たましぃかえる

湖ノ上茶屋

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 彼女は私を本物の、人間の子どもだと思い込んでいるかのように接してくれた。朝と寝る前の挨拶はもちろん、「今日はいいお天気だね」「雨が降ってきたみたいだよ」といった声掛けを、ぬいぐるみの私にも必ずしてくれた。ごはんを食べさせる真似をしてくれたり、「眠たいね」と言って、子守唄を歌ってくれたりもした。

 抱っこされてゆらゆらと揺られるのは、心地がいいようで、けれどどこか危なっかしい抱き方をするものだから、さながら子ども向けのコースターにでも乗っているかのような心地だった。

 つい最近、準備したけれど使うことが出来なくなってしまった、彼女の子ども用のおむつを履かせてもらったことがある。その時は、当たり前のようにおしっこは出なくて、おしっこが出たときに色が変わるという線に変化が起こることもなくて、ふたりして現実を見たり、感じたりしながら、〝可笑しいね〟と笑いあった。

 それからは、私のおむつは人形用の布パンツになった。決して汚れることのないそれは、彼女の気まぐれで替えてもらえる。この前は水玉柄、今日はチェック柄――。次に替えてもらえる時は、いったい何柄なのだろう、と考えるのは、私のささやかな楽しみだった。

 彼女は私をお世話しながら、ふと現実の可笑しさに気づくといつも、まるで青空から突然滝のように雨が降ってきたかのように不安定になって、震えて、私の綿がひどく偏りそうなほどに、幻の痛みを感じるほどにぎゅっと、ぎゅーっと抱きしめた。それから、時に子どもに、時に私に、時に何かにむかって、狂ったように謝った。

 正直を言うと、その様はとても怖かった。普通ではない彼女のそばに居なければならないことが、怖くて仕方がなかった。

 けれど、幸せでもあった。

 身動きの取れない永遠は、時に恐怖が垂れてくるものの、彼女と共にいる時間は、愛であふれたプールにぷかぷかと揺蕩うかのようで、あたたかくて、心地よかったのだ。



 渇望しながらも手に入れることができなかった愛に溺れていたある日、
 ――ぴちゃん。
 と、どこからか音がした、気がした。
 今、その時のことを振り返ってみると、その音は新たな生命が芽を出した瞬間の、福音だったのだろうと思う。



 彼女は今、おそらくは扉を開け放ったトイレで、ゲロゲロと吐いている。そんな、苦しい音だけが私のもとへとやってくる。
 私には、動かぬ体を恨みながら、ただ、じーっと、じーっとしながら、理由もわからぬままに、「早く調子が良くなりますように」と願うことしかできなかった。

 一点集中の目は、レースのカーテンの向こうにしんしんと降り落ちる雪を、眼光でもって解かすほどに鋭く見ている。けれど、私はいくつもの雪を解かし損なっている。きっと今頃、外へ出たら、白い絨毯が敷き詰められていることだろう。

 思考の中に作り上げた想像の世界でも、現実と同じように雪が降り、地面を白く染め始めた。だんだんと敷き詰められていく白の隙間に、まだ地面が見える。その様は、さながら自分の魂を理想の魂に塗り替えようと、不器用にあがいた跡のように見えた。本当はきれいな魂など持っていないのに、持っていると偽るために化粧を始めたように思えた。私はひとり、ひそかに嗤った。どうせ、夢から醒めるように、積もった雪はいつか解けるのだ。暗い色が広がった場所は、それを掘り起こして一から土壌を育てなおさないかぎり、永遠に清くなることはない。雪は美しいものであるが、隠したいものを刹那隠してくれるが、魂に染み入り内面をも飾ってくれるものではない。

 よた、よたと危なっかしい足音が聞こえた。私は視覚と絶望に集中するのをやめて、聴覚を尖らせた。
 近づいてくる。こちらへ来る。ほぅら、やっぱり。彼女が私の元へとやってきた。

 私の視界に入った彼女は、トイレへ行く前からやつれていたけれど、いっそうにげっそりとやつれたように見えた。彼女はゆっくりと腰を下ろす。私の視界からすぅっと消えた。ふぅ、と震えたため息の音。

 そういえば、今日はまだ「おはよう」と言ってもらえていないな。数日前から替えてもらえていない布パンツを、今日も替えてもらえそうにないな、と、私は彼女の気配を感じながら思う。


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