群青サルベージ

湖ノ上茶屋

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 宿題を済ませて、おやつにと置いてあったはちゃ棒――ぽん菓子を飴で固めたようなお菓子――をかじる。食べたことなんてないはずだけれど、不思議と懐かしいような気がした。
 お母さんと美空さんが帰ってくる前にできることは何かないかと、美空さんの部屋以外をあちこち見てまわってみる。洗濯物をたたんでおこう。トイレの掃除をしておこう。あとは、何をしよう――。
 手を動かしながら、学校での出来事を思い返す。
 名前を呼び捨てられる人ができた。それってつまり、友だちってことなんじゃないかな。そんなことを考えていると、胸の奥の方から嬉しさが湧き上がってきて、口が勝手に動き出す。笑おうとする口角をなだめるのが大変だ。
 じっとしていると暴走しそうな感情のパワーを体の動きに換えて逃がしながら、せっせと動き回っていると、ドタン、と何かが落ちる音がした。
 その時、ドキン、と心臓が強く血を吐いた。
 胸の奥から湧き出ていたはずの明るい感情が、パタッと途絶えた。
 音は、私が使っている部屋からした。
 ――ものが落ちただけでありますように。
 そう願いながら、音の原因を探りに行く。
「……あ」
 視界に入ったのは、くたくたのクマだった。置いたつもりのない、置いたところから転がったとして、そこにあるのは不自然なんじゃないかと思う場所にそれはあった。
 抱き上げてみる。睨まれた気がする。ぎゅっと抱きしめてみる。黒い何かがどんどんと私の体に入り込んで、馴染んでいく気がする。吐く息がどんどんと汚れていく気がする。
 ハッとして、窓を開けた。
「ただいま……」
 どんどんと夜へ向かっていく外から吹き込んでくる、排気ガスが混ざっていても締め切った部屋よりはずっときれいそうな空気を肺いっぱいに吸い込んでいたら、お母さんの声がした。
「お、おかえり!」
 私は〝たぶん、友だちができたと思う〟と伝えたくて仕方がなくて、玄関へ走る。
「ね、ねぇ、お母――」
 お母さんは見た目には朝とそれほど変わらないけれど、心がげっそりとやせ細った様子で、今にも倒れそうに弱弱しくそこに居た。
「ああ、海。ご飯。ご飯作ろうねぇ」
「お母さん、大丈夫?」
「んー? へーき。なんでもないよ」
 口から出てくる言葉と態度が少しも一致しない。
「お母さん?」
「宿題、やっちゃいな」
「う、うん」
 そんなもの、もうとっくに終わっている。

