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親しい人がいるような感じだし、いて当然の人柄だ。自分とは、友達ですらないだろう。バイト先の、本社の社員だ。フラゴラで働いたことがあるようだが、それも自分とは直接接点がない。よくて知人の関係だ。でも、昨夜と今朝の待遇は、知人の枠を超えていたと思う。じゃぁなんだと言われると困るし、理解できない。
あの後、服の乾燥が終わるのを待って、着替えて帰宅の途中である。
伊住の家を出る前に、スマホから、もらったアドレスにメールを送り、携帯の電話番号を交換した。昼休みだと思われる時間に、伊住から連絡があり、昨夜買ったアイスを食べ忘れたので、是非また遊びに来て欲しいとのこと。こちらとしては、借りたお金の件もあるし、会うのは当然なのだが。
「家にお邪魔する、って相当親しいとか、信用してるとかないと、ありえなくないか?」
自分が今まで生きていた中で培った常識と照らし合わせて、首をかしげる。ましてや、お金を立て替えるなんて。
「どういうつもりなんだろう。」
最寄りの駅で電車を降りて、商店街のアーケードに向かう。駐輪場に自転車を見つけて、鍵を外した。朝が軽めだったからお腹が空いているが、商店街の食べ物屋さんは、月曜はみんな休みである。帰り道のコンビニで弁当でも買おうと算段をつけて、自転車を乗り出す。
暑くなり始めた、十時半。思えば伊住はずいぶん早く出社したように思う。何か用事があったのだろうか。それなのに、自分の世話を焼かせてしまった。
悪いことしたな。
今度ちゃんとお礼をしよう。
贈り物をするのがいいのか、一緒に食事はどうかとか、考えながら自転車を走らせる。途中のコンビニはすぐそこだ。
お礼に渡すものって、なんだろう。食べ物が無難だろうが、なにが好きかもわからない。こんな風に、相手のことを考える経験が乏しくて、自分は今まで一体何をしてきたんだろうかとため息が出る。誰かに相談?誰に?リアルで話せるのは、フラゴラの不破と天羽くらい。もしくは妹、とか。
考え事をしながら、コンビニの狭い駐車場の端に自転車を停め、鉄製の車止めにチェーンを掛ける。サコッシュにスマホがあるのを手のひらで確認して、自動ドアをくぐった。
アパートに越してから、泊りの用事がなかったので、少し妙な感じを覚えながら鍵を開ける。部屋の中を見回すが、特に変わった様子はない。ぶら下げていたレジ袋のお弁当を座卓に置いて、手を洗う。ついでに顔をざぶりと流して、かけっぱなしのごわついたタオルで、無造作に拭った。当たり前だが、伊住の家のもののような、いい匂いはしない。
暑い・・・。
自転車をこいで坂道を登れば、あっという間に汗で濡れる。着ていたシャツを脱いで、洗濯機に放った。ふわ、と汗に混じって、伊住の使っている柔軟剤の匂い。洗って、消してしまうのはもったいないが、汗の匂いは放置できない。はーっとため息をつく。
なにオレ・・・。どうしちゃったの。
伊住の匂いを思い出して、もやっとした気持ちになる。
いい匂いも、ふわふわの肌触りも、柔らかな話し方も、美味しいご飯も・・・初めてのことだらけで。たぶん・・・だから。不思議体験をして、まだ夢の国から帰ってきた実感がわいていない。そんなカンジ。
お昼でも食べて、少し寝たら、きっといつも通りの日常だろう。
薄い座布団に座り、レジ袋からとんかつ弁当を出して、蓋を開ける。油の匂いを吸い込んで、ため息する。
そうそう。これだよ。帰ってきたね。
いただきます、と手を合わせて、割り箸を割る。少し、容器の匂いが移った白米を頬張り、飲み込んだ時だった。
どん!がしゃぁん!
壁の向こうに何かぶつかる音。割れる音。怒鳴り声と、泣き声。
・・・だめだこれ。
誰かに知らせないと。
食べる手を止めて、流しに行き、コップに水を注いで飲み干す。戻って、スマホを手に取り、アドレスをたどる。
大家さん、でいいよな。
警察や児童相談所は、大家さんの判断にまかせよう。
・・・あぁそうか。子供、夏休みだから家にいるんだな。
どうにかしてあげたい気持ちと、ただ自分がストレスから逃れたい気持ち。半分ずつくらい。
子供もかわいそうだけど、しんどそうな母親も辛い。
手が足りなくて、いつもイライラしていた自分の母親と被る。
育てるのが大変なら、生まなきゃいいだろ・・・。
言いたい。でも、そんなに単純じゃないってわかる程度には大人になったつもり。
ドキドキと心臓がうるさい。
電話がつながる音が聞こえ、聞き覚えのある女性の声が聞こえたが、どう話したらいいかわからなくて、言葉が出なかった。
「えぇ・・・それで、どうしたのよ?」
フラゴラの事務所、更衣室のカーテン越しに、天羽が尋ねる。
月曜の、帰宅のその後の話しである。
天羽には、最近隣の親子の騒音で、眠れていない話は少ししていた。天羽は、子供の声とか足音とかのことだと思っていたし、よその家庭の踏み込んだ話もする気はなかったのだが。
電話で、話しを聞いてくれた大家さんは、夕方自分の部屋に来て、様子を確認した。親子が越してきてから、すぐに始まった、虐待を思わせる「音」や「声」。気がついていたけれど、母親といさかいになったり、恨まれたりしたくなかったとか、子供の安全が心配だったとか、簡単には動けなかった「言い訳」を聞いてくれた。その後、隣の部屋に行ったようだが、どういう話をしたかはわからない。ただ、その夜は泣き声は聞こえなかった。
着替えて出てきた天羽と入れ違いに、更衣室に入る。
