桜はまだか?

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第一章「雛祭」

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 ようやく春らしくなった空を見上げ、神谷源太郎かみやげんたろうは目を細め、うんと頷いた。

 心なしか、ほのかに甘い香りがする。

 妻の鬢付けかと思ったが、

「桃の花でございますよ」

 と、多恵たえは夫の出仕の仕度をしながら言った。

 源太郎は、雛人形の前に飾られた桃の花を思い出した。

「春らしくなって、ようございましたわ。牧野様のお屋敷の桜も、これで咲きますでしょう」

 海賊橋の傍らに、奏者衆そうしゃしゅう牧野因幡守まきのいなばのかみの屋敷がある。

 庭に一本の桜があり、蕾が膨らみかけていた。

「昨日までの冷たい風に、蕾が凍てついてしまうのではと心配しておりましたが」

 と、妻は刀を手渡した。

 源太郎は刀を受け取りながら、首を傾げた。

「はて、あの桜、もう蕾をつけておったか?」

 源太郎は、南町奉行所三番組の与力で、吟味方である。

 毎日、牧野家の前を往復しているのだが、蕾をつけていたことに気が付かなかった。

「あなたは、お仕事のことばかりお考えで、俯いて歩かれますから」

 多恵が、袂で口元を隠して笑った。

「今日はもう、桃の節句にございますよ」

「そうか、桃の節句であったな」

 仕度を終えた源太郎は、隣の座敷を覗き込んだ。

 一粒種の幸恵ゆきえは、温かい日向の中でまだ寝ている。

 母親譲りの丸顔が、何とも可愛らしい。

 息をするたびに、小さな鼻腔がぴくぴくと動く。

 幸恵の傍には、赤い毛氈が敷かれ、雛人形が並んでいる。

 雛人形の前には、桃の花が飾ってある。

 なるほど、咲いていた。

 愛らしいその姿は、幸恵のようだ。

「昨日は、まだ蕾だったのに」

 昨夕、出仕から戻ってくると、三つ指をついて出迎える多恵を差し置いて、

『父様、抱っこ』

 と、幸恵が小さな両手を差し出してきた。

『まあ、何ですか、お行儀が悪いですよ』

 多恵は窘めるのだが、

『まあ、良いではないか』

 と、源太郎は日に日に重たくなっていく幼子を抱き上げた。

『父様、見てください。見てください』

 桃の花びらのように小さな指が指し示したのは、雛人形であった。

『ほう、綺麗だな』

『幸恵が、ひとりで並べたのですよ』

 と、小さな胸を張った。

『そうか、幸恵が並べたのか、偉いな』

 源太郎は、奉行所では絶対にしないような顔をした。

『さあ、さあ、幸恵、お父様はお着替えをしなくてなりません。下りなさい』

『あい』

 幸恵は、足をバタつかせて下りた。

『幸恵、あとでゆっくり見るからな』

『あい』

 幸恵は、可愛らしい笑顔を作った。

 今年で数えの五つ。

 諦めかけていたところに授かった命である。

 腕に残る重みと、ひとりで雛人形を並べられるまでに成長したという喜びに、源太郎は罪人を震え上がらせる鋭い目を細めた。

 普段はひとり寝を怖がって、多恵の夜具に潜り込んでいる幸恵だが、その夜は、『お雛様と一緒に寝る』と駄々を捏ねた。

『おしっこをしたくなっても知らないぞ』

 と、ちょっと怖がらせてみたのだが、

『大丈夫です。幸恵は、もう子どもではありません』

 と、幼い唇から大人びた言葉が出た。

 源太郎は驚き、喜ぶとともに、少し寂しい気がした。

 源太郎のほうが娘を心配して、なかなか寝付けなかった。

 陽光の中ですやすや寝入る幸恵を見ると、おしっこの心配もなかったのだろう。

 源太郎は、「大人になったな」と、幸恵の頬を撫でながら呟いた。
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