群青サルベージ

湖ノ上茶屋

文字の大きさ
29 / 40

29

しおりを挟む

 今日のおやつ、というメモと共に置いてあったスッパイマンを口に放り込んで、カリカリと鉛筆を走らせる。
 つまずかずに勉強できている間は、嫌なことなんてすっかり忘れて集中できる気がする。でも、難しい問題に出会ったときに、ふわりとクラスメイトの顔が脳みそに広がってくる。胸のあたりが乗り物酔いでもしたみたいにぞわぞわするから、そんなときは酔い止めでも飲むかのようにスッパイマンを放り込む。
 ティッシュにくるんだ種の山が、どんどん大きくなっていく。
 酸っぱくて甘いものを食べすぎているからだろうか、喉が渇く。
 水筒の水が空っぽになる。
 飲み物が欲しくて冷蔵庫を開けてみると、さんぴん茶のボトルが目に入った。
 コップにとぽとぽと注ぐ。
 ごくごくと飲めば、香りが鼻を抜けていく。
「ふわぁ……」
 緊張しっぱなしだった心が、ほんの少し緩んだ気がする。
「よし、あと半分!」
 てんこ盛りの宿題が、私を机に縛り付ける。そして私は喜んで、机に拘束される。
「ただいま……」
 お母さんの声が聞こえた。プリントから目を離し、窓の方を見てみる。私はこの時ようやく、私がいる場所にはもう、太陽のしっぽしかないことに気づいた。
 まるで太陽と示し合わせたかのように、てんこ盛りの宿題を終えたところだった。もうすぐ終わるという喜びに続いてやってきた、すべてこなした高揚感が、私の心を弾ませていた。さっきまでは少しも気にならなかったはずなのに、太陽の旅立ちに気づくと、どうにも薄暗い気がする。
 このままだと、闇にのまれる気がする。
 少しでも明るいほうへ、お母さんがいるほうへ、私はすぐに駆けだした。
「お、お母さん! おかえ……」
 視界に飛び込んできたお母さんは、まるで月のない夜のように暗かった。
 求めていたものが少しもない。
 胃から何かがせりあがってきて、喉から出て行こうとする。
「お、おかえり、お母さん」
 このままだとのみ込まれる。そう、心のどこかが思ったのだろう。私は作り笑顔を浮かべながら、明るい声音を強引に絞り出して言った。
「うん。ごはん、つくろうね」
「う、うん。な、何か手伝う」
「いいよ。……一人になりたいし」
 お母さんは、あの男と一緒にいたときみたいな、今はもう見なくなった、心が死んだ笑顔を浮かべて、とぼとぼとキッチンへと歩き出した。ザワザワする。放っておいてはいけない気がして、そろりそろりと後を追う。
「手伝わなくていいから」
 振り返る気なんてさらさらないらしい。ただ、冷たい響きの言葉だけが乱雑に投げつけられた。言葉の棘が刺さった鼓膜がキン、と痛む。
「で、でも」
「宿題でもやっておいて」
 てんこ盛りだったそれは、もう終えた。
「う、うん。そうする」
 私は、嘘をついた。

 晩御飯は、まるで美空さんのトークショーのようだった。
 仕事の愚痴や、気になったニュースのことをひたすらにしゃべっては、反応を求められた。といっても、こくんと頷けばそれでいいようだったから、私は話を聞いてはこくこくと頷き、いつもよりうんと美味しくないご飯を強引に噛んで飲んだ。
「それで? 何かあったの?」
 美空さんが、お母さんのお皿から揚げ色の甘い魚のフライを奪い取って、口に放り込んで、もぐもぐしながら言った。
「……別に」
「はぁ。じゃあ、また後で聞くわ。んで? 海は? 友だちとはどんな感じ? いい感じ?」
「べ……別に」
「何それ。親子かよ。……いや、親子か。っていうかさ、何かあったの? に対して別に、はさておいて、いい感じ? に対して別に、はおかしくない? あれ? おかしくないか。あぁ、日本語ってどうしてこうも難しいんだろうね~。もっと単純な言語の国に生まれたかったかも~」
 美空さんが、お母さんのお皿にきつね色をした魚のフライをのせながら、口を尖らせた。
「うまく、いってないの?」
 お母さんがぼそりと言った。言葉のお尻は疑問の響きをしていた。だから、お母さんの近況報告ではなく、私への問いだと思った。
「……そんなこと、ないよ?」
「ほんとう?」
「……」
 約束は、簡単に破ってはいけない。
 じゃあ、嘘はどうだろう。
 簡単についてはいけないだろうことは、私にもわかる。
 じゃあ、どのくらいならいいのだろう。
 ついさっき、私はひとつ、嘘をついた。
 今、私はまたひとつ、嘘を重ねてもいいのだろうか。
 考えていたら、言葉が出なかった。
「そう」
 お母さんが微笑んだ。きつね色をつまんで、がぶりとかじった。

