいて、リアさんがいて……フェリクスも、これから畑を耕して生きていくんでしょう? あそこには『家族』があるじゃないですか。でも、私たちは……」

彼女の声が震えた。

「私たちは、また歩き出す。また、どこかに行く。いつまで? どこまで? 先生、あなたは何を探してるんですか」

俺は答えられなかった。

何を探しているのか、俺にも分からない。ただ、立ち止まることが怖いだけだ。止まれば、また過去が追いついてくる。リアの死が、マルクの死が、フェリクスの叫びが、全部まとめて俺の背中に覆いかぶさってくる。

「……分からない」

俺は正直に答えた。

「俺は、ただ歩いてるだけだ。答えなんてない」

エリナは俺を見上げた。涙が頬を伝っている。

「じゃあ、一緒にいる私は? 私は何のために、先生に一緒にいると思いますか?」

「正直に言うと、分からない。でも感謝はしている」

エリナは拳を握りしめ、俺の胸を叩いた。力は弱い。怒りではなく、悲しみの拳だ。

「その言い方……ずるいですよ、先生」

彼女はそのまま俺の胸にしがみつき、声を上げて泣いた。俺は彼女の頭に手を置き、ただ黙って立っていた。風が吹く。木々が揺れる。遠くで鳥が鳴いている。世界は、俺たちの感情など気にも留めず、ただ淡々と回り続けている。

しばらくして、エリナは顔を上げた。目が赤い。鼻をすすり、袖で涙を拭う。その姿はまた昨日見た姿とは違う決意が籠っているように映った。

「……すみません。変なこと言いました」

「いや、一度は聞くべき話だった」

俺は首を横に振った。

「お前の言う通り、俺は逃げているだけだ。ずっと、逃げ続けてきた。立ち止まるのが怖くて、答えを出すのが怖くて」

エリナは黙って俺を見ている。何も言わない。ただ、待っている。

「俺が教えた弟子たちは……」

俺は空を見上げた。青い空が広がっている。雲が流れている。

「同じ道を歩んでもそう簡単には諦めなかった。マルクは最後まで『師匠なら、できます』って言いながら俺を信じて倉田。リアも待っていてくれた。フェリクスも、泥にまみれて生き直そうとしてる」

エリナの目が、少し見開かれる。

「師匠と言う地位を得た人間として、恥ずかしいながらも。俺はまだ、俺の人生に対する答えを持ってない。これからどこへ行くのか、何を探してるのかも分からない」

俺は彼女を見た。

「でも、歩くことはできる。逃げても諦めようとは思っていない。探しているんだ。答えを。自分の居場所を」

エリナは息を呑んだ。涙の跡が残る顔で、でも目は輝いている。

「じゃあ……」

彼女は小さく笑った。

「私も先生と一緒に、探します」

「いいのか?」

「はい。だって、先生一人じゃ迷子になりそうですから」

俺は彼女の頭を撫でた。

「そうだな。お前がいてくれて、助かる」

エリナは嬉しそうに笑った。さっきまでの涙が嘘のように、明るい笑顔だ。

俺たちは、再び歩き出した。

しばらく黙って歩いていると、エリナが口を開いた。

「先生、次はどこへ行くんですか」

「さあな」

俺は遠くを見た。獣道が、どこまでも続いている。

「歩いていれば、分かるだろう」

エリナは呆れたように肩をすくめた。

「本当に最後の最後まで適当ですね」

「そうだな」

風が吹き抜ける。木々が揺れ、鳥が鳴き、雲が流れる。

世界は広い。まだ見ぬ景色が、まだ知らぬ物語が、俺たちを待っている。

「先生」

エリナが隣で笑った。

「私、先生と旅ができて幸せです。これからも、ずっと一生にいてもいいですか」

俺は無口で、歩調を緩めた。答える必要はない。

エリナもそれを察したのか、嬉しそうに鼻歌を歌い始めた。知らない歌だが、悪くない。

俺たちは歩く。

振り返れば村はもう見えず、前を向けば道だけが続いている。

空は青く、雲は白く、風は優しい。

人生は何度でも、やり直せる。俺も。お前たちも。誰もが。

――良い旅を、最強の師匠。

遠くから、そんな声が聞こえた気がした。

マルクの声だろうか。それとも、リアの声か。

俺は振り返らない。ただ、片手を上げて応える。

さよならじゃない。また会おう。そういう別れだ。

陽が高く昇る。新しい一日が、もう始まっている。

俺たちは、その眩しい光の中を、並んで歩いていく。

逃げてるんじゃない。探してるんだ。

答えを持たないまま、でも止まらずに。

それでいい。

今は、俺の物語は、それでいいんだ。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

人質5歳の生存戦略! ―悪役王子はなんとか死ぬ気で生き延びたい!冤罪処刑はほんとムリぃ!―

ほしみ
ファンタジー
「え! ぼく、死ぬの!?」 前世、15歳で人生を終えたぼく。 目が覚めたら異世界の、5歳の王子様! けど、人質として大国に送られた危ない身分。 そして、夢で思い出してしまった最悪な事実。 「ぼく、このお話知ってる!!」 生まれ変わった先は、小説の中の悪役王子様!? このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!! 「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」 生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。 とにかく周りに気を使いまくって! 王子様たちは全力尊重! 侍女さんたちには迷惑かけない! ひたすら頑張れ、ぼく! ――猶予は後10年。 原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない! お菓子に惑わされて、勘違いで空回りして、毎回ドタバタのアタフタのアワアワ。 それでも、ぼくは諦めない。 だって、絶対の絶対に死にたくないからっ! 原作とはちょっと違う王子様たち、なんかびっくりな王様。 健気に奮闘する(ポンコツ)王子と、見守る人たち。 どうにか生き延びたい5才の、ほのぼのコミカル可愛いふわふわ物語。 (全年齢/ほのぼの/男性キャラ中心/嫌なキャラなし/1エピソード完結型/ほぼ毎日更新中)

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結保証】科学で興す異世界国家 ~理不尽に死んだ技術者が、「石炭」と「ジャガイモ」で最強を証明する。優秀な兄たちが膝を折るまでの建国譚~

Lihito
ファンタジー
正しいデータを揃えた。論理も完璧だった。 それでも、組織の理不尽には勝てなかった。 ——そして、使い潰されて死んだ。 目を覚ますとそこは、十年後に魔王軍による滅亡が確定している異世界。 強国の第三王子として転生した彼に与えられたのは、 因果をねじ曲げる有限の力——「運命点」だけ。 武力と経済を握る兄たちの陰で、継承権最下位。後ろ盾も発言力もない。 だが、邪魔する上司も腐った組織もない。 今度こそ証明する。科学と運命点を武器に、俺のやり方が正しいことを。 石炭と化学による国力強化。 情報と大義名分を積み重ねた対外戦略。 準備を重ね、機が熟した瞬間に運命点で押し切る。 これは、理不尽に敗れた科学者が、選択と代償を重ねる中で、 「正しさ」だけでは国は守れないと知りながら、 滅びの未来を書き換えようとする建国譚。

処理中です...