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第一章「雛祭」
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「まだ子どもですよ」
多恵は、源太郎の親馬鹿を笑った。
「いやいや、どこぞのお姫様と比べても恥ずかしくないぞ」
「馬鹿おっしゃって。もうお転婆で困りますわ」
「なに、誰さんの小さいころによく似ているよ」
「まあ、よくおっしゃって」
妻は、袂で源太郎の背中をぺちんと打った。
「どうして多恵が怒るのだ。わしは、別段、多恵のことを言ったわけではないのだぞ」
源太郎は、にやにやとしながら多恵の顔を覗き込む。
多恵は、
「知りません」
と顔を逸らした。
源太郎は可笑しかった。
(そんなところが、そっくりなのだよ)
と。
「ところで、今日のお帰りは早いのでしょう?」
玄関先で、多恵が訊いてきた。
「おい、おい、いまから出仕なのに、もう帰る話か?」
「申し訳ありません。ただ、今日は桃の節句ですし、いくら女の子のお祭りだといっても、あなたと一緒にお祝いしたいと幸恵も楽しみにしておりますので」
「月番だが、然して大きな調べも抱えておらんしな。何もなければ、昨日と同じ頃合に帰れるだろうよ」
源太郎は、草履を履きながら言った。
「そうですか、それはようございました」、多恵は饅頭のように真ん丸な顔を、さらに丸くすると、ぽっちゃりとした体を窮屈そうに折り曲げて三つ指をついた、「いってらっしゃいまし」
体を丸めると、本当に饅頭のように見える。
源太郎は、その饅頭を見て、満足そうにうんと頷き、冠木門を出た。
草履取り、槍持ち、挟箱持ちを従えて町方組屋敷の小道を歩いていると、日枝社山王御旅所の辺りから桜の香りが強くなり、船奉行向井将監の屋敷を左に折れると、牧野の桜が見えた。
塀の上から、一本の枝が張り出している。
赤茶けた枝の上に、白い雪が点々と降り落ちている。
桜である。
妻の言葉どおり、咲きはじめた桜が行き交う人の目を楽しませていた。
源太郎は、久しぶりに牧野の桜を見上げた。
多恵と、何度この桜を見上げてきただろう。
あのときも………………
多恵は、南町奉行所与力中村信太郎の娘であった。
源太郎のもとには、うちの娘を嫁にどうかという話が多くあった。
旗本の娘から町人の娘までが、与力の妻に名乗りを上げた。
だが、彼はそれらをすべて断り、多恵を妻にした。
与力・同心の妻は、同じく与力・同心の娘でなければ務まらない。
夫の留守中に、町人などが付届けを持って出向いて来たときの対応は、すべて妻女が取り仕切った。
付届けだけではなく、相談事や訴訟事を持って来る者もいる。
その対応も、妻が万事取り仕切る。
厳つい顔をした侍が対応したのでは、相手も怖がって気後れするであろうという配慮があるからだ。
そのため、与力・同心の妻女には、相談事や訴訟事を聞く度量と、ときにはその相談相手に一言二言言い聞かせてやるだけの力量が求められた。
その辺の武家や町人の娘では務まらない。
必然的に、与力・同心の妻女は、小さいころから母の姿を見て育った与力・同心の娘が多くなった。
だから、源太郎は多恵を妻にしたのだろうと、同僚や町人たちは噂する。
なかには、
『しかし、何でまた神谷様は、いまの奥様をもらわれたのだろう?』
『なに、中村様が娘可愛さに押しつけたのさ。でなければ、饅頭が売れ残ってしまうからな』
と、笑う者もいた。
多恵は、丸顔のぽっちゃり型で、おまけに背丈も源太郎の肩口ほどしかない。
確かに饅頭のようだ。
一方の源太郎は、ほっそりとした顔立ちに凛々しい眉毛、鋭い目を持っていて、上背もあった。
もう三十半ばを迎えようというのに、市中を歩いていると、いまだに町娘が立ち止まって振り返ることがざらである。
妻帯してもこれだから、多恵と一緒になる前は町娘たちが源太郎に逆上せ上がり、彼見たさに奉行所の前に人垣を作ってしまうことが度々あった。
源太郎が多恵と一緒になると、
『どうしてあんな達磨と一緒になるの』
と、娘たちは嘆いたと云われている。
饅頭や達磨と、先程から酷い言われようの多恵だが、彼女の名誉のために言っておくと、鬚があるからとか、厳つい顔をしているからとか、決してそういうことではない。
顔はむしろ仏様のように柔和だ。
丸顔の中の小さな目は愛らしく、鼻翼もほっそりとしている。
笑うと、ぽっこりと浮かび上がる左右の頬肉が可愛らしい。
口は小さいのだが、端がきりりと上がって、彼女の意志の強さを醸し出している。
町人たちは、単にその体格の良さから達磨や饅頭と称しているのだけなのである。
