桜はまだか?

hiro75

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第一章「雛祭」

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 男が駆けていた。

 南町奉行所三番組同心で、定町廻りの秋山小次郎あきやまこじろうである。

 髪を乱し、毛虫のような太い眉を怒らせ、大きく開いた覗き鼻から荒い息を噴き出し、駆けていた。

 裾からは、毛深い脛が丸見えだ。

 砂ぼこりが舞い上がり、小次郎に纏わりついたあと、温かい風に流されていく。

 その後を、小者の貞吉さだきちが鼠歯のような前歯を出して、はあはあと肩で息をしながら駆けていた。

 小次郎は、幾分機嫌が悪い。

 今朝方、朝風呂にと屋敷を出たところを、

『旦那、すみませんが……』

 と、貞吉が呼び止めたからであった。

 朝風呂とは、なんとも優雅な身分だが、これも与力・同心の仕事のひとつだ。

 与力・同心にとって、湯屋と髪結いは情報収集の場であった。

 江戸の男衆は朝湯が大好きだ。

 熱い湯に浸かっていると、凝り固まった体とともに、口も綻んでくる。

 噂話も大好きなんで、べらべらとよくしゃべる。

 それが結構、犯罪の防止や解決に役立つことがあった。

 しかし、役人が入っている目の前で口を開くわけもない。

 というわけで、与力・同心は、朝湯のみ女湯に入り、隣の男湯の話を盗み聞きする。

 女の方は、朝から湯に入る者はいない。

 それでも、芸者なんかは朝から湯屋の暖簾を潜る。

 湯船に与力・同心が入っていても、

『ちょいとごめんなさいよ』

 と、平気で入ってくる。

 付届けとともに、不浄役人と蔑まれる町方の役得のひとつであった。

 小次郎も朝湯が大好きで、情報収集は二の次である。

 それでも同心を二十年近く勤めていると、これは使える話だな、これはいらねぇな、と判別がつく。

 ときには、事件の考え事もする。

 湯に浸かっているときのほうが、案外色んな考えが浮かぶものだ。

 しかし大半は、芸者の艶っぽい体を眺めながら、朝湯を楽しんでいるのである。

 今朝は、それが貞吉によって邪魔をされた。

 貞吉に呼び止められた小次郎は、むっとした表情で訊いた。

『なんでぃ?』

『へえ、それが……』

『だからなんでぃ?』

 どうも貞吉ははっきりしない。

『用がないねぇんなら、俺は行くぜい』

『いや、その……』

『だからなんでぃ?』

 貞吉は、小次郎の耳に口を寄せ、囁いた。

『な、何?』

『へい、それで、朝一で知らせた方がと思いやして』

 小次郎は、黒胡麻を塗したような月代を掻いて、

『ええい、朝っぱらから』

 と屋敷に駆け込んだ。

 すばやく着流しに着替え、腰のものを差して飛び出した。
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