出来事をかいつまんで話して、できれば引っ越したい、とこぼしていた。
大学を出て、就職のために借りた部屋。まだ半年しか住んでないから、引っ越すとなるとお金がかかる。マンスリーにしておけばこんなことには、と思うが、こんなことになるとは思わなかったのだ。会社がブラックですぐ辞めることになるとか、隣に問題のありそうな親子が越してくるとか。隣の子供の行く末は気になるが、逃げだしたい、関わりたくない気持ちが強かった。
「オレ、何にもしてあげられないっすもん・・・。」
「まぁ。そうよね。第三者に相談しただけで、十分よ。あとは、もっと経験のありそうな人にまかせるべきね。・・・引っ越せたらいいわね。大家さん、いい人そうなら相談してみたら?」
いい人そうなら、か。
古いアパートの大家は、リタイアした老夫婦だ。話を聞いてくれたのは、夫人の方。優しそうな人だけれど、家賃収入を当てにして生活しているだろうから、それはそれで困るだろうし・・・。
お世話になっているとはいえ、人が良すぎじゃないか?思いはすれど、損な性分で。持ちつ持たれつ生きているのだ。できれば平和的に解決したいところである。
「はぁー・・・。」
溜息をつきながら、着替えを済ませてカーテンを開けると、不破が出勤したところで、おはよう、と挨拶された。おはようございますと返しつつ、もう一つため息。
「どうしたの?」
「結論だけ言うと、引っ越したいんですけど、お金なくて。」
不破は、あぁ、と思案気に視線を天井に彷徨わせた。
「・・・そういえば、試用期間終わったら、バイトでも社員寮使えるって話、晴海さんから聞いてない?」
・・・あ。
不破の言葉にハッとして、そういえばそんな話あった!と手を打つ。
「夏休みで繁忙期だし、秋ぐらいまで我慢できそうなら、本社に打診しておくけど。」
渡りに船だ。それくらいならなんとかなりそう。
「もう、ぜひぜひお願いしたいです。」
「・・・寮はいると、通勤、距離あるけど・・・。あと、ここが嫌になっても辞めにくいけど。」
「・・・頑張ります。」
今の環境よりはいいだろう。
大家さんに話しておこう。隣の親子も、しばらくは静かかもしれないし。
よし。頑張ろう・・・。
火曜の営業をそつなくこなし、休憩中に買って置いた総菜を自転車のかごに入れての帰り道。忘れていたわけではないのだが、後回しにした伊住への返金を入れる封筒を買いに、コンビニに寄った。なんとなく、アイスの冷凍庫を見る。「市場調査」と称して買ったアイスは、もう食べただろうか。伊住を思って、アイスを選ぶ。
「これだな。」
昔からある小豆のアイスを手に取りレジへ。財布を開け、紙幣を出した拍子に、折り畳んだ紙片が零れ落ちそうになって慌てる。拾い上げ、お守り落とすなんて、と思って気がついた。
お守り・・・。
会計を済ませ、外に出てから、あらためて紙片を広げる。
この星のマーク、どこかで見なかったか?
最近どこかで・・・。
記憶にひっかかりを感じたが、思い出せずにもやもやする。
気になるけど・・・。
帰ろ。アイス溶けるし。
自転車の鍵を外し、坂道を登り始めた。
『立て替えてもらったお金を返したいのと、泊めてもらったお礼がしたいので、都合のいい日を教えてください。』
伊住にメールを送って、アイスを齧る風呂上り。返事は、すぐに来た。まるで、待っていたかのようなタイミングに、びっくりしてしまう。
『土曜はいかがでしょう?』
夏休みで、学生二人が働けることもあり、フラゴラのシフトは今週も土日月と休みだった。特に予定もないので、大丈夫、と返し、待ち合わせ場所を問う。伊住の最寄の駅まで行けば、車で迎えに来てくれることになった。そのまま、ランチでも、とのことで、十一時の約束。食事に行くなら、泊ったお礼はその代金でいいだろうか。それともほかに何か用意する?でも、伊住の趣味はよくわからないし、食べ物を持ち歩くのは、暑さが気になるところ。
「桃に聞いてみようかなぁ。」
二つ下の妹は、看護学生で、兄と自分が家を出てからは、下の弟たちの面倒を見つつ勉強とオタ活に励んでいる。電話をするほどの用事でもないしと、メールで済ませることにした。
でも、なんて切り出したらいい?
親しくもない間柄の成人男性の家に泊めてもらったお礼をするのは、どうしたらいいか。事実はそんなところだが、変な話なのである。しかも相手はたぶん外国の血が混じった、体格のいいイケメンで、声もいい。経済的にも自分よりかなり収入のよさそうな相手に送るプレゼント。知っていることと言ったら、猫を飼っていることくらい。
アドリーナ。
調べてみたが、イタリアで雌猫につける名前だとか。幸福という意味らしい。外国の文化や言語に疎い自分にはなじみがないが、伊住は幸福と暮らしているのだと思うと、ますます贈り物には困ってしまう。なんだって持ってそうだと思うからだ。
とりあえず、妹へのメールは、知人に迷惑を掛けた。お礼をするとしたら何がいい?とした。
返事があったのは翌日の夜だった。性別とスペックを教えて!とあったので、桃の好きそうな、スパダリイケメン。若い。と返しておいた。あれこれやりとりをしたが、結局ランチの支払いをするのが無難ではないかということに落ち着き、その後は近況報告をしてやりとりを終えた。
実家は、夏休みで下の弟二人が家にいるから、母がヒステリー気味で、父とケンカばかりしていると。想像にたやすく、陰鬱な気持ちで眠ったのが良くなかったらしく、まんまと昔の夢を見て魘され、最悪の目覚めだった。
