群青サルベージ

湖ノ上茶屋

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 クマを抱きつぶしながら目を閉じた。少し体を動かしただけで、重力に押し付けられているあたりからむぎぎ、と音がする。クマをいっそう強く抱く。クマは幻の悲鳴しか上げない。
 眠れそうなのに、眠れない。そんな時間が、刻々と過ぎる。いつもの風景が目に浮かんできて、そのくせ体はむぎぎ、と支えられながら、ふわわ、とした布団にくるまれている。
 ハッとした。
 私は今、生きているのだろうか。
 もしかして、どのタイミングか分からないけれど、どこかでパタッと死んじゃってたりしないかな。そうして、パラレルワールド、でいいんだっけ? そんな世界に入り込んでいたりして。
 ……そうだったらいいな。そうだったら、もう、あの男のことなんて考えなくていいってことなんだもん。
 つー、と頬を何かが駆けた。たぶん、涙だ。でも、見てもいないし、拭ってもいない。だから、涙だという確証はない。そんな、苦しい言い訳でそれをごまかす。
 私は、これまでとは違うんだ。もう、大丈夫なんだ。これからは、近くにいた誰かみたいに、普通に生きていけるんだ。
 そう自分に思い込ませながら、瞼に力を込める。頭が瞼の裏のスクリーンに、雨のイメージを投影しはじめた。しとしとと降る雨は、だんだんと塊になりはじめて、だんだんと白く染まりはじめて、だんだんと地面を覆っていく。
 地面を覆うだけでは満足しないらしい。雪はどんどんと降って、降り続けて、足から自由を奪う。
 動けなくなる。雪の中に、埋もれていく――。
「――っ!」
 私は目を開けた。はぁはぁと荒い息。体が泣いていたみたいだ。なんだか全身湿っているような気がする。
 喉が渇いたような気がするし、トイレに行きたい気もする。
 変な夢を見たことなんて気にしないでもうひと眠りしたい気もすれば、もうこの夜は一睡もしたくないような気もする。
 これだけははっきりしていることとすれば――寝なれていないベッドじゃ少しも落ち着けないし、一人でいたくはない。今の私には、このくたくたなクマじゃ、足りない。
 そろりとベッドから抜け出して、ふたりが話をしていた部屋へと向かう。もしもう寝てしまっているとしたら。その時はその時で、お母さんの布団に潜り込もう。
「――そんなこといっても、お金ないでしょ? あたしも大金持ちではないしさ、そんなにたくさんは貸せないさ」
 話し声が聞こえる。まだ起きている。
「あたし、借金歴作りたくないの。だって、アイツみたいで嫌だからさ」
「わかる。うん。わかるよ」
 困った様子の美空さんに、申し訳なさそうに相槌をうつお母さん。
「ってなったらさ」
「でも、美空に迷惑……」
「そりゃあ、迷惑だよ? このボロ家、広さだけはそこそこあるから三人で住んだってなんてことはないけど、あたしはずっと一人暮らししていたわけで? まぁ、生活にこだわりみたいなものがそれなりにあるわけで?」
「だから……」
「とりあえず、生活が波に乗るまではいればいいじゃん。姉ちゃんはさ、甘えるのが下手くそすぎるんだよ。あたしも、得意ってわけじゃないけどさ。どうにかなる時に甘えないで、どうにもならなくなってから甘えるから事が大きくて面倒くさくなるんじゃないの?」
「ごめん……」
 話しかけられない。さみしいって言えない。一人でいたくないから一緒にいてなんて言えない。
 クマをぎゅっと抱く。昨日の夜と比べたら全然寒くないはずなのに、昨日の夜と比べて、今日のほうがひどいと思うくらい、体がぶるぶる震える。
 ガチッと上の歯と下の歯がぶつかって鳴った。
「……海?」
 美空さんに気づかれた。
「あれ? 起きてたの? 眠れなかった?」
「まぁ、そんなもんだよね。ちびっ子には重すぎるよ。この逃避行」
 美空さんが、可哀そうなものを見るような目をして言った。
「姉ちゃん、寝かしつけてあげたら?」
「え、ああ、うん」
「あ、あの……」
 声を絞り出す。
「どうした?」
「私、毛布でいい」
「……は?」
「べ、ベッド、落ち着かない」
 お母さんと美空さんが、顔を見合わせた。
「海って、ベッドで寝たことないタイプ?」
「家にわたしたちが寝るベッドはなかったから……。宿泊学習の時は、どうだったんだっけ?」
「ふ、ふとん。部屋いっぱいに、ばーって」
 言うと、美空さんがふふっと笑った。
「それじゃあ、ベッドは落ち着かないね。なんなら、おしっこ漏らしそう、とか思わなかった? ここでもらしたらヤバいぞ? とか」
 首を振る。トイレに行きたいかも、とは思ったけれど、漏らしそう、とは思っていない。けれど、もしかすれば、〝漏らしたらどうしよう〟と心のどこかが思ったからこそ、トイレに行きたいかもしれないと思ったのかもしれない。
「まぁ、いいや。じゃあ、姉ちゃんと海で毛布と布団使って。あと、今晩の話はここまでってことで。続きはまた明日。おやすみ」
「え? でも……」
 私が、ふたりの話の邪魔をした。ふたりが話したい、話さないといけないことは、きっとまだたくさんあったんだ。それなのに、私が一人で眠れないから。
 悪いことをした、という感覚が少し。それよりもたくさん、嬉しい感情が湧いてくる。
 なんで私はこんな感情を抱いているんだろう。
「あたし、明日仕事だから。車で行く。そんなわけで、役所とかはバスで行ってね。お金渡すから。あと、新しいスマホ……って、もしかして、あたしが契約したほうがいいヤツ? ああ、なんかだるいな。ま、いっか。とりあえず、ふたりだけでできることだけでいいから、諸々やっといて」
「まって、美空」
「地図とか、乗るバスとかいろいろまとめておいてあげるから。じゃ、そういうことで。おやすみ」
 美空さんが、お母さんの背中をどん、と押す。立ち尽くす私の背中をとん、と押す。ふたつの背中を、押して、押して、押す。
「だけど……」
「ほらほら、しっしっ!」
 布団の部屋まで押し入れられた。
 お母さんが困った顔をして笑う。その顔を見て、私はなんだかほっとした。
 そして、つい数分前に抱いた感情の正体を、心で見た。
 何もかもを失った私は今、日常――お母さんを取り戻せたことを喜んでいる。