「ただいまー!」
 美空さんの元気いっぱいな声が、玄関から少し距離があるはずのキッチンまではっきりしたまま届いた。
 それはまるで目覚ましのアラームか何かだったかのように、お母さんの体に魂を戻した。
「おかえり、美空」
 キッチンにやってきた美空さんに、ニッコリ笑って言う。
 私には見せてくれなかった強がり。私はふたりに気づかれないようにこっそりと歯を食いしばりながら、娘の私には弱さを見せてくれたんだ、だってそういう関係だから、と強がる。
「どうした? なんかあったでしょ。聞くよ。ほら、まだパワー残ってるから」
 美空さんが力こぶを作るポーズをしながら、あっけらかんと言った。
 お母さんが、口の中の苦いものが飲み込めなくて困っているみたいな顔をした。
 私には分かりそうにない、仮面の奥を見透かすような気づき。それができる美空さんにヤキモチを焼いて、私はぎゅっと拳を作る。手のひらに食い込む、ここ最近ろくに切れていない爪が痛い。
「じゃ、夜ね。海が寝てからゆっくり聞くよ。とりあえず、ごはん! お腹すいた~!」
 美空さんが無邪気に笑った。まるで、子どもみたい、と思う。なんてことない普通のスーパーで、好物をかごに入れてもらえた時にそういう表情を浮かべた子を、私はいつだったか見たことがある。
「やった! 麻婆豆腐!」
「ああ、でも、甘め。辛くしようか」
「ん? 辛くできるの? でも、面倒くさくない? いいよ、甘くて。姉ちゃんの麻婆豆腐はいつも辛かったから、甘いの興味あるし」
「そう?」
「うん」
 お母さんは、安心したように微笑んだ。
「ご飯いれようね」
「私、トイレ」
「ああ、うん。いってらっしゃい」
 私はその場から逃げた。一分だっていい。一分もなくたっていい。ただ、クマを潰したかった。北海道にいたときは、あの男の好みに合わせた辛い麻婆豆腐を泣きながら食べていた。私には、〝甘くしようか〟なんて言ってくれなかった。
 この家に居られるのは、美空さんがそれを許してくれているからだって分かっている。
 そんな美空さんに合わせようとするお母さんの気持ちが、少しも分からないわけじゃない。
 だけど、これじゃあまるで――まるで、優しい女の人の仮面をかぶせたあの男じゃないか。
 部屋に転がっているクマを乱雑に掴む。ぎゅっと、格闘技の技でもかけるみたいにクマを潰して、ギブアップを待つ。綿と布と糸の集合体は何も言わない。ただ、どこかくたびれた匂いを放つばかりだ。
「お腹痛かったの?」
 キッチンへ戻ると、美空さんが心配そうな目をしてそう問いかけてきた。
「う、ううん。なんでもない」
「そういえば、生理とか平気? トイレの後ろの棚にあるやつ、使っていいからね。あたしは特にこだわりとかないからさ、肌に合わないとか、サイズがどうとか、好みがあったら言って。次からそれ買うから」
「……うん」
「なに? なんか悩み事? 聞こうか?」
「ううん。いい」
 すとん、と腰を下ろす。ふたりの視線を感じる。ごちゃごちゃで、整理できていない感情が、その視線が不快だと喚く。
「い、いただきます!」
 食べながらは話せない。だから、食べてしまえば答えたくない質問に答えなくてよくなるはずだ。そう思って私は、麻婆豆腐をかき込んだ。
 
 どんどんと夜が深くなる。闇が〝自分たちの時間がやってきた〟と喜んでいる。
 私は「おやすみなさい」と挨拶をして、布団にもぐったふりをして、眼球に力を込めて、ひたすら起きていた。しばらくして、私が眠ったと思い込まれただろう頃。私はそっと部屋を抜け出して、ふたりの話が聞こえるところまで行くと、鼓膜の震えに集中した。
「仕事探しは? どんな感じ?」
「うん」
「どうせ、悩みのほとんどは仕事探しのことでしょ? 海は、しっかりしてるし。それなりに楽しめていそうだし? 今日はなんか、あったみたいだけど」
「うん」
「うん、だけじゃ会話にならないんだけど?」
「うん」
「それとも、クソ男のこと?」
「……」
 おかあさんが、「うん」すら言わなくなった。
「バレたとか? そういうやつじゃないよね?」
 ふたりの会話に聞き耳を立てることはできても、ふたりの姿をここから見ることはできない。だから、推測するしかないけれど――お母さんはたぶん、今、表情や、頭の動きで返事をしている。
「もろもろ制限掛けてあるんでしょ? できることを全部やってあるなら、不安になりすぎるのもよくないと思うけど。ただでさえ、普通、って括っていいのか分かんないけどさ。姉ちゃんの悩みを持ってない人と比べたら、不安に支配されやすいだろう状況なわけなんだから。不安ってもんはさ、強いんだよ。すっごく。だから、払いのけないとすぐにのみ込まれちゃうよ」
 すん、と鼻をすするような音がする。
「それで、どうした? なんでも聞くってば。本当に、姉ちゃんは甘えるのが下手くそだよなぁ。それとも、本当は甘え上手なの? だけど、あたしが頼りないから甘えられないとか? 妹に頼るなんて、とか、そんな見栄を張ってるとか?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、なにさ」
「……仕事、なくて」
 お母さんがようやく話し始めた。それはボソボソとしていてとても聞きづらい声だった。


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