高梨家の次男として生まれた自分は、物心つく頃には妹がいて、小学校に上がると弟が一度に二人増えた。双子の世話は大変で、父が仕事で不在がちだったために、兄と自分は、いわゆるヤングケアラーというやつだった。そんな言葉を知ったのは、ごく最近だけれど。父は、子供は多い方がいいという家庭で育ったので、自分もそうあるべきだと考えたのはいいが、時代が変わり子育ての手が足りず、母はいつも怒っていた。殺伐とした家だったと思う。四つ上の兄は、父親のポジション。自分が長男のポジション。母の機嫌をうかがって過ごした。うまくいかなくて、ヒステリーを起こす母を冷めた目で見るようになったのは、いつごろからだろうか。
育てられないなら、生まなければよかったのに。
子供を持つことに嫌悪を感じるのに、そう時間はかからなかった。自分の子供は可愛いかもしれない。でも、母を見ていると、女性が怖かった。子供を持つことも、責任を取ることも、嫌だった。
だから、女性とは付き合わないし、性行為をしたいという欲求が起こらなくなった。高梨の血は、兄や弟が繋いでいけばいい。自分には求めないで欲しい。家を出てから、両親に連絡をしないのは、結婚しろと催促されるのが嫌だから。
妹とは、大きくなってから仲良くなり、やりとりがあるけれど、他の兄弟とは関わりたいと思わなかった。
一人で生きていくのは淋しいけれど、今は仕事に専念したい。
恋愛は、したことがなかった。
好きになるということが、よくわからなかった。別にそれで不都合があるわけでもないし。なんとなく、煩わしいイメージだった。
女のご機嫌取りは母親だけで十分。
やっと解放されたんだから、自分からそれを求めたりしない。
それでいい。
今日も暑くなりそう。ジェラートは、よく売れるだろうな。
自転車で坂道を下る。
週末には、伊住との約束がある。非日常が楽しみになってきている自分に少し驚いて、商店街に向かった。
ふーんふふんと鼻歌交じりに、店内の掃除。ガラスのドアにクリーナーをかけて、スクイジーで拭き上げる。今日もピカピカだ。掃除はわりと好きな方。綺麗になっていくのには、快感を覚える。とはいえ、最近少し、酷使している右手の手首が痛い。衛生上の問題で、湿布やサポーターができないので、寝るときに保冷剤で冷やすくらいしかしていないが、そろそろ少し気になっている。掃除用具を片付けて手首をさすっていると、不破がレジ金をチェックしながら、傷めたかい?と聞いてきた。
「あーちょっと。だるいの通り越して、痛い感じで。」
不破は、あらためて視線をよこし、首を傾げた。
「使いすぎかな。慣れない動きだもんね。腱鞘炎になると治り悪いから、良く冷やしておいて。駄目そうなら早めに言って?いい整骨院あるから、紹介してあげるよ。」
腱鞘炎、か。いろんな怪我をしてきたが、それは未経験だ。そもそも、足の怪我は多かったが、手首は初めてだ。高校時代は、地元の整骨院に通ったものだと懐かしくなる。
「腕がいいんです?」
「うん。職業病もだけど、ジムでやっちゃったりして、みてもらってる。あぁほら、飲み会のあと送ってもらったでしょ。伊住さんに教えてもらってね。」
不意に出た名前に、ドキッとする。
ドキ?ってなんだ。
もやっとしたが、そのまま相槌をうって、流した。
「伊住さんには、迷惑かけっちゃって。・・・土曜に会う約束してるんですよ。」
「そうなの。じゃぁ、整骨院教えてもらうといいよ。
・・・仲良くなったの?いい人でしょ。」
「・・・そうですね。」
フラゴラのメンバーに、送ってもらうどころか、伊住の家に泊めてもらったことは、話していない。面倒ごとの情報は、口に出さないのが吉だ。
さす、と手首をさすって、時計に目をやる。そろそろ開店だ。
空の様子は、アーケードの屋根で見えないが、熱気は伝わってくる。暑くなりそう。今日も、お店は忙しいだろう。忙しい方が、時間のたつのが早いから、充実した気がする。
バイトを始めてから、仕事が楽しい。コンビニでバイトした時も楽しかったから、接客は向いていると思う。ジェラートを売って、お客さんが笑ってくれたら、嬉しい気持ちになる。
深呼吸してから、ドアにオープンのプレートをさげた。
隣の部屋は、今日も静かだ。
大家さんに話してから、一見平和に過ごしている。夜も眠れるし、部屋に帰るのも憂鬱じゃない。
少し、明るい気持ちで、アパートの駐輪場に自転車を停め、レジ袋を持って部屋に入る。ドアに備え付けの新聞受けには、数枚のチラシに混じって、白の便せんが入っていた。
「なんだ・・・?」
部屋に入って開いてみると、ボールペンのきれいな字で、恐ろしいことが書いてあった。差出人は大家さんの夫人だ。
隣の親子、母親が妊娠初期で具合が悪く、余裕がなくて子供にあたっていること。頼れる人がいないので、夏休みなこともあり、大家の家で日中子供を預かっていること。お腹の子供の父親とは籍を入れていないこと。今いる子供の父親ではないこと、など。よくニュースで見聞きする、前の男の連れ子がなつかないから、虐待しましたルートを想像するのは、容易かった。
もう・・・そんなの・・・駄目な未来しか見えないじゃん。
なんで子供作るの?産もうとするの?なんで・・・。
気持ち悪い。
男は何やってんの?責任取れないなら、ヤるなよ・・・。
セックスは、生殖行為だろ。そんなことも考えられなくなるくらい、気持ちいいの?気持ちよかったら、他のことはどうでもよくなるの?性欲って何だよ。そんなの、オレ、わからないよ!
