群青サルベージ

湖ノ上茶屋

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 まだ太陽はさんさんと輝いているはずだけれど、カーテンが閉まって、電気をつけるでもない家の中は夜みたいに暗い。部屋の隅っこでくたくたなクマのぬいぐるみを抱きながら、カーテンの隙間から射し込んでくる月明りみたいな太陽の光を頼りに宿題をしていた私は、隣の隣の部屋から鈍い音が聞こえてくるなり、音を殺して押し入れへ行った。そーっと扉を開けて、中に入って、扉を閉めて、体を小さく、小さくする。扉や壁、いろいろなものに阻まれながらも、鈍い音がまた耳まで届いた。今日はいつまで続くのだろう。私はいつまでこうして、お母さんの言いつけ通りに〝いない子〟になり続けるのだろう。私はいつまでこうして、私だけ〝きれいな子〟で居続けるのだろう。
 どしん、どしんと恐竜か何かが歩くかのような振動が床を伝う。私はその不穏な揺れに酔いながら、体を一層に硬くして、それが過ぎ去るのを待った。バンッ! と大きな音が二度響いた。それは、悪魔がこの家から飛び出して、世界へ放たれた合図で間違いないと、私は思った。
 もう、〝いない子〟をやめていい。もう、〝いる子〟になっていい。
 そう、心のどこかでは分かっていた。けれど、体はすぐには動かない。あの合図はフェイクだった、なんてことはないか? 〝いる子〟になったら、私も〝標的〟にされてしまうのではないか?
 本当に出て行っても平気なのかと不安を感じながら、そっと扉を開ける。物音はない。隠れている? いいや、あの悪魔はもういない。分かる。全身の神経が、いないことを感じ取っている。あの人間らしくない気配は、今は残滓しかない。
 それならば――駆けだせ。急げ。お母さんの元へ。
 私は体に「動け」と命令した。けれど、震えた体はなかなかいうことを聞いてくれない。何をされたわけでもないはずなのに、体がうまく動かない。仕方ないから、四つん這いでのそ、のそと、お母さんを目指して、いいや、冷蔵庫を目指して進む。
 冷蔵庫に手が届くほどに近づくことができた頃、小さな、狂ったような笑い声が、私の鼓膜を叩いた。気にするな。今はとにかく、ここから冷たいやつをとって、お母さんの所へ行かなくちゃいけない。それが、〝いない子〟として〝きれいな子〟であり続けた私の使命なのだから。
 笑ってしまいそうになるほどブルブルと震える手を伸ばし、冷凍庫の引き出しをグイとひく。キン、と冷たい空気が私に襲い掛かってくる。私には、抵抗する気なんかない。ただ、その冷たさを受け止めながら、冷たいやつを手に取る。冷たいやつに手の熱を奪われながら、狂った笑い声がする場所へと、私はよろめきながら急ぐ。そして私は、冷たいやつをお母さんの頬へと迷いなく近づけた。
「――っ!」
 お母さんは、あの男に好き勝手にされているときみたいな声を出して、刺々しい目でわたしを見た。それから、一瞬、〝なんだ、きれいな子か〟みたいな顔をしたかと思えば、音が聞こえるほど強く、奥歯を噛んだ。
「お、お母さん。大丈夫?」
 大丈夫であるはずがないことくらい、よく分かっていた。けれども、〝大丈夫?〟以外の声掛けを、私は知らなかった。それは、私が小学五年生だからなのか、それとも家のことを知られたくないがためにクラスメイトとの交流を断ってきたからなのかは分からない。
「つ、冷たすぎた? た、タオルとか持ってくればよかったよね。ふ、服つかう? ぬ、脱ぐ。脱ぐから、ちょっと待って」
 もうすぐ三月が終わる。ほかの地域だと、もう重ね着をしないところもあるのかもしれない。でも、ここは違う。この街ではまだ暖房をしっかりかけないと快適に過ごすのは難しい。それなのに、きちんと暖房をかけるでもないこの家では、重ね着なんて当たり前で、だから一枚くらい脱いだって大した問題はない。
