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しおりを挟む今日のおやつ、というメモと共に置いてあったスッパイマンを口に放り込んで、カリカリと鉛筆を走らせる。
つまずかずに勉強できている間は、嫌なことなんてすっかり忘れて集中できる気がする。でも、難しい問題に出会ったときに、ふわりとクラスメイトの顔が脳みそに広がってくる。胸のあたりが乗り物酔いでもしたみたいにぞわぞわするから、そんなときは酔い止めでも飲むかのようにスッパイマンを放り込む。
ティッシュにくるんだ種の山が、どんどん大きくなっていく。
酸っぱくて甘いものを食べすぎているからだろうか、喉が渇く。
水筒の水が空っぽになる。
飲み物が欲しくて冷蔵庫を開けてみると、さんぴん茶のボトルが目に入った。
コップにとぽとぽと注ぐ。
ごくごくと飲めば、香りが鼻を抜けていく。
「ふわぁ……」
緊張しっぱなしだった心が、ほんの少し緩んだ気がする。
「よし、あと半分!」
てんこ盛りの宿題が、私を机に縛り付ける。そして私は喜んで、机に拘束される。
「ただいま……」
お母さんの声が聞こえた。プリントから目を離し、窓の方を見てみる。私はこの時ようやく、私がいる場所にはもう、太陽のしっぽしかないことに気づいた。
まるで太陽と示し合わせたかのように、てんこ盛りの宿題を終えたところだった。もうすぐ終わるという喜びに続いてやってきた、すべてこなした高揚感が、私の心を弾ませていた。さっきまでは少しも気にならなかったはずなのに、太陽の旅立ちに気づくと、どうにも薄暗い気がする。
このままだと、闇にのまれる気がする。
少しでも明るいほうへ、お母さんがいるほうへ、私はすぐに駆けだした。
「お、お母さん! おかえ……」
視界に飛び込んできたお母さんは、まるで月のない夜のように暗かった。
求めていたものが少しもない。
胃から何かがせりあがってきて、喉から出て行こうとする。
「お、おかえり、お母さん」
このままだとのみ込まれる。そう、心のどこかが思ったのだろう。私は作り笑顔を浮かべながら、明るい声音を強引に絞り出して言った。
「うん。ごはん、つくろうね」
「う、うん。な、何か手伝う」
「いいよ。……一人になりたいし」
お母さんは、あの男と一緒にいたときみたいな、今はもう見なくなった、心が死んだ笑顔を浮かべて、とぼとぼとキッチンへと歩き出した。ザワザワする。放っておいてはいけない気がして、そろりそろりと後を追う。
「手伝わなくていいから」
振り返る気なんてさらさらないらしい。ただ、冷たい響きの言葉だけが乱雑に投げつけられた。言葉の棘が刺さった鼓膜がキン、と痛む。
「で、でも」
「宿題でもやっておいて」
てんこ盛りだったそれは、もう終えた。
「う、うん。そうする」
私は、嘘をついた。
晩御飯は、まるで美空さんのトークショーのようだった。
仕事の愚痴や、気になったニュースのことをひたすらにしゃべっては、反応を求められた。といっても、こくんと頷けばそれでいいようだったから、私は話を聞いてはこくこくと頷き、いつもよりうんと美味しくないご飯を強引に噛んで飲んだ。
「それで? 何かあったの?」
美空さんが、お母さんのお皿から揚げ色の甘い魚のフライを奪い取って、口に放り込んで、もぐもぐしながら言った。
「……別に」
「はぁ。じゃあ、また後で聞くわ。んで? 海は? 友だちとはどんな感じ? いい感じ?」
「べ……別に」
「何それ。親子かよ。……いや、親子か。っていうかさ、何かあったの? に対して別に、はさておいて、いい感じ? に対して別に、はおかしくない? あれ? おかしくないか。あぁ、日本語ってどうしてこうも難しいんだろうね~。もっと単純な言語の国に生まれたかったかも~」
美空さんが、お母さんのお皿にきつね色をした魚のフライをのせながら、口を尖らせた。
「うまく、いってないの?」
お母さんがぼそりと言った。言葉のお尻は疑問の響きをしていた。だから、お母さんの近況報告ではなく、私への問いだと思った。
「……そんなこと、ないよ?」
「ほんとう?」
