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しおりを挟む来てすぐは夜だったから、明かりがついていても、街の様子はよく見えなかった。
お母さんにくっついて歩く知らない街は、どこかあの街と変わらないようで、けれど何かが違って見えた。私に違和感を覚えさせるものなのが何なのか、まだ分からない。もしかしたら、空気なのかもしれないし、道路脇に生えている木の種類なのかもしれないし、日差しなのかもしれないし、色彩なのかもしれない。
お母さんは私と違って、街を見ることを楽しんではいないようだった。きっと、お母さんは大人だからだ。そして、こんなに緊張感を手放して、不思議の国に迷い込んだみたいにふるまえるのは、私が子どもだからなのだろう。
いろいろなところに行っては、お母さんはひたすらに難しい話をして、相手には見えないだろう机の下でぎゅっと握りこぶしを作っていた。お母さんを苦しめる話を私も聞いた方がいいのか、それとも聞かない方がいいのか分からなくて、自分の名前が呼ばれたとき以外はずっと鼓膜に蓋をしていた。何も聞こえない。私の聴覚を刺激するのは、私の記憶の中にある楽しい音楽だけだと、自分自身に言い聞かせていた。
「つまんないよね。ごめんね」
「う、ううん。別に、平気」
どうせ、一人で待っていて、と言われても、何もすることがない。一人でどこかへ行ってきてもいいよ、と言われても、どこへ行けばいいのかも、何をすればいいのかも分からない。だから、つまらなくていい。
「ねぇ、海」
ここが今日行く最後の場所、と言われていた建物を出たとき、水平線の向こうに消えようとする太陽を見ながら、お母さんに声を掛けられた。私は太陽を見つめるお母さんを見つめながら、ほんの少しだけ首を傾げた。
「ランドセル、気に入ってた?」
太陽を見る。あんな色だったな、と思う。どうしてあれにしたんだったっけ? 入学する前の年、みんなは入学の半年とかそれ以上前からラン活とかいうのをやっていて、高いランドセルを予約したと笑っていた。私も欲しい、と思った。私もランドセルを決めて、「これにしたよ」と話したいと思った。でも、わかっていた。園児だって、察せていた。私は高いランドセルなんて買ってもらえるはずがないと。私のランドセルが決まったのは、三月の終わり――ちょうど今頃だった。ランドセルコーナーで安売りされている、シンプルなデザインのものの中から、夕日色のランドセルを選んだ。違う。選ばされた。無難な色のほうが、あの男を刺激しないで済むからと。
「別に、気に入ってない」
とはいえ、五年も背負ったからか、なんとなく愛着を覚えてしまったけれど。
「これからは、どうしたい? ランドセルがいい? それとも、リュックサックにする?」
ふと、ランドセルがいいと言ったら、今度こそ好きなものを選ばせてもらえるのだろうかと考えた。まだ、新しい年にはなっていない。今はきっと、つぎの新入学生向けのランドセルが安売りされているはずだ。もしかしてこれは、好きな色のランドセルを背負う、最後のチャンスなんじゃないか。でも、お金がない。いくら安売りでも、リュックサックの何倍もの値段だと思う。となれば、私の選択肢は、ひとつしかない。
「リュックでいい」
「そう? ほとんどみんな、ランドセルで登校しているみたいだけど」
「別に、いい」
「何を気にしてる? お金?」
そうだよ、なんて、どうにかなると期待しないと言えない。正直に言って、そうならなかったとしたら、私はランドセルで二度傷つくことになる。
今この状況では、そんなことないよ、と嘘をつくのが一番楽な選択に思える。
「あのさ? 新品はさすがに厳しいんだけど」
言われなくても分かっていたのに、言わせてしまったことが苦しい。
「だから、リュックでいいってば」
言葉に怒気がこもってしまった。自分の口から出て行ったトゲトゲした音の波に驚く。お母さんを見る。お母さんも、顔に驚きを隠せていない。
「あ、あのね、中古だったら安く譲ってもらえるのがあるみたいで」
「だから、別にリュックで……え?」
「今度、見せてもらいに行く? それとも、リュックでいい?」
美空さんの家に帰るなり、私たちはヨロヨロと座り込んだ。たくさん歩いて、たくさん話をして、たくさん考えた。歩く以外のことはお母さんがしたことで、だから私もお母さんみたいに座り込んでしまうのはなんだかおかしい気がするけれど、頭と体はいつも一致するわけじゃない。私だって、私なりに疲れた。
「よし。それじゃあ、晩御飯の準備をしよう」
一分経ったかもしれない、というくらい短い時間の脱力だった。お母さんはもう充電完了、とでもいうかのように、すっくと立ちあがった。
「も、もうちょっと休憩しようよ」
「海はゆっくりしてて。お母さんはお料理する。あと、掃除して――」
やることを頭の中に浮かべては、口に出して整理していく。こんなお母さんを、私はよく知っている。日常だ。これまでによく似た状況だ。違うのは北と南と、男と暴力の有無。
「今日は、チャンプルー作るの。久しぶりだから、上手くできるか分からないけど」
「ね、ねぇ」
「お母さん、頑張るね!」
頑張らなくていい、って、言いたい。けれど、脳みそが言いたいと思っても、口が言いたくないっていう。
お母さんがすたすたと、足音を殺して歩き出した。
置いていかないで、って、言いたい。けれど、お母さんは私を置いて、キッチンへ行ってしまった。
ポロ、と頬を雫が駆けた。涙だ、と肌は分かっているけれど、脳みそに汗だと思い込ませる。そうだ。たくさん歩いて、たくさん考えたから。だから、目のあたりから汗が出ただけ。
ぐしぐしと目をこする。ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
ガチャ、と音がして、ぶわっと空気が駆けこんでくる。
外の世界と美空さんの驚いた顔が、視界に飛び込んでくる。
「え、えっと? 姉ちゃん、消えた?」
私を見つめて、魔法にかけられたみたいに数秒固まった美空さんが、魔法がとけるなり慌てた様子で私の両肩をぐっと掴んだ。
「姉ちゃん、消えた⁉︎」
言葉を発するたびに、声音が深刻そうな、びりびりとした響きに変わる。
「ねぇ!」
怒鳴られた。私の目からは涙が湧いて出た。言葉は少しも出て行かない。代わりに首をブンブンと横に振る。
「いるのね?」
言葉はやはり出ない。けれど、伝えなければ、きっとまた怒鳴られる。そんな未来が鮮明に見えるから、こくん、と頷く。
「はぁ、よかったぁ。それじゃあ、なんで海はこんなところで泣いてるのさぁ」
美空さんがヨロヨロと座り込んだ。美空さんには、私がなぜ泣いているのか分からないのだろうけれど、私にも、なぜ美空さんがそんなに焦るのか分からない。
美空さんが私の隣にすとん、と座った。
分からないことを聞かない同士、はぁ、と音を殺したため息をつく。
「あ、やっぱり、帰ってきてたんだ。音がしたと思ったんだけど、火を使っているところだったし……あれ? 何かあった?」
「「なんでもない!」」
私は目をぐいっとこすりながら、叫ぶように言った。
美空さんは頭を抱えていた手を勢いよく振り下ろしながら、怒鳴るように言った。
同じような声音で、全く同じ言葉を、全く同じタイミングで言った。
昨日出会ったばかりなのに、まるで双子みたいに。
びっくりして、美空さんを見る。美空さんが、びっくりした顔で私を見ている。
「……そう?」
お母さんが、不思議そうな目で私と美空さんを交互に見た。
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