たましぃかえる

湖ノ上茶屋

文字の大きさ
5 / 17

5

しおりを挟む

 暖房でぽかぽかの部屋にずっといると、夢に溺れているかのようにまどろんでしまう。

 心地いい雲のベッドで天空を旅するかのように、脱力し、とろん、とうつろに一点を見ていると、視界の隅を彼女がかすめた。動き出したらしい。私は体中の毛に神経を張り巡らせるようにして、彼女の動きを探った。キッチンへ行った。冷蔵庫を開けた。何かを飲んだ。けれどすぐに、吐き出した。また、彼女が視界の隅に入った。そうして、消えた。彼女はまた、私の視界の少し下で、体を横たえ休ませているようだった。ふぅ、はぁ、と苦し気な音を、私の長い耳が拾う。体が動けば、背中をさするくらいのことはできるはずなのに。こうして誰かが苦しんでいる音だけを強制的に聞かされるのは、どうにも心地が悪い。

 行動できずにモヤモヤとすればするほど、彼女に自分を投影して、人間の肉体を有していた時に、誰にも助けてもらえなかった自分を慰めるように、彼女の背中をさすりたいと自己中心的に考える。そして、そんな自分をひとりひそかに嫌悪する。

 自分を一番に想う、相手への愛のない手など、あっても邪魔だろう。
 だから、私は何も行動できなくていいのだ。行動できないからこそ、誰かを不快にする機会を手放すことができているのだ。この体になったことに感謝しよう。私の魂が居ついた場所が、例えば電池式のロボットであったとしたら。その時は、ぎぃぎぃと体を動かして、彼女のもとへと駆けだしたのだろうから。

 そうして、彼女をより一層不快にしたのだろうから。
 だから、いいのだ。このままでいいのだ。私は今、この心地の悪さをただ受け入れるべきなのだ。このままでいることが、私にとっては最善の状態であるのだ。

 思考が熱を持つ。体は暖房で温められ、火照る。頭の先から足の先まで、ストーブで焼かれるように熱い。
 このままでは、しばらくはまどろめない。
 ただ、熱い鍋の中に沈められたまま、鍋が冷めるのを待つほかない。



 それから数週間後、彼女の体調はようやく落ち着きを取り戻した。その頃にはまた、朝と夜の挨拶を必ずしてもらえるようになっていた。

 布パンツも、気まぐれに替えてもらえる。〝楽しい〟と〝安心〟が戻ってきたことに、私は安堵した。ようやく、再びぼーっとまどろむことができる。平穏な時の流れに乗ることができる。

 ある時から、彼女は朝と夜の挨拶だけではなく、「いってきます」と「ただいま」も私に言ってくれるようになった。そのご褒美のような声掛けにはよく、笑顔の仮面の奥に強烈な緊張が隠れていた。心の内を隠すのが上手ではない彼女の行く先がどこであるのかを知るのに、「ただいま」を待つ必要などなかった。張り詰めた日に行く先は病院で、そうではない日は買い物やお散歩だと、私は気づいていた。

「いってきます」

 その日、彼女は私にニッコリと笑いかけて、少し不安げで、重たくて、けれど弾むような足取りで出かけて行った。今日は病院へ行く日なんだ。きっと、帰ってきたらまた、たくさん話をしてもらえる。私への愛なんて微塵もない、一方的な愛の話をひたすらに。

 今や挨拶だけの関係で、抱きつぶしてもらえない私の目は、彼女のふっくらした気がする顔を見られても、表情に柔らかさを感じることができても、気になる彼女の腹部を確認することはできない。

 彼女が病院から帰ってきたときに、いつもする話は本当か。
 それは、作り話ではないのか。
 それが、嘘偽りのない話であるとするならば――二人とも元気でありますように。

 そう、そっと祈ると、視界がぼやけた。自分の中に存在した愛が顔を出して、記憶の中の愛されなかった自分が、それを泣きながら、奪い取るようにして持っていく。

 これは、あたしのものなんだからね! と、欲望をむき出しにして。

 私だって、愛されたかった。
 そう、愛されたかったんだ。
 愛というものを受け取ってみたかった。

 ――わかる。わかるよぅ。私には、あたしのきもちがわかるよぅ。

 私は気持ちだけ幽体離脱するようにそっと抜け出して、私の今の体をぎゅーっと抱きしめた。ふかふかの体は、なんとなく、涙で濡れているような気がする。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...