「……」
約束は、簡単に破ってはいけない。
じゃあ、嘘はどうだろう。
簡単についてはいけないだろうことは、私にもわかる。
じゃあ、どのくらいならいいのだろう。
ついさっき、私はひとつ、嘘をついた。
今、私はまたひとつ、嘘を重ねてもいいのだろうか。
考えていたら、言葉が出なかった。
「そう」
お母さんが微笑んだ。きつね色をつまんで、がぶりとかじった。
次の日の放課後、まっすぐ家に帰ると、珍しくお母さんがいた。ここ最近はずっと、仕事探しや面接なんかで忙しくしていたっていうのに。今日は特に予定がない日なんだろうか。予定を聞くでも、聞かされるでもないから、私にはよく分からない。
お母さんは群青色のスカートを履いて、洗面台の鏡を見ながら、髪の毛をとかしている。
「これからお仕事探しに行くの?」
「――っ!」
問いかけると、お母さんはひどく驚いて、荒く息をし始めた。
「ごめん、驚かせちゃった……。た、ただいま」
「お、おかえり」
「今日は、どこかへ行くの?」
「……え?」
「いや……いつもと格好が違うから」
「そ、そうかな」
「うん。久しぶりに見た。そのスカート」
「きょ、今日は面接があるの。だから、パワーをもらえそうな服で行こうかな、って、思って」
「ふーん」
「――帰ってくる前に出ようと思ってたんだけどな」
お母さんの呟きが、鼓膜を揺らす。それは、私に聞かせるつもりなんて微塵もない、心の声のようだった。私にはそう思えたから、私はそれを聞かなかったことにした。
「宿題、やってくる」
「頑張ってね」
「うん。お母さんもね」
今日の宿題は別にてんこ盛りではないから、すぐに終わるだろう。鉛筆を走らせて、間違いがないかを確認して、おやつを口に放り込んで、これでおしまい! とノートを閉じる。
窓の外はまだ明るい。窓を開けて風を入れてみると、ジメジメした、ほんの少しだけ冷たい風が頬を撫でた。もうすぐ経験したことのない夏が来る。そんな気がした。
ぼーっと美空さんが帰ってくるのを待つ。
自分にも何かできることがあるんじゃないかと思って、キッチンにあるものをあれこれ見てまわる。
フライパンとか、お鍋とか、まな板に、包丁――物の場所を確認する。それから、食べ物の場所も。冷蔵庫を開けて、普段は引っ張り出したりしないトレーを引っ張り出して、かくれんぼしているものを見る。箱に入ったおいしそうなチョコレートと賞味期限が切れた納豆を見つけた。チョコレートはご飯にならないけれど、納豆ならおかずにできるかもしれない。とはいっても、卵焼きくらいだったら私にも作れるけれど、納豆をどうにかするアイディアは、今の私にはない。
「……料理、得意じゃないし。何か作っても、迷惑かな」
後ろ向きな考えがひょこりと顔を出した。それは前向きな考えを丸呑みして、大きくなる。
「何もしない方がいいよね? 余計なことはしない方がいいよね? きっと、そうだよね?」
自分で自分に言い聞かせる。直視したくはない、私には成長する気がないのかもしれない、という気づきに蓋をする。
『海っ! いる⁉』
玄関ドアが勢いよく開く音がしたかと思えば、美空さんの叫ぶような声が聞こえた。
私はぶるっと身を震わせて、それから玄関を見るために、おっかなびっくり顔を出した。
「い、いるよ?」
「姉ちゃんは⁉」
「え?」
「姉ちゃんは、いる⁉」
「い、いや……。けっこう前に、出て行った、けど。面接があるって言って」
すると美空さんは、焦った様子でスマホを操作し始めた。誰かに電話をかけたけれど、すぐに出てもらえないことにいら立ちを隠さなかった。
「海、出かける準備、しておいて」
「え、えっと……?」
「もしかしたらけっこう長旅になるかもしれないから、そのつもりで」
「なんで?」
「……あとで言う。早くして」
「ご飯は?」
「そんなものあとでいい。それに、ご飯なんて朝昼晩って決まった時間に食べなくたって死なないから!」
「お、お母さんは?」
「そのお母さんを、これから追いかけるの!」
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