群青サルベージ

湖ノ上茶屋

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 休み時間になると、みんなは思い思いの過ごし方をする。
 トイレにダッシュする人がいたり、机に突っ伏してため息をつく人がいたり、大声で歌いだす人がいたり、誰かにぶつかるかもしれないなんてことは少しも考えていない様子で戦いごっこを始めたり。
 廊下では、凜々花と凜々花の友だちが、先生から奪うようにして借りたスピーカーから流す音楽にのせて体を揺らしている。
 私はその様を、頬杖をついて見ていた。
「海もやれば? ダンス」
「――?」
「わたしも時々やる。まぁ、あのメンバーと比べたら下手くそだから。とっても気が乗った時だけだけどね」
 と、美咲が言った。私がぼーっとしている間に、扉のところまできて、一緒になってダンスを見ていたみたいだ。
「そういえば、聞いた?」
「え?」
「ほら。遊びに行こうって話、したでしょ? それで、いつなら都合がいいか、聞いておいてねって話をして――」
「ご、ごめん」
「ん? ダメって言われちゃった?」
「う、ううん。違うの。ま、まだ……聞けてない」
 言葉がだんだんと尻すぼみになっていく。美咲から返事はなかなか返ってこない。言葉は私の心でしか響くことが出来なくて、だから彼女の鼓膜を叩くことができなかったのかもしれない。
「きょ、今日、聞く。うん。今日、帰って、ご飯を食べる時とかに」
 恐る恐る、美咲がどんな顔をしているのか見てみる。その顔は、想像とは違って、柔らかくて、安堵しているように見えた。
「なんだぁ、良かった! ダメって言われてないってことは、まだ遊べる可能性があるってことだもんね!」
 そうなるんだ、と思う。そんなふうにとらえる人もいるんだ、と思う。
 もしかしたら、私は他人の心の内を自分の想像通りに違いないと決めつけてしまっているのかもしれない。
「ん? どうした? 私の顔、何かついてる?」
「な、なんでもない」
「なんでもなくないよ! 何かついてるなら教えてよ! か、鏡見たほうがいい?」
「なんでもない。何もついてない」
「本当?」
「ほ、本当!」
「……海がそんなに言うなら、そういうことだよね。なんだぁ、焦ったぁ。よかったぁ」
 もっとはっきりと言うとか、キョロキョロしないとか、そういう〝普通の人〟みたいなことができるようにならないといけない。
 そうしないと、勘違いさせてしまうみたいだから。
 でも、私にそんなことができるだろうか。
 考えれば考えるほどに、頭の中は真夜中のような深い闇に包まれる。結局、これまでと何も変わらない自分が、ただ空気を吸って、吐いている。

 学校から帰ると、まずは宿題を片付けた。それから、おやつを食べながら、〝クラスメイトと遊びに行ってもいいか〟をどうやってお母さんに聞くかを考える。
 自分の過去の中に参考になる記憶があればいいのだけれど、あいにくそんなものはない。あったとしても、どこかに消えた。
「お、お母さん、あのね――」
 クマをお母さんだと思って、声に出して練習してみる。
 相手はクマだってわかっているのに、それでも言葉がうまく出ない。
 なんと言ったらいいのか分からない。
 なんと言ったら自分が求める返答を、自分が理想とする表情で返してもらえるのか分からない。
 そもそも、求める返答が存在すること自体おかしいのだろうか。自分が返答に理想の表情を求めていることもまた、変なのだろうか。
 だんだんと思考は脱線していった。
 くたくたのクマと見つめ合うだけの時間が過ぎていく。
「ただいまー」
 鼓膜が揺れて、ハッとした。窓の外は、ほんのりと闇がとけたオレンジ色に染まっている。
 クマを放って、お母さんが真っ先に向かうだろうキッチンへ、私は急ぐ。
「お、お母さん!」
「た、ただいま。どうした? 何かあった?」
「え、えっと……」
 何も考えられていない。ただ、体が動くままに、私がクマを放ったように見えて、私はクマに蹴り飛ばされてここへきてしまっただけ。
「朝、遅刻しなかった? 大丈夫だった?」
「う、うん。大丈夫。ギリギリ、だったけど」
「そっか。それならよかった。ねぇ、今日は餃子でいいかな」
「う、うん」
「それで――なぁに? 何か、用があるんでしょ?」
 私にはお母さんの心の中がよく見えないけれど、お母さんには私の心の中がお見通しらしい。
「え、えっと……」
「遊びにでも行くの?」
「……え?」
「友だち、できたの?」
「えっと……。うん。たぶん、できた。それで、遊びに行こうって、誘われて」
「そっか。よかったね」
「いつならいいとか、ある? 何曜日とか、何時からとか、何時までとか」
「いつでもいいよ。ああ、昼間。昼間ならいいよ。人通りがあって、明るいうちに……五時前くらいには帰ってきてほしい」
「わ、わかった。お母さん、あのさ」
「なぁに?」
「なんで、わかったの?」
「んー?」
「なんで、友だち? と、遊びに行きたいって、わかったの?」
 問うと、お母さんは目じりにキラキラしたものをためて、ニッコリ笑いながら、
「だって、嬉しそうだから」と言った。
 そんなに嬉しそうだろうか。自分の顔がいまどうなっているのか気になる。鏡を見てみたい。
「ねぇ、手、空いてる?」
「な、なんで?」
「手伝ってくれたら嬉しいな、なんて」
「わ、わかった。じゃあ、手、洗ってくる!」
「え? なんで洗面所へ行くの? こっちで洗えばいいじゃん」
 だって、私――自分が今どんな顔をしているのか見たいから。