源太郎は、そんな達磨 ―― いや多恵を愛している。
多恵は、源太郎の親馬鹿を笑った。
「いやいや、どこぞのお姫様と比べても恥ずかしくないぞ」
「馬鹿おっしゃって。もうお転婆で困りますわ」
「なに、誰さんの小さいころによく似ているよ」
「まあ、よくおっしゃって」
妻は、袂で源太郎の背中をぺちんと打った。
「どうして多恵が怒るのだ。わしは、別段、多恵のことを言ったわけではないのだぞ」
源太郎は、にやにやとしながら多恵の顔を覗き込む。
多恵は、
「知りません」
と顔を逸らした。
源太郎は可笑しかった。
(そんなところが、そっくりなのだよ)
と。
「ところで、今日のお帰りは早いのでしょう?」
玄関先で、多恵が訊いてきた。
「おい、おい、いまから出仕なのに、もう帰る話か?」
「申し訳ありません。ただ、今日は桃の節句ですし、いくら女の子のお祭りだといっても、あなたと一緒にお祝いしたいと幸恵も楽しみにしておりますので」
「月番だが、然して大きな調べも抱えておらんしな。何もなければ、昨日と同じ頃合に帰れるだろうよ」
源太郎は、草履を履きながら言った。
「そうですか、それはようございました」、多恵は饅頭のように真ん丸な顔を、さらに丸くすると、ぽっちゃりとした体を窮屈そうに折り曲げて三つ指をついた、「いってらっしゃいまし」
体を丸めると、本当に饅頭のように見える。
源太郎は、その饅頭を見て、満足そうにうんと頷き、冠木門を出た。
草履取り、槍持ち、挟箱持ちを従えて町方組屋敷の小道を歩いていると、日枝社山王御旅所の辺りから桜の香りが強くなり、船奉行向井将監の屋敷を左に折れると、牧野の桜が見えた。
塀の上から、一本の枝が張り出している。
赤茶けた枝の上に、白い雪が点々と降り落ちている。
桜である。
妻の言葉どおり、咲きはじめた桜が行き交う人の目を楽しませていた。
源太郎は、久しぶりに牧野の桜を見上げた。
多恵と、何度この桜を見上げてきただろう。
あのときも………………
多恵は、南町奉行所与力中村信太郎の娘であった。
源太郎のもとには、うちの娘を嫁にどうかという話が多くあった。
旗本の娘から町人の娘までが、与力の妻に名乗りを上げた。
だが、彼はそれらをすべて断り、多恵を妻にした。
与力・同心の妻は、同じく与力・同心の娘でなければ務まらない。
夫の留守中に、町人などが付届けを持って出向いて来たときの対応は、すべて妻女が取り仕切った。
付届けだけではなく、相談事や訴訟事を持って来る者もいる。
その対応も、妻が万事取り仕切る。
厳つい顔をした侍が対応したのでは、相手も怖がって気後れするであろうという配慮があるからだ。
そのため、与力・同心の妻女には、相談事や訴訟事を聞く度量と、ときにはその相談相手に一言二言言い聞かせてやるだけの力量が求められた。
その辺の武家や町人の娘では務まらない。
必然的に、与力・同心の妻女は、小さいころから母の姿を見て育った与力・同心の娘が多くなった。
だから、源太郎は多恵を妻にしたのだろうと、同僚や町人たちは噂する。
なかには、
『しかし、何でまた神谷様は、いまの奥様をもらわれたのだろう?』
『なに、中村様が娘可愛さに押しつけたのさ。でなければ、饅頭が売れ残ってしまうからな』
と、笑う者もいた。
多恵は、丸顔のぽっちゃり型で、おまけに背丈も源太郎の肩口ほどしかない。
確かに饅頭のようだ。
一方の源太郎は、ほっそりとした顔立ちに凛々しい眉毛、鋭い目を持っていて、上背もあった。
もう三十半ばを迎えようというのに、市中を歩いていると、いまだに町娘が立ち止まって振り返ることがざらである。
妻帯してもこれだから、多恵と一緒になる前は町娘たちが源太郎に逆上せ上がり、彼見たさに奉行所の前に人垣を作ってしまうことが度々あった。
源太郎が多恵と一緒になると、
『どうしてあんな達磨と一緒になるの』
と、娘たちは嘆いたと云われている。
饅頭や達磨と、先程から酷い言われようの多恵だが、彼女の名誉のために言っておくと、鬚があるからとか、厳つい顔をしているからとか、決してそういうことではない。
顔はむしろ仏様のように柔和だ。
丸顔の中の小さな目は愛らしく、鼻翼もほっそりとしている。
笑うと、ぽっこりと浮かび上がる左右の頬肉が可愛らしい。
口は小さいのだが、端がきりりと上がって、彼女の意志の強さを醸し出している。
町人たちは、単にその体格の良さから達磨や饅頭と称しているのだけなのである。
源太郎は、そんな達磨 ―― いや多恵を愛している。
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