群青サルベージ

湖ノ上茶屋

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 それから、私たちは荷物をまとめ始めた。スーツケースがないわけではないけれど、使っていいものではないし、そんなものを転がしていたらそれこそ〝荷物〟になるからと、お母さんは買い物の時に使うトートバックに。そして私は、遠足や郊外活動の時に使うリュックサックに。
「ああ、そういう服は置いていって。すごくお気に入りで手放したくないっていうなら仕方ないけど。できるだけ薄手のものを詰めて」
 お母さんがボロボロのスマホを握りしめながら、それに表示されている何かとにらめっこしながら、ちらりと私の様子を見て言った。
 スマホより私を見てよ、なんてことは言わない。別に、お気に入りの服なんてないから、手放すことなんて容易い。けれど、どうにも理解しがたいことがひとつあった。
「う、薄手?」
「厚いのはいらない」
 視界にはいないお母さんの声に、言葉を返す。
「い、いらない?」
 ――薄い服だけじゃ、凍えてしまわない?
 ここから逃げ出そうとする私たちに、どれだけの時間があるのか分からないからだろう。お母さんはすごく焦った様子で、家の中を身に染みついた忍び足で駆けまわる。そんなお母さんに話しかけるタイミングを見つけられなかった私は、言われたとおりに薄手の服をいくつか詰めて、リュックサックを背負った。
 私はもう、いつでも出られる。
 お母さんを見てみると、相変わらず落ち着きなく、忍者のように駆け回り、持っていくものをトートバックにぐいぐいと押し込んでいる。もう少し時間がかかりそうだ、と思いながら、時間があるのなら、なんとなく、もう二度と帰らないのだろうこの家には感謝をし、この家を記憶に刻んでおいた方がいいような気がして、身を縮めながら家の中を歩いて回った。
 その時、ランドセルが目に入った。
 あれは、持っていかないといけないんじゃないか?
 だって、あと一年あるんだもん。
 リュックサックなんて使わないで、ランドセルに荷物を詰めたほうがいいのかな。
 ううん、違う。ランドセルに、荷物を詰めたリュックサックを詰めればいいんだ。
「ランドセルは持って行かないよ」
 背後から小さな声がした。
「……え?」
「置いていこう」
 振り返る。目に入ったお母さんは、何を言っても揺らぎそうにない、芯のある表情をしていた。
 私はたくさんのものを手放さないといけない選択をしたのだと、その顔に言われた気がした。
 ハッとする。大切なものをひとつ、忘れているじゃないか。あれすら手放さないといけないとしたら、私には何が残るだろう。この一瞬、あれのことを忘れていたとしても、今この瞬間、思い出せたのなら、手放さないという選択を、私はしたい。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「く、クマ。クマは連れて行ってもいい?」
 私は押し入れに置き去りにしたままのクマのぬいぐるみを想いながら、問いかけた。
「ああ、あれか」
 いい、も、ダメ、も、なかなか返ってこない。
「いいよ。連れて行こう」
 ようやく返ってきた言葉。それでなければ、決心が音を立てて崩れ去るかもしれないと思った、今の私が迷わずに進むために必要な、唯一の言葉。
 私はそれを聞きながら、勝手に動き出した体に任せて、押し入れへと急いだ。そして、くたくたのクマに手を伸ばし、ギュッと、体がぺったんこになるくらい抱きしめる。
「よし……行くよ」
 お母さんはそう言うと、私の手を握って、引っ張って、歩き出した。布の向こう側を目にしたなら弱弱しく見えるだろうその細い腕が、たくましく見える。
 なんだか、変な気分だ。今この瞬間は、一時間ほど前と繋がっているのだろうか。
 もしかしたら私は、私たちは、どこかのタイミングから違う世界線に迷い込んでしまったのかもしれない、と思う。もしそうだとしたら、テキパキと動いて、あの男にバレないように遠くまで行かなければ、また生き慣れた世界線に戻されてしまうのだろう、とも思う。