 小さいころだったら、ふたりで一枚の布団に寝ころんでも、なんてことなかった。でも、だんだんと大人に近づいている今、布団一枚ではどこか窮屈だった。掛けるものが別にあるといっても、できることなら硬くないところで、なんて欲を出せば、自然と体は近づいてしまう。
 くっつきたい欲と、離れたい欲がぶつかり合う。
 私たちの間には変な隙間ができては埋まる。まるで、寄せては返す波のように。
「お母さん」
「なに?」
「これから、どうなるの?」
 問いかけてみたけれど、返事はすぐに返ってこない。
 まさか、寝ちゃった?
 でも、寝ちゃったとしても仕方がないことだよね。だって、こんなに疲れる時間は、そうないもの。
「おやすみ」
 諦めて、寝返りを打てばそこにお母さんが居るのだという安心感を抱きながら、今度こそ寝ようとした。
「……とりあえず、明日、この地域の人といろいろなお話しをしに行く。それで、ちょっと待たせちゃうかもしれないけど……ちゃんと学校、行けるようにするから。おやすみ」
 思考が冴える。まるでコーヒーみたいな言葉だ、と思う。今度こそ眠れるかもしれなかったのに、今度もまた、眠れないのかもしれない。

 目が覚めたとき、隣にお母さんは居なかった。
 そのことに気づくなり、私の心臓はバクバクと鳴り出した。
 見覚えはあるけれど見慣れていない部屋に一人――不安しか膨らまない。
「お、お母さん。お母さん!」
 声を絞りながら、昨夜ふたりが話していた場所まで急ぐ。いない。けれど、視線を動かせば――いた。キッチンで、何かを作っている。
「どうしたの? 何かあった?」
 けろっとした顔で問われた。私は全身から力がしゅるしゅると抜けていくのを感じた。
「お母さん、いなかったから」
「ごめん。迷惑かけてばっかりじゃ嫌だから、朝ご飯くらい作ろうと思って」
 言いながら、卵焼きがのったお皿を、私に差し出す。
「ほら、食べて。なんて、美空のお金で買った材料で作ってるのに、わたしが言っていいセリフじゃないかもしれないけど」
「え、えっと、そのぅ……」
「あ、昨日買ったパン? あるよ。ちょっと待って」
「違う」
「うずまきパンじゃないの? じゃあ、なに?」
「そのぅ……」
 私は、彼女の名前を知ってから、その名を呼んだことがあっただろうか。いいや、ない。心の中では〝さん〟をつけて何度も呼んだ。けれど、口に出したことは、まだない。
「あ、ああ。美空なら、もう仕事に行ったよ」
 通じた。名前を呼ばなくても、もじもじしているだけで。
「そっか」
「ほら、食べて。食べたら出かけるよ」
 はじめて食べるパンを見る。何度も食べたことがある卵焼きを見る。お母さんの顔を見る。
 はじめて食べるパンよりも、今のお母さんの表情のほうが、なじみがないような気がする。


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