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しおりを挟む「まぁ、タイミング悪いもんね。ほら、姉ちゃんたちがこっち来る前に、あらかた人が決まっていただろうし。いまでも募集しているようなものって、子持ちにはイマイチだったりしそうだし。子ども産んだことも育てたこともないから、想像でしかないけど?」
「……」
「なんかあんの? これだけはダメ、みたいな条件。それが邪魔していたりするの?」
「人前に、出たくないの」
「どういうこと?」
「なんか、怖いから」
「ああ、もしも押しかけてきたら、みたいな話?」
「……」
「それとも、似たような奴が来たら嫌だ、みたいな話?」
「……」
「じゃあ、事務職とか? それこそタイミングが悪すぎるし、そもそも狭き門感がすごいけど」
「あと……」
「なに?」
「やっぱり、車、ないときつくて」
お母さんは、運転免許を持っている。だから車さえあれば、運転できる。正直、あんまり上手ではないけれど。
あっちに居たときは、あの男の趣味で買った大きな車に嫌々乗っていたりした。それで、小さな擦り傷を作っちゃって、ぼこぼこにされたこともあったっけ。
「まぁ、そうだろうね」
「でも、車を買うお金ないし。だから、まずは車を買うお金を貯められるような仕事をしなくちゃ、って思ったんだけど」
「だけど?」
「なんでもよければ、何かはあると思う。だけど、海のことを見ながら、美空に海を任せないでできる仕事は、今のところなさそうで。別にね、いきなり正社員になりたいです、みたいな欲を出す気はないの。本当に。だけど、海が学校へ行っている間は、ほかのお母さんたちの仕事の時間っていうか」
「この辺だと空きがなさそうなのか」
「い、今は」
私は荷物なのかもしれない。私は枷なのかもしれない。私さえ消えてなくなれば、お母さんは自由になれて、故郷で、嫌いになれない海を見ながら大きな翼を広げられるようになるのかもしれない。
夜の闇のようなどんよりとして重たい何かが心にのしかかる。
「車、使う?」
「……え?」
「あたし、バス通勤でいいよ。別に」
「でも……」
「車、使っていいよ。姉ちゃんが車買うまで」
「わたし、擦るかもよ?」
「軽自動車擦るって、ヤバくない? あっちで乗ってなかったの?」
「乗っては、いたけど」
「じゃあ平気でしょ。それに、ちょっとくらいだったら気にしないし? まぁ、めちゃくちゃがっつり擦ったりしたときは、いつか姉ちゃんが車を買ったときにそれをあたしの名義にして、姉ちゃんが擦った車に乗り続けるってことにでもしようか」
美空さんは、優しい女の人の仮面をかぶせたあの男なんかじゃなくて、心が空のように広い人みたいだ。美空さんの言葉がすう、と見えない風となって、私の闇まで祓っていく。
「とにかく、ちっちゃい一歩だっていいから、進んでいこう。姉ちゃんは、大丈夫。踏み出せたら、歩いていけるから」
忍び足で部屋まで戻る。祓われたはずの闇が、足音を立てながら私に迫ってくる。
クマの体を、引きちぎれそうなくらいに抱いて、潰す。
うらやましい。お母さんがうらやましい。
帰ってこられる、逃げられる故郷があって、助けを求められる人がいるお母さんがうらやましい。
私には、縋りつくしかない人と、友だちになりかけた人しかいないっていうのに。
次の日の朝、美空さんはいつもよりも早く家を出て行った。それに合わせて朝ご飯を用意していたらしいお母さんは、私が起きた頃にはのんびりとさんぴん茶を飲んでいた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
そういえば、友だちが出来そうであることも、遊びに誘われたこともまだ言えてないや。
そう気づいたけれど、その場で口に出せるほど、私の心には朝が来ていなかった。
能天気な空の下を、青を背負ってとぼとぼと歩く。
「……あ、体育着」
忘れた。忘れるなって言われたのに。忘れて行ったらどうなるのだろう。どうにかなるのだろうか。
不安が心臓を叩く。バクバクと鳴るそれをなだめる方法なんて知らないまま、家まで走って戻る。
荒い息を整える間も自分には与えない。急いで鍵を開けて、中に入ろうとした。そのとき、ふと違和感を覚えた。
家の中に突撃していきそうな足に急ブレーキをかけて、違和感の正体を探る。
「車……」
家を出たときには、確かあった。それが今はない。つまり、お母さんはもう、出かけたんだ。
それなら、何も言わなくてもいいか、と、無言のまま家の中に入る。
「あった」
準備しただけで詰め込み忘れた体育着を掴んでランドセルに押し込んでいると、玄関の方からガチャ、と音がした、気がした。
そういえば、戻ってきて鍵を開けた後、鍵をかけたっけ?
