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第一章「雛祭」
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男が駆けていた。
南町奉行所三番組同心で、定町廻りの秋山小次郎である。
髪を乱し、毛虫のような太い眉を怒らせ、大きく開いた覗き鼻から荒い息を噴き出し、駆けていた。
裾からは、毛深い脛が丸見えだ。
砂ぼこりが舞い上がり、小次郎に纏わりついたあと、温かい風に流されていく。
その後を、小者の貞吉が鼠歯のような前歯を出して、はあはあと肩で息をしながら駆けていた。
小次郎は、幾分機嫌が悪い。
今朝方、朝風呂にと屋敷を出たところを、
『旦那、すみませんが……』
と、貞吉が呼び止めたからであった。
朝風呂とは、なんとも優雅な身分だが、これも与力・同心の仕事のひとつだ。
与力・同心にとって、湯屋と髪結いは情報収集の場であった。
江戸の男衆は朝湯が大好きだ。
熱い湯に浸かっていると、凝り固まった体とともに、口も綻んでくる。
噂話も大好きなんで、べらべらとよくしゃべる。
それが結構、犯罪の防止や解決に役立つことがあった。
しかし、役人が入っている目の前で口を開くわけもない。
というわけで、与力・同心は、朝湯のみ女湯に入り、隣の男湯の話を盗み聞きする。
女の方は、朝から湯に入る者はいない。
それでも、芸者なんかは朝から湯屋の暖簾を潜る。
湯船に与力・同心が入っていても、
『ちょいとごめんなさいよ』
と、平気で入ってくる。
付届けとともに、不浄役人と蔑まれる町方の役得のひとつであった。
小次郎も朝湯が大好きで、情報収集は二の次である。
それでも同心を二十年近く勤めていると、これは使える話だな、これはいらねぇな、と判別がつく。
ときには、事件の考え事もする。
湯に浸かっているときのほうが、案外色んな考えが浮かぶものだ。
しかし大半は、芸者の艶っぽい体を眺めながら、朝湯を楽しんでいるのである。
今朝は、それが貞吉によって邪魔をされた。
貞吉に呼び止められた小次郎は、むっとした表情で訊いた。
『なんでぃ?』
『へえ、それが……』
『だからなんでぃ?』
どうも貞吉ははっきりしない。
『用がないねぇんなら、俺は行くぜい』
『いや、その……』
『だからなんでぃ?』
貞吉は、小次郎の耳に口を寄せ、囁いた。
『な、何?』
『へい、それで、朝一で知らせた方がと思いやして』
小次郎は、黒胡麻を塗したような月代を掻いて、
『ええい、朝っぱらから』
と屋敷に駆け込んだ。
すばやく着流しに着替え、腰のものを差して飛び出した。
南町奉行所三番組同心で、定町廻りの秋山小次郎である。
髪を乱し、毛虫のような太い眉を怒らせ、大きく開いた覗き鼻から荒い息を噴き出し、駆けていた。
裾からは、毛深い脛が丸見えだ。
砂ぼこりが舞い上がり、小次郎に纏わりついたあと、温かい風に流されていく。
その後を、小者の貞吉が鼠歯のような前歯を出して、はあはあと肩で息をしながら駆けていた。
小次郎は、幾分機嫌が悪い。
今朝方、朝風呂にと屋敷を出たところを、
『旦那、すみませんが……』
と、貞吉が呼び止めたからであった。
朝風呂とは、なんとも優雅な身分だが、これも与力・同心の仕事のひとつだ。
与力・同心にとって、湯屋と髪結いは情報収集の場であった。
江戸の男衆は朝湯が大好きだ。
熱い湯に浸かっていると、凝り固まった体とともに、口も綻んでくる。
噂話も大好きなんで、べらべらとよくしゃべる。
それが結構、犯罪の防止や解決に役立つことがあった。
しかし、役人が入っている目の前で口を開くわけもない。
というわけで、与力・同心は、朝湯のみ女湯に入り、隣の男湯の話を盗み聞きする。
女の方は、朝から湯に入る者はいない。
それでも、芸者なんかは朝から湯屋の暖簾を潜る。
湯船に与力・同心が入っていても、
『ちょいとごめんなさいよ』
と、平気で入ってくる。
付届けとともに、不浄役人と蔑まれる町方の役得のひとつであった。
小次郎も朝湯が大好きで、情報収集は二の次である。
それでも同心を二十年近く勤めていると、これは使える話だな、これはいらねぇな、と判別がつく。
ときには、事件の考え事もする。
湯に浸かっているときのほうが、案外色んな考えが浮かぶものだ。
しかし大半は、芸者の艶っぽい体を眺めながら、朝湯を楽しんでいるのである。
今朝は、それが貞吉によって邪魔をされた。
貞吉に呼び止められた小次郎は、むっとした表情で訊いた。
『なんでぃ?』
『へえ、それが……』
『だからなんでぃ?』
どうも貞吉ははっきりしない。
『用がないねぇんなら、俺は行くぜい』
『いや、その……』
『だからなんでぃ?』
貞吉は、小次郎の耳に口を寄せ、囁いた。
『な、何?』
『へい、それで、朝一で知らせた方がと思いやして』
小次郎は、黒胡麻を塗したような月代を掻いて、
『ええい、朝っぱらから』
と屋敷に駆け込んだ。
すばやく着流しに着替え、腰のものを差して飛び出した。
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