 家を出る。この玄関を通るのはたぶん最後だ。
 そう思ったとき、ふ、と足元に違和感を覚えた。それの正体を見るべく、視線を下へと向ける。
 違和感の正体は、スカートだった。外からの風でなびいたスカートが触れたからだった。
 お母さんは、いつからスカートを履いていたんだろう? お母さんはいつだって、長いズボンを履いて、色や傷を隠していた。だから、お母さんが履いているのはズボンだって思い込んでいた。変装か何かのつもりだろうか。そういうことをしなければならないのなら、言ってくれればいいのに。そうしたら、私だって変装を――できるような服なんて、持っていないんだった。
 私は持っていない。お母さんだって、そういう服を買う余裕なんて――なんで持っているんだろう。
 私は謎めいた群青色を見つめながら、お母さんに引っ張られながら、クマをぎゅっと抱きつぶしながら、日が傾き始めた街の中へと歩き出した。
 普段はこの時間に街の中を歩くことなんてそうない。だから、「晩御飯何がいい?」なんて微笑み話しかけられて、「ハンバーグ!」なんて笑う子を見たり、背負ってみたいな、と思ったことがある塾のカバンを背負って、難しい顔をしながら歩く子を見たり、「これが終わったら飲みに行きましょうよ」とおじさんに話しかけて、「おう。しっかり決めたら一杯奢ってやるよ」なんて言われて、やる気のオーラを纏う人を見ては、あの家に居たら感じることがないのだろう心の揺れを感じた。
 まだ、続いている。違う世界線に、私たちはいる。いつ終わってしまうか分からないけれど、少なくともまだ終わっていない。そう、名前を知らない誰かを見て思う。
 そうして、いつもの世界に戻っていないことを確認しながら、どこへ向かっているのか分からないまま、ただ引っ張られるがままに移動していった先にあったのは空港だった。テレビや本でしか見たことがない、大きい建物。中にはカウンターがずらり。お土産物屋さんが並んでいて、おいしそうなものの写真がそこら中にあって、スーツケースがそこら中でがらごろしていて、笑顔と疲れ果てた顔が半分半分。
「えっと……待ってね」
 柱の陰に隠れるように立ち止まると、お母さんはそう言って、ボロボロのスマホを操作し始めた。
 そういえば、飛行機ってどうやって乗るんだろう。
 飛行機って、高くないのかな。
 もしかして、出てきたはいいけれど、飛行機に乗るお金を持ってないとか、そんなこと、あるかな。
 不安を覚えながら、お母さんの足が再び動き出そうとするのを待つ。
「よし……行くよ」
 お母さんが、私じゃない、これから行くのだろうどこかを見ながら言った。
 私はお母さんに伝わるかどうかなんて少しも分からないけれど、こくん、と頷いて、また引っ張られるがままに歩き出した。

 飛行機に乗り込むには、いろいろなことが必要だった。機械をポチポチ操作したり、出てきた券を持って、保安検査場っていうところを通ったり。
 保安検査場ってところでは、荷物を機械に通したり、自分が機械を通ったりした。まるでテレビの中に入ったみたいで、自分が今置かれている状況なんて一瞬どこかに置き忘れて、私はとてもワクワクした。お母さんの不安そうな顔を見るまで、心を弾ませていた。
 こんな時に、ひとりときめきを感じたことに罪悪感を覚えながら、歩みを進める。視界に飛び込んできたのは、たくさんのベンチ。人があふれている。窓の向こうには、飛行機がある。
「ど、どれに乗るの?」
 小さな声で問う。
「あれ」
 お母さんが指さした先にあったのはモニターで、そこには〝羽田〟と書いてあった。
 知っている。羽田がどこにあるか知っている。東京だ。大都会、東京!
 お母さんの妹は、東京にいるのか!
「ま、まだ乗らないの?」
「うん。まだ時間になっていないから。そうだ……飛行機のなかにもトイレはあるけど、トイレに行っておこうか」
「う、うん」


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