 聞きたいことは聞けた。欲しい答えをもらうこともできた。
 でも、考えることはなくならない。
 次は、美咲たちに話をしなければならない。
 なんて言う? いつ言う? どうやって?
「み、み……」
 餃子を包み終え、焼きあがるのを待つ間、私はクマを美咲だと思って練習することにした。クマは、お母さんだと思い込んだ時と変わらない顔をしているはずだけれど、どこか呆れられているような気がしなくもない。
「み、美咲。あのね、その、えっと……。遊びに行くって話。いいよって、言ってもらえたよ?」
 クマは何も答えない。口の端のあたりが、なんだか痛い。たぶん今、私はとても変な顔をしている。
「うぅ……」
 これまでずっと、友だち付き合いなんてできなくて、避けてきた。だから、いろいろなことが分からない。みんなはこんな悩みを抱えて、乗り越えてきたんだろうか。それとも、みんなみたいに生きてきたら、自然とそれは身につくものだったのだろうか。私にそういう環境がなかったから、今になってまとめていろいろやらなくちゃならなくなって、だからこんなに辛いのだろうか。
『海、もうすぐ焼けるよ!』
 お母さんの声がした。
「わ、わかった!」
 考え事を全部投げ出して、いい香りがする方へと駆ける。
「いただきますっ!」
 ちょっと焦げたところもあるおいしそうな餃子を、口に放り込む。中が熱い。舌が焼ける。痛みが走る。水をごくごくと飲む。
「そんなにお腹減ってたの?」
 お母さんが不思議そうに私を見ている。
「す、すごく美味しいから」
 お母さんが笑った。その顔を見るに、たぶん、私の嘘に気づいている。
 あれもこれも空回りしてるって自覚しながら、それをどうにも止められないまま、眠る準備を済ませて布団に潜り込んだ。今日、いろいろな役を演じてくれたクマを、今はいつも通りの相談相手として抱きつぶす。解決に至らない悩みごとをひたすら頭の中にグルグルさせ続ける。
 私は〝まぁ、なるようになるか〟とあれこれ投げ出せるほどに、強くはない。

 朝になって目が覚めたとき、クマの顔には湿り気があった。
 口の端にバリバリとした感覚。おそらくは、だらしなく口を開けて寝ていて、垂れたよだれがクマに付いたのだろう。ぐしぐしと、寝間着の袖でそれをぬぐう。
 どうせ、くたくたのクマだ。少しの、今は色がない汚れなんて、たいしたことはない。
「お、おはよう」
「おはよう」
「いってきます! あ、海、おはよう!」
「おはよう。行ってらっしゃい」
 美空さんが、手を振りながら出て行った。
 机の上に視線を移すと、そこにはほかほかのご飯と目玉焼きとスープがあった。
 ふたりより遅く起きてきた、私の分だ。
「いただきます」
「召し上がれ」
 お母さんはせっせとお皿を洗う。かちゃん、かちゃんと音がする。ジャー、ジャーと水が落ちる。バリン! とけたたましい音がする。
「ご、ごめん。手が滑っちゃった」
「け、怪我してない?」
「うん。平気。お皿は……平気じゃないけど」
 そんなものには代わりがあるんだからどうでもいいじゃん、と心のどこかが思った。
「何か手伝う?」
「ううん。いい。早く食べて準備しないと遅刻するよ?」
「ああ、うん」
 かちゃん、かちゃん、かちゃん――。
 かけらをそっと拾い上げる、高くてきれいな音がする。
 かちゃん、かちゃん、かちゃん――。
 壊れたものを片付けて、なかったことにする音は、なんだかきれいだ、と思う。


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