 服に手をかける。するとその時、す、と服を脱がせたら赤くて青いのだろう腕が伸びてきた。
「寒いでしょう? 脱がなくていいよ。ごめんね。あんまり冷たかったから、びっくりしちゃった。あはは」
 お母さんはそう言うと、強引に笑った。
 それからしばらくすると、お母さんは魂が抜けてしまったのか、それとも何かに体を乗っ取られたみたいに、家では見たことがないキリッとした、どこか清々しさを感じるような表情を浮かべた。
 私はその顔を見て、この後何かが起こるのだ、と察した。そして、それはもしかしたら天国への切符で、もしかしたら地獄への切符で、それを受け入れなければ、私の人生は今まで通り絶望まみれのまま変わることがないのだとも。
「海」
「な、なぁに?」
「これからする話をよーく聞いて。それで、海が海のこれからのことを決めて」
 突如として、人生という名の旅の分岐点が現れた。心の準備なんて少しもできていない。けれど、時間は待ってくれない。
「う、うん。わ、かった」
 分かっていなくても、分かった以外の返答をする余裕なんてなかった。
「実はね、海には言っていなかったけれど、お母さんには妹がいるんだ。妹は、とっても遠いところに住んでいるの。飛行機を使うくらい、遠くに」
「そ、そうなんだ。な、なんで、教えてくれなかったの?」
「それは……あの人にも言っていないことだから」
 ああ、分かった。ぼんやり浮かびだした未来が、どんどんと鮮明になっていく。
「それでね、お母さん、ずーっと妹と連絡を取っていなかったんだけど。少し前、久しぶりに電話で話したの」
 言わなくていい。今は真実よりも、この波に乗る切符と、乗り遅れずにそこへ行くために準備をする時間が欲しい。指示だけくれれば、それで充分。
「それでね。お母さんは、海と一緒に妹のところへ行きたいと思っていて」
「う、うん」
「海は、どうしたい? お母さんと行く? それとも……」
 てっきり、連れて行ってもらえるものだと思い込んでいた。
 あの男といる? そんな選択肢が私に用意されているの?
 〝いない子〟が、あの男と生きていけるはずがないじゃない?
 あなたがいるから私は〝きれい〟なんだ。あなたに置いて行かれたら、私はきれいじゃなくなって、あなたみたいに傷だらけになって、あなたみたいに〝どうして生きているのかわからなくなってしまう〟に決まっている。いいや、もうすでに――私には、生きている意味も価値も感じられていないけれど。
 でも、もし。もし、お母さんと行かずに、あの男を選んだとしたら?
 そうして、私がきれいじゃなくなったとしたら?
 その時は、誰かが私を救ってくれたりするのだろうか。例えば、私を施設に入れてくれるとか。
 そんなことになったら、家族らしい何かはいよいよバラバラになるんだろうな。そこに幸せな未来はあるのだろうか?
 どんな選択をしたって、きっと、私や私たちに安らぎの場所なんてない。
 いいや、もしかすれば、お母さんにだけ安らぎの場所がある可能性はある。それは――あの男も、私も捨てて、一人になって逃げること。そうしたらお母さんは、自由だ。
「お、お母さんは、どうしたい?」
 お母さんの逃げ道を、私は奪えなかった。
「え? わたし? わたしは――海と一緒に居たいよ」
 声音を聞くに、顔を見るに、その言葉に嘘はないように思えた。
「え、えっと……ついていっても、いいの?」
「もちろん。いいよ。ううん、一緒に来て。お願い」
 今現在、私たちには安らぎの場所が存在しないのだから、お母さんの妹――私からしたらおばってことになるのかな――っていう、突然現れた存在に賭けてみるのも悪くはない。


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