理解できない。したくない。
隣にそんな人が住んでいるなんて。
無理。引っ越したい・・・。
深くため息して、手紙を丸めて捨てる。関わりたくない。そういうのとは、離れて生活したい。
トラウマが、抉られる・・・。
明楽フーズの社員寮に入れるのは、秋ごろ。それも、うまくいけばの話し。他人の子を預かっていて大変な大家さんに、自分の事情を打ち明けて、引っ越す相談をするのは、今は負担になるだろう。
でも・・・逃げ出したい。
窓を開けると、隣の部屋からタバコの臭いがした。
金曜の仕事を終え、着替える前にと事務所でスマホをチェックする。すると、伊住からメールで、連絡が欲しいとのこと。土曜の予定が駄目になったかと、バイトが終わった旨メールする。すると、すぐに電話がかかってきた。
『お疲れ様です。今、大丈夫ですか?』
数日ぶりの伊住の声に、なんだか安心して、大丈夫、と返す。
「どうかしましたか?」
キャンセルかな、と恐る恐る問いかけると、伊住は申し訳なさそうなニュアンスで、今から泊りに来ませんか?と問うた。
「今から、ですか?」
『開発中の新作ジェラートを試食してほしいので。夕ご飯、まだですよね。うちでどうですか?』
新作?開発中のものを、持ち出したりして大丈夫なんだろうか・・・。
不安になったものの、アパートの部屋に戻るのは嫌で、思わず飛びついてしまう。
「いいんですか?・・・あ、でも、着替えとか。汗臭いし。」
ユニフォームに着替えて仕事はしているし、店内の冷房はきついが、汗臭い気がした。いい匂いのする伊住の家に、こんな状態で行くのは気が引ける。それを、伊住はふふ、と笑った。
『心配しなくていいですよ。駅まで迎えに行くので、ロータリーで待ち合わせましょう。』
とんとんっと話がまとまり、どうやら自分はこれから電車に乗るようだ。
「わかりました。電車に乗る前にまた連絡しますね。」
お待ちしてます、と通話が終わる。そこに、天羽がやってきた。
「おつかれー。・・・あれ。まだ着替えてないの?」
「あ、すみません。急ぎだったらお先にどうぞ。」
荷物を整理しながら、スマホで時刻表を確認する。次の電車は二十分後だった。
「ん。どこか行くの?」
「あー・・・。そんなところです。」
天羽は、ふーんと言いながら、更衣室に入っていった。
「あ、お泊りに呼ばれたら、手土産っていりますかね。夕ご飯用意してくれてるみたいで。」
カーテン越しに意見をうかがう。
「親しい人でも飲物くらいいるかもね。・・・っていうか、楓李君彼女いたんだ?」
「えっ?いやっ・・・彼女じゃないです!違います!」
「めちゃくちゃ否定するじゃない。」
少し強く言いすぎた言葉尻をとらえて、着替えを終えた天羽が首をかしげる。
「いや・・・。」
「・・・彼女・・・ではないんだ?」
「えぁっ!?」
男なの?ヒソ、と天羽が小声になる。
「男って言うか、あれです。伊住さん。この間の飲み会で知り合って。」
あわあわと釈明すると、天羽はまた首を傾げた。
「え?伊住さん、あの後来たの?」
えぇまぁ・・・。とごにょごにょ濁すが、失敗した、と泣きそうな顔になってしまう。天羽は先に帰ったから知らないのだ。余計なことを言った。
「へー・・・。それで、お泊りなんだ?」
天羽は思案気だ。何か言いたそうにしているので、どうぞ、と促すと、渋々、と口を開いた。
「伊住さん、すごくいい人だけど・・・その・・・気を付けてね。食べられないように。」
食べ・・・られる?
言い方に、すぐにピンときてしまう。桃に借りて読んだBL漫画的展開が、頭の中を駆け巡る。
「え・・・いや・・・だとしても、オレとかとはないでしょ。」
「だといいけど。」
いや・・・だって。彼氏?彼女?みたいな雰囲気で、電話してたでしょ。コンビニで!
「・・・いまさら断れないです・・・。」
今度こそ泣きそうになりながら、スマホを握りしめる。
「・・・私的にネタとしてはオイシイけど。その気がないなら同情するわ。一応気を付けてね。」
天羽は、荷物をまとめると、おつかれさまでしたーと事務所を出て行った。
電車の時刻まで、あと十五分。
天を仰いだ。
駅について、伊住にメールを送ると、車の情報が送られてきた。スバル、クロストレック、ホライゾンブルー。ナンバーは、820。一度乗った車だが、暗かったし酔っていたしで、わからないかも、と返信すると、写真が送られてきた。
なんとなく、これ・・・だったかな?と脳裏に刻む。やってきた電車に乗り込んで、空いていた席に座ってみたものの、三駅はあっという間で、すぐに降りるドアの前に移動した。改札を抜けてロータリーに出ると、ハザードを点滅させているタクシーの列とは別に、写真の車。近づいてナンバーを確認する前に、見覚えのある体躯の男がおりて、頭の上で大きく手を振った。無事に出会えたことにまずはほっとする。伊住は眼鏡をかけていて、ゆったりとした白のワイシャツ姿だった。なんともよく似合っている。
「こんばんは!お疲れ様です。すぐにわかりました?」
ロータリーの街灯に、伊住の爽やかな笑顔が眩しい。この笑顔の裏に、天羽の言うところの下心があるのかないのか、探らなくてはいけないのかと、小さく吐息する。
できれば、このまま。知人と友達の間くらいで付き合いたい。伊住はいい男だし、今のところ他意はなさそうだし。そんな関係で、お泊りがアリなのかは、どちらかと言うとナシなのだが。背に腹は代えられない。そもそも、付き合っている人がいるだろう伊住が、自分に性的な目を向けるとは思いたくなかった。
「お疲れ様です。はい、なんとか。」
「じゃぁ、乗ってください。」
伊住は嬉しげに助手席のドアを開け、乗り込むのを見届けると、運転席に回った。出しますね、と滑らかにロータリーを出て、見覚えのある通りを走らせていく。車内は冷房が効いていて、息がしやすかった。ふわ、と控えめな香りにドキリとする。車用の香水ではない。伊住の匂い。
「暑かったですね。」
伊住が、視線は前に向けたまま言った。
「お店にいるとわからないですけど、忙しかったです。」
暑いとよく売れますよね、と伊住が笑う。
「飲物とか、用意はしたんですが、欲しいものあればコンビニ寄りますよ。」
言われて考える。前に泊まった時には不自由なく過ごさせてもらったし、大丈夫な気もするが。
「あ、歯ブラシ・・・とか?」
思いついたまま口にする。
「間に合わせでいいのなら、買ってあるので大丈夫ですよ。」
なんと、準備のいい。驚いていると、伊住は自嘲気味にふっと笑うと、言い訳をしだした。
「泊りに来て欲しくて、あなたが帰った後、いろいろ用意したんです。・・・だから、手ぶらで来てくれていいですよ。」
えぇ・・・?
彼女とか、彼氏とか、いるんじゃないの?それ、許されてるの?