 次の日の放課後、まっすぐ家に帰ると、珍しくお母さんがいた。ここ最近はずっと、仕事探しや面接なんかで忙しくしていたっていうのに。今日は特に予定がない日なんだろうか。予定を聞くでも、聞かされるでもないから、私にはよく分からない。
 お母さんは群青色のスカートを履いて、洗面台の鏡を見ながら、髪の毛をとかしている。
「これからお仕事探しに行くの?」
「――っ!」
 問いかけると、お母さんはひどく驚いて、荒く息をし始めた。
「ごめん、驚かせちゃった……。た、ただいま」
「お、おかえり」
「今日は、どこかへ行くの?」
「……え?」
「いや……いつもと格好が違うから」
「そ、そうかな」
「うん。久しぶりに見た。そのスカート」
「きょ、今日は面接があるの。だから、パワーをもらえそうな服で行こうかな、って、思って」
「ふーん」
「――帰ってくる前に出ようと思ってたんだけどな」
 お母さんの呟きが、鼓膜を揺らす。それは、私に聞かせるつもりなんて微塵もない、心の声のようだった。私にはそう思えたから、私はそれを聞かなかったことにした。
「宿題、やってくる」
「頑張ってね」
「うん。お母さんもね」
 今日の宿題は別にてんこ盛りではないから、すぐに終わるだろう。鉛筆を走らせて、間違いがないかを確認して、おやつを口に放り込んで、これでおしまい! とノートを閉じる。
 窓の外はまだ明るい。窓を開けて風を入れてみると、ジメジメした、ほんの少しだけ冷たい風が頬を撫でた。もうすぐ経験したことのない夏が来る。そんな気がした。
 
 ぼーっと美空さんが帰ってくるのを待つ。
 自分にも何かできることがあるんじゃないかと思って、キッチンにあるものをあれこれ見てまわる。
 フライパンとか、お鍋とか、まな板に、包丁――物の場所を確認する。それから、食べ物の場所も。冷蔵庫を開けて、普段は引っ張り出したりしないトレーを引っ張り出して、かくれんぼしているものを見る。箱に入ったおいしそうなチョコレートと賞味期限が切れた納豆を見つけた。チョコレートはご飯にならないけれど、納豆ならおかずにできるかもしれない。とはいっても、卵焼きくらいだったら私にも作れるけれど、納豆をどうにかするアイディアは、今の私にはない。
「……料理、得意じゃないし。何か作っても、迷惑かな」
 後ろ向きな考えがひょこりと顔を出した。それは前向きな考えを丸呑みして、大きくなる。
「何もしない方がいいよね? 余計なことはしない方がいいよね? きっと、そうだよね?」
 自分で自分に言い聞かせる。直視したくはない、私には成長する気がないのかもしれない、という気づきに蓋をする。
『海っ! いる⁉』
 玄関ドアが勢いよく開く音がしたかと思えば、美空さんの叫ぶような声が聞こえた。
 私はぶるっと身を震わせて、それから玄関を見るために、おっかなびっくり顔を出した。
「い、いるよ?」
「姉ちゃんは⁉」
「え?」
「姉ちゃんは、いる⁉」
「い、いや……。けっこう前に、出て行った、けど。面接があるって言って」
 すると美空さんは、焦った様子でスマホを操作し始めた。誰かに電話をかけたけれど、すぐに出てもらえないことにいら立ちを隠さなかった。
「海、出かける準備、しておいて」
「え、えっと……?」
「もしかしたらけっこう長旅になるかもしれないから、そのつもりで」
「なんで?」
「……あとで言う。早くして」
「ご飯は?」
「そんなものあとでいい。それに、ご飯なんて朝昼晩って決まった時間に食べなくたって死なないから!」
「お、お母さんは?」
「そのお母さんを、これから追いかけるの!」


しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―

コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー! 愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は? ―――――――― ※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-

設楽理沙
ライト文芸
2025.5.1~ 夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや 出張に行くようになって……あまりいい気はしないから やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀ 気にし過ぎだと一笑に伏された。 それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない 言わんこっちゃないという結果になっていて 私は逃走したよ……。 あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン? ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 初回公開日時 2019.01.25 22:29 初回完結日時 2019.08.16 21:21 再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結 ❦イラストは有償画像になります。 2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

Husband's secret (夫の秘密)

設楽理沙
ライト文芸
果たして・・ 秘密などあったのだろうか! むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ  10秒~30秒?  何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。 ❦ イラストはAI生成画像 自作

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...