急いで記憶を探るけれど、急いでいた時の記憶は曖昧過ぎて、真実にたどり着けない。
誰か、入ってきた?
また、不安が大きく膨らみ始めた。息を殺すことはできても、拍動は殺せない。心臓のせいで、誰かにバレたらどうしよう。
耳を澄ます。
殺された足音がする。
どんどんと、近づいてくる。
「う、うわぁ!」
悲鳴がした。その声に驚いて、私はぎゅっと身を縮めた。
「なんでいるの? 学校へ行ったんじゃないの?」
知っている声だ。お母さんの声。
顔を上げる。その人を見る。やっぱり――お母さんだ。
「た、体育着、わ、忘れて……」
「な、なんだぁ……」
お母さんがよろよろと壁に倒れ掛かった。壁に体を預けたところで、力が入っていないそれは重力に勝てない。お尻がペタン、と床につく。
「お、お母さんこそ。どこか行ったんじゃないの?」
「車、貸してもらうことになったんだけど、乗り慣れてないから。ちょっと一周練習しようと思って」
「れ、練習?」
「それで、帰ってきたら鍵が開いてるから……」
お母さんが、上を向いて泣いた。
「ご、ごめん」
「いいよ、謝らなくて。……そんなことより、いいの? 遅刻しない?」
「……あっ!」
「送っていこうか? 練習がてら」
「いい。走っていく」
「そう?」
だって、こんなによろよろな人が運転するなんて、良くないと思うし。
「今度こそ、行ってきます」
「ああ、うん。行ってらっしゃい」
走る。走る。
能天気な空の下を、青を揺らして、息を切らして駆けていく。
席が廊下側で助かった。おかげでギリギリに駆けこんでも、人の波をぬわなくて済む。
慌ててランドセルから必要なものを取り出していると、
「寝坊でもしたの?」と、つばさくんがぼそっと言った。
「ああ、いや。体育着忘れて、取りに戻って」
「そっか。間に合ってよかったね」
「ああ、うん。あと、おはよう」
「お……おはよう」
つばさくんが、肩をすぼめて俯いた。私、何か良くないことを言ったのかもしれない。
「な、なんかごめん」
「な、なにが」
「なんか」
互いにそれが何だか分かっていない不思議な言葉を、見えないままに捕っては返す。
「ランドセル、ロッカーにいれてくる」
「うん。いってらっしゃい」
気まずい空気を断ち切って、後ろへと駆ける。チャイムが鳴った。廊下の窓から先生が見えた。急がないと、私が席に着くよりも先に、先生が黒板の前に立ってしまう。
青を押し込んで、前へと駆ける。名前を憶えられていない誰かの机の脇の体育着袋を蹴っちゃって、「ご、ごめん!」と深々頭を下げた。呆気にとられた顔から、前へと視線を移す。
先生がもう、いつも挨拶をする場所にいる。
ぺこぺこと小さく頭を下げながら、自分の席まで急いで戻ると、肩をすぼめて俯いた。
「はい。みんなもう大丈夫ですかね? おはようございます」
「「おはよーございます」」
教室全体が声で満ちる。元気いっぱいの声に混じって、気だるい声もする。まるでここだけ壁があるかのように、廊下側の前だけは、しんと静かだ。
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