疑問符だらけになってしまい、首をかしげてしまう。
「・・・迷惑でした?」
そう聞かれると、迷惑どころか、部屋に帰らずに済むのは、すごくありがたいことなのだが。
「あの・・・お付き合いしてる方は・・・なんて?」
おずおずと問いかけると、伊住は左折でマンションの下の駐車場に車を入れながら、はい?と聞き返した。ちょっと待ってくださいね、とバックで駐車して、エンジンを切る。
「・・・いませんよ。付き合ってる人。」
「あ・・・え?」
思わず聞き返してしまう。
「・・・いないので、安心していいですよ。」
少し、怒っているように感じるのは、気のせいだろうか。
「さ、行きましょう。」
促されて、車を降りた。
あの後、服の乾燥が終わるのを待って、着替えて帰宅の途中である。
伊住の家を出る前に、スマホから、もらったアドレスにメールを送り、携帯の電話番号を交換した。昼休みだと思われる時間に、伊住から連絡があり、昨夜買ったアイスを食べ忘れたので、是非また遊びに来て欲しいとのこと。こちらとしては、借りたお金の件もあるし、会うのは当然なのだが。
「家にお邪魔する、って相当親しいとか、信用してるとかないと、ありえなくないか?」
自分が今まで生きていた中で培った常識と照らし合わせて、首をかしげる。ましてや、お金を立て替えるなんて。
「どういうつもりなんだろう。」
最寄りの駅で電車を降りて、商店街のアーケードに向かう。駐輪場に自転車を見つけて、鍵を外した。朝が軽めだったからお腹が空いているが、商店街の食べ物屋さんは、月曜はみんな休みである。帰り道のコンビニで弁当でも買おうと算段をつけて、自転車を乗り出す。
暑くなり始めた、十時半。思えば伊住はずいぶん早く出社したように思う。何か用事があったのだろうか。それなのに、自分の世話を焼かせてしまった。
悪いことしたな。
今度ちゃんとお礼をしよう。
贈り物をするのがいいのか、一緒に食事はどうかとか、考えながら自転車を走らせる。途中のコンビニはすぐそこだ。
お礼に渡すものって、なんだろう。食べ物が無難だろうが、なにが好きかもわからない。こんな風に、相手のことを考える経験が乏しくて、自分は今まで一体何をしてきたんだろうかとため息が出る。誰かに相談?誰に?リアルで話せるのは、フラゴラの不破と天羽くらい。もしくは妹、とか。
考え事をしながら、コンビニの狭い駐車場の端に自転車を停め、鉄製の車止めにチェーンを掛ける。サコッシュにスマホがあるのを手のひらで確認して、自動ドアをくぐった。
アパートに越してから、泊りの用事がなかったので、少し妙な感じを覚えながら鍵を開ける。部屋の中を見回すが、特に変わった様子はない。ぶら下げていたレジ袋のお弁当を座卓に置いて、手を洗う。ついでに顔をざぶりと流して、かけっぱなしのごわついたタオルで、無造作に拭った。当たり前だが、伊住の家のもののような、いい匂いはしない。
暑い・・・。
自転車をこいで坂道を登れば、あっという間に汗で濡れる。着ていたシャツを脱いで、洗濯機に放った。ふわ、と汗に混じって、伊住の使っている柔軟剤の匂い。洗って、消してしまうのはもったいないが、汗の匂いは放置できない。はーっとため息をつく。
なにオレ・・・。どうしちゃったの。
伊住の匂いを思い出して、もやっとした気持ちになる。
いい匂いも、ふわふわの肌触りも、柔らかな話し方も、美味しいご飯も・・・初めてのことだらけで。たぶん・・・だから。不思議体験をして、まだ夢の国から帰ってきた実感がわいていない。そんなカンジ。
お昼でも食べて、少し寝たら、きっといつも通りの日常だろう。
薄い座布団に座り、レジ袋からとんかつ弁当を出して、蓋を開ける。油の匂いを吸い込んで、ため息する。
そうそう。これだよ。帰ってきたね。
いただきます、と手を合わせて、割り箸を割る。少し、容器の匂いが移った白米を頬張り、飲み込んだ時だった。
どん!がしゃぁん!
壁の向こうに何かぶつかる音。割れる音。怒鳴り声と、泣き声。
・・・だめだこれ。
誰かに知らせないと。
食べる手を止めて、流しに行き、コップに水を注いで飲み干す。戻って、スマホを手に取り、アドレスをたどる。
大家さん、でいいよな。
警察や児童相談所は、大家さんの判断にまかせよう。
・・・あぁそうか。子供、夏休みだから家にいるんだな。
どうにかしてあげたい気持ちと、ただ自分がストレスから逃れたい気持ち。半分ずつくらい。
子供もかわいそうだけど、しんどそうな母親も辛い。
手が足りなくて、いつもイライラしていた自分の母親と被る。
育てるのが大変なら、生まなきゃいいだろ・・・。
言いたい。でも、そんなに単純じゃないってわかる程度には大人になったつもり。
ドキドキと心臓がうるさい。
電話がつながる音が聞こえ、聞き覚えのある女性の声が聞こえたが、どう話したらいいかわからなくて、言葉が出なかった。
「えぇ・・・それで、どうしたのよ?」
フラゴラの事務所、更衣室のカーテン越しに、天羽が尋ねる。
月曜の、帰宅のその後の話しである。
天羽には、最近隣の親子の騒音で、眠れていない話は少ししていた。天羽は、子供の声とか足音とかのことだと思っていたし、よその家庭の踏み込んだ話もする気はなかったのだが。
電話で、話しを聞いてくれた大家さんは、夕方自分の部屋に来て、様子を確認した。親子が越してきてから、すぐに始まった、虐待を思わせる「音」や「声」。気がついていたけれど、母親といさかいになったり、恨まれたりしたくなかったとか、子供の安全が心配だったとか、簡単には動けなかった「言い訳」を聞いてくれた。その後、隣の部屋に行ったようだが、どういう話をしたかはわからない。ただ、その夜は泣き声は聞こえなかった。
着替えて出てきた天羽と入れ違いに、更衣室に入る。
出来事をかいつまんで話して、できれば引っ越したい、とこぼしていた。
大学を出て、就職のために借りた部屋。まだ半年しか住んでないから、引っ越すとなるとお金がかかる。マンスリーにしておけばこんなことには、と思うが、こんなことになるとは思わなかったのだ。会社がブラックですぐ辞めることになるとか、隣に問題のありそうな親子が越してくるとか。隣の子供の行く末は気になるが、逃げだしたい、関わりたくない気持ちが強かった。
「オレ、何にもしてあげられないっすもん・・・。」
「まぁ。そうよね。第三者に相談しただけで、十分よ。あとは、もっと経験のありそうな人にまかせるべきね。・・・引っ越せたらいいわね。大家さん、いい人そうなら相談してみたら?」
いい人そうなら、か。
古いアパートの大家は、リタイアした老夫婦だ。話を聞いてくれたのは、夫人の方。優しそうな人だけれど、家賃収入を当てにして生活しているだろうから、それはそれで困るだろうし・・・。
お世話になっているとはいえ、人が良すぎじゃないか?思いはすれど、損な性分で。持ちつ持たれつ生きているのだ。できれば平和的に解決したいところである。
「はぁー・・・。」
溜息をつきながら、着替えを済ませてカーテンを開けると、不破が出勤したところで、おはよう、と挨拶された。おはようございますと返しつつ、もう一つため息。
「どうしたの?」
「結論だけ言うと、引っ越したいんですけど、お金なくて。」
不破は、あぁ、と思案気に視線を天井に彷徨わせた。
「・・・そういえば、試用期間終わったら、バイトでも社員寮使えるって話、晴海さんから聞いてない?」
・・・あ。
不破の言葉にハッとして、そういえばそんな話あった!と手を打つ。
「夏休みで繁忙期だし、秋ぐらいまで我慢できそうなら、本社に打診しておくけど。」
渡りに船だ。それくらいならなんとかなりそう。
「もう、ぜひぜひお願いしたいです。」
「・・・寮はいると、通勤、距離あるけど・・・。あと、ここが嫌になっても辞めにくいけど。」
「・・・頑張ります。」
今の環境よりはいいだろう。
大家さんに話しておこう。隣の親子も、しばらくは静かかもしれないし。
よし。頑張ろう・・・。
火曜の営業をそつなくこなし、休憩中に買って置いた総菜を自転車のかごに入れての帰り道。忘れていたわけではないのだが、後回しにした伊住への返金を入れる封筒を買いに、コンビニに寄った。なんとなく、アイスの冷凍庫を見る。「市場調査」と称して買ったアイスは、もう食べただろうか。伊住を思って、アイスを選ぶ。
「これだな。」
昔からある小豆のアイスを手に取りレジへ。財布を開け、紙幣を出した拍子に、折り畳んだ紙片が零れ落ちそうになって慌てる。拾い上げ、お守り落とすなんて、と思って気がついた。
お守り・・・。
会計を済ませ、外に出てから、あらためて紙片を広げる。
この星のマーク、どこかで見なかったか?
最近どこかで・・・。
記憶にひっかかりを感じたが、思い出せずにもやもやする。
気になるけど・・・。
帰ろ。アイス溶けるし。
自転車の鍵を外し、坂道を登り始めた。
『立て替えてもらったお金を返したいのと、泊めてもらったお礼がしたいので、都合のいい日を教えてください。』
伊住にメールを送って、アイスを齧る風呂上り。返事は、すぐに来た。まるで、待っていたかのようなタイミングに、びっくりしてしまう。
『土曜はいかがでしょう?』
夏休みで、学生二人が働けることもあり、フラゴラのシフトは今週も土日月と休みだった。特に予定もないので、大丈夫、と返し、待ち合わせ場所を問う。伊住の最寄の駅まで行けば、車で迎えに来てくれることになった。そのまま、ランチでも、とのことで、十一時の約束。食事に行くなら、泊ったお礼はその代金でいいだろうか。それともほかに何か用意する?でも、伊住の趣味はよくわからないし、食べ物を持ち歩くのは、暑さが気になるところ。
「桃に聞いてみようかなぁ。」
二つ下の妹は、看護学生で、兄と自分が家を出てからは、下の弟たちの面倒を見つつ勉強とオタ活に励んでいる。電話をするほどの用事でもないしと、メールで済ませることにした。
でも、なんて切り出したらいい?
親しくもない間柄の成人男性の家に泊めてもらったお礼をするのは、どうしたらいいか。事実はそんなところだが、変な話なのである。しかも相手はたぶん外国の血が混じった、体格のいいイケメンで、声もいい。経済的にも自分よりかなり収入のよさそうな相手に送るプレゼント。知っていることと言ったら、猫を飼っていることくらい。
アドリーナ。
調べてみたが、イタリアで雌猫につける名前だとか。幸福という意味らしい。外国の文化や言語に疎い自分にはなじみがないが、伊住は幸福と暮らしているのだと思うと、ますます贈り物には困ってしまう。なんだって持ってそうだと思うからだ。
とりあえず、妹へのメールは、知人に迷惑を掛けた。お礼をするとしたら何がいい?とした。
返事があったのは翌日の夜だった。性別とスペックを教えて!とあったので、桃の好きそうな、スパダリイケメン。若い。と返しておいた。あれこれやりとりをしたが、結局ランチの支払いをするのが無難ではないかということに落ち着き、その後は近況報告をしてやりとりを終えた。
実家は、夏休みで下の弟二人が家にいるから、母がヒステリー気味で、父とケンカばかりしていると。想像にたやすく、陰鬱な気持ちで眠ったのが良くなかったらしく、まんまと昔の夢を見て魘され、最悪の目覚めだった。
高梨家の次男として生まれた自分は、物心つく頃には妹がいて、小学校に上がると弟が一度に二人増えた。双子の世話は大変で、父が仕事で不在がちだったために、兄と自分は、いわゆるヤングケアラーというやつだった。そんな言葉を知ったのは、ごく最近だけれど。父は、子供は多い方がいいという家庭で育ったので、自分もそうあるべきだと考えたのはいいが、時代が変わり子育ての手が足りず、母はいつも怒っていた。殺伐とした家だったと思う。四つ上の兄は、父親のポジション。自分が長男のポジション。母の機嫌をうかがって過ごした。うまくいかなくて、ヒステリーを起こす母を冷めた目で見るようになったのは、いつごろからだろうか。
育てられないなら、生まなければよかったのに。
子供を持つことに嫌悪を感じるのに、そう時間はかからなかった。自分の子供は可愛いかもしれない。でも、母を見ていると、女性が怖かった。子供を持つことも、責任を取ることも、嫌だった。
だから、女性とは付き合わないし、性行為をしたいという欲求が起こらなくなった。高梨の血は、兄や弟が繋いでいけばいい。自分には求めないで欲しい。家を出てから、両親に連絡をしないのは、結婚しろと催促されるのが嫌だから。
妹とは、大きくなってから仲良くなり、やりとりがあるけれど、他の兄弟とは関わりたいと思わなかった。
一人で生きていくのは淋しいけれど、今は仕事に専念したい。
恋愛は、したことがなかった。
好きになるということが、よくわからなかった。別にそれで不都合があるわけでもないし。なんとなく、煩わしいイメージだった。
女のご機嫌取りは母親だけで十分。
やっと解放されたんだから、自分からそれを求めたりしない。
それでいい。
今日も暑くなりそう。ジェラートは、よく売れるだろうな。
自転車で坂道を下る。
週末には、伊住との約束がある。非日常が楽しみになってきている自分に少し驚いて、商店街に向かった。
ふーんふふんと鼻歌交じりに、店内の掃除。ガラスのドアにクリーナーをかけて、スクイジーで拭き上げる。今日もピカピカだ。掃除はわりと好きな方。綺麗になっていくのには、快感を覚える。とはいえ、最近少し、酷使している右手の手首が痛い。衛生上の問題で、湿布やサポーターができないので、寝るときに保冷剤で冷やすくらいしかしていないが、そろそろ少し気になっている。掃除用具を片付けて手首をさすっていると、不破がレジ金をチェックしながら、傷めたかい?と聞いてきた。
「あーちょっと。だるいの通り越して、痛い感じで。」
不破は、あらためて視線をよこし、首を傾げた。
「使いすぎかな。慣れない動きだもんね。腱鞘炎になると治り悪いから、良く冷やしておいて。駄目そうなら早めに言って?いい整骨院あるから、紹介してあげるよ。」
腱鞘炎、か。いろんな怪我をしてきたが、それは未経験だ。そもそも、足の怪我は多かったが、手首は初めてだ。高校時代は、地元の整骨院に通ったものだと懐かしくなる。
「腕がいいんです?」
「うん。職業病もだけど、ジムでやっちゃったりして、みてもらってる。あぁほら、飲み会のあと送ってもらったでしょ。伊住さんに教えてもらってね。」
不意に出た名前に、ドキッとする。
ドキ?ってなんだ。
もやっとしたが、そのまま相槌をうって、流した。
「伊住さんには、迷惑かけっちゃって。・・・土曜に会う約束してるんですよ。」
「そうなの。じゃぁ、整骨院教えてもらうといいよ。
・・・仲良くなったの?いい人でしょ。」
「・・・そうですね。」
フラゴラのメンバーに、送ってもらうどころか、伊住の家に泊めてもらったことは、話していない。面倒ごとの情報は、口に出さないのが吉だ。
さす、と手首をさすって、時計に目をやる。そろそろ開店だ。
空の様子は、アーケードの屋根で見えないが、熱気は伝わってくる。暑くなりそう。今日も、お店は忙しいだろう。忙しい方が、時間のたつのが早いから、充実した気がする。
バイトを始めてから、仕事が楽しい。コンビニでバイトした時も楽しかったから、接客は向いていると思う。ジェラートを売って、お客さんが笑ってくれたら、嬉しい気持ちになる。
深呼吸してから、ドアにオープンのプレートをさげた。
隣の部屋は、今日も静かだ。
大家さんに話してから、一見平和に過ごしている。夜も眠れるし、部屋に帰るのも憂鬱じゃない。
少し、明るい気持ちで、アパートの駐輪場に自転車を停め、レジ袋を持って部屋に入る。ドアに備え付けの新聞受けには、数枚のチラシに混じって、白の便せんが入っていた。
「なんだ・・・?」
部屋に入って開いてみると、ボールペンのきれいな字で、恐ろしいことが書いてあった。差出人は大家さんの夫人だ。
隣の親子、母親が妊娠初期で具合が悪く、余裕がなくて子供にあたっていること。頼れる人がいないので、夏休みなこともあり、大家の家で日中子供を預かっていること。お腹の子供の父親とは籍を入れていないこと。今いる子供の父親ではないこと、など。よくニュースで見聞きする、前の男の連れ子がなつかないから、虐待しましたルートを想像するのは、容易かった。
もう・・・そんなの・・・駄目な未来しか見えないじゃん。
なんで子供作るの?産もうとするの?なんで・・・。
気持ち悪い。
男は何やってんの?責任取れないなら、ヤるなよ・・・。
セックスは、生殖行為だろ。そんなことも考えられなくなるくらい、気持ちいいの?気持ちよかったら、他のことはどうでもよくなるの?性欲って何だよ。そんなの、オレ、わからないよ!
理解できない。したくない。
隣にそんな人が住んでいるなんて。
無理。引っ越したい・・・。
深くため息して、手紙を丸めて捨てる。関わりたくない。そういうのとは、離れて生活したい。
トラウマが、抉られる・・・。
明楽フーズの社員寮に入れるのは、秋ごろ。それも、うまくいけばの話し。他人の子を預かっていて大変な大家さんに、自分の事情を打ち明けて、引っ越す相談をするのは、今は負担になるだろう。
でも・・・逃げ出したい。
窓を開けると、隣の部屋からタバコの臭いがした。
金曜の仕事を終え、着替える前にと事務所でスマホをチェックする。すると、伊住からメールで、連絡が欲しいとのこと。土曜の予定が駄目になったかと、バイトが終わった旨メールする。すると、すぐに電話がかかってきた。
『お疲れ様です。今、大丈夫ですか?』
数日ぶりの伊住の声に、なんだか安心して、大丈夫、と返す。
「どうかしましたか?」
キャンセルかな、と恐る恐る問いかけると、伊住は申し訳なさそうなニュアンスで、今から泊りに来ませんか?と問うた。
「今から、ですか?」
『開発中の新作ジェラートを試食してほしいので。夕ご飯、まだですよね。うちでどうですか?』
新作?開発中のものを、持ち出したりして大丈夫なんだろうか・・・。
不安になったものの、アパートの部屋に戻るのは嫌で、思わず飛びついてしまう。
「いいんですか?・・・あ、でも、着替えとか。汗臭いし。」
ユニフォームに着替えて仕事はしているし、店内の冷房はきついが、汗臭い気がした。いい匂いのする伊住の家に、こんな状態で行くのは気が引ける。それを、伊住はふふ、と笑った。
『心配しなくていいですよ。駅まで迎えに行くので、ロータリーで待ち合わせましょう。』
とんとんっと話がまとまり、どうやら自分はこれから電車に乗るようだ。
「わかりました。電車に乗る前にまた連絡しますね。」
お待ちしてます、と通話が終わる。そこに、天羽がやってきた。
「おつかれー。・・・あれ。まだ着替えてないの?」
「あ、すみません。急ぎだったらお先にどうぞ。」
荷物を整理しながら、スマホで時刻表を確認する。次の電車は二十分後だった。
「ん。どこか行くの?」
「あー・・・。そんなところです。」
天羽は、ふーんと言いながら、更衣室に入っていった。
「あ、お泊りに呼ばれたら、手土産っていりますかね。夕ご飯用意してくれてるみたいで。」
カーテン越しに意見をうかがう。
「親しい人でも飲物くらいいるかもね。・・・っていうか、楓李君彼女いたんだ?」
「えっ?いやっ・・・彼女じゃないです!違います!」
「めちゃくちゃ否定するじゃない。」
少し強く言いすぎた言葉尻をとらえて、着替えを終えた天羽が首をかしげる。
「いや・・・。」
「・・・彼女・・・ではないんだ?」
「えぁっ!?」
男なの?ヒソ、と天羽が小声になる。
「男って言うか、あれです。伊住さん。この間の飲み会で知り合って。」
あわあわと釈明すると、天羽はまた首を傾げた。
「え?伊住さん、あの後来たの?」
えぇまぁ・・・。とごにょごにょ濁すが、失敗した、と泣きそうな顔になってしまう。天羽は先に帰ったから知らないのだ。余計なことを言った。
「へー・・・。それで、お泊りなんだ?」
天羽は思案気だ。何か言いたそうにしているので、どうぞ、と促すと、渋々、と口を開いた。
「伊住さん、すごくいい人だけど・・・その・・・気を付けてね。食べられないように。」
食べ・・・られる?
言い方に、すぐにピンときてしまう。桃に借りて読んだBL漫画的展開が、頭の中を駆け巡る。
「え・・・いや・・・だとしても、オレとかとはないでしょ。」
「だといいけど。」
いや・・・だって。彼氏?彼女?みたいな雰囲気で、電話してたでしょ。コンビニで!
「・・・いまさら断れないです・・・。」
今度こそ泣きそうになりながら、スマホを握りしめる。
「・・・私的にネタとしてはオイシイけど。その気がないなら同情するわ。一応気を付けてね。」
天羽は、荷物をまとめると、おつかれさまでしたーと事務所を出て行った。
電車の時刻まで、あと十五分。
天を仰いだ。
駅について、伊住にメールを送ると、車の情報が送られてきた。スバル、クロストレック、ホライゾンブルー。ナンバーは、820。一度乗った車だが、暗かったし酔っていたしで、わからないかも、と返信すると、写真が送られてきた。
なんとなく、これ・・・だったかな?と脳裏に刻む。やってきた電車に乗り込んで、空いていた席に座ってみたものの、三駅はあっという間で、すぐに降りるドアの前に移動した。改札を抜けてロータリーに出ると、ハザードを点滅させているタクシーの列とは別に、写真の車。近づいてナンバーを確認する前に、見覚えのある体躯の男がおりて、頭の上で大きく手を振った。無事に出会えたことにまずはほっとする。伊住は眼鏡をかけていて、ゆったりとした白のワイシャツ姿だった。なんともよく似合っている。
「こんばんは!お疲れ様です。すぐにわかりました?」
ロータリーの街灯に、伊住の爽やかな笑顔が眩しい。この笑顔の裏に、天羽の言うところの下心があるのかないのか、探らなくてはいけないのかと、小さく吐息する。
できれば、このまま。知人と友達の間くらいで付き合いたい。伊住はいい男だし、今のところ他意はなさそうだし。そんな関係で、お泊りがアリなのかは、どちらかと言うとナシなのだが。背に腹は代えられない。そもそも、付き合っている人がいるだろう伊住が、自分に性的な目を向けるとは思いたくなかった。
「お疲れ様です。はい、なんとか。」
「じゃぁ、乗ってください。」
伊住は嬉しげに助手席のドアを開け、乗り込むのを見届けると、運転席に回った。出しますね、と滑らかにロータリーを出て、見覚えのある通りを走らせていく。車内は冷房が効いていて、息がしやすかった。ふわ、と控えめな香りにドキリとする。車用の香水ではない。伊住の匂い。
「暑かったですね。」
伊住が、視線は前に向けたまま言った。
「お店にいるとわからないですけど、忙しかったです。」
暑いとよく売れますよね、と伊住が笑う。
「飲物とか、用意はしたんですが、欲しいものあればコンビニ寄りますよ。」
言われて考える。前に泊まった時には不自由なく過ごさせてもらったし、大丈夫な気もするが。
「あ、歯ブラシ・・・とか?」
思いついたまま口にする。
「間に合わせでいいのなら、買ってあるので大丈夫ですよ。」
なんと、準備のいい。驚いていると、伊住は自嘲気味にふっと笑うと、言い訳をしだした。
「泊りに来て欲しくて、あなたが帰った後、いろいろ用意したんです。・・・だから、手ぶらで来てくれていいですよ。」
えぇ・・・?
彼女とか、彼氏とか、いるんじゃないの?それ、許されてるの?
疑問符だらけになってしまい、首をかしげてしまう。
「・・・迷惑でした?」
そう聞かれると、迷惑どころか、部屋に帰らずに済むのは、すごくありがたいことなのだが。
「あの・・・お付き合いしてる方は・・・なんて?」
おずおずと問いかけると、伊住は左折でマンションの下の駐車場に車を入れながら、はい?と聞き返した。ちょっと待ってくださいね、とバックで駐車して、エンジンを切る。
「・・・いませんよ。付き合ってる人。」
「あ・・・え?」
思わず聞き返してしまう。
「・・・いないので、安心していいですよ。」
少し、怒っているように感じるのは、気のせいだろうか。
「さ、行きましょう。」
促されて、車を降りた。
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