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第5章「桜舞う中で」
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翌日、正親は、正武から将軍綱吉の裁可を下達された。
当初、綱吉はあまりいい顔をしなかったが、正武が、
『政を司るものが、己の都合で定めを良いように解釈しては、下の者に示しがつきませぬ、云々』
と、どこかで聞いたような言葉を使って説き伏せたので、将軍も渋々裁可を下したらしい。
ただ、正親に将軍の裁可を下達した正武も、あまりいい顔はしていなかったが………………
下城した正親は、直ちに源太郎を呼びつけ、お七の火罪が決定したことを知らせてやった。
源太郎は、お七の刑が死罪ではなく、『晒し・市中引廻しのうえ、火罪』となったので、一瞬顔を曇らせた。
が、すぐにもとの顔に戻って、この裁可を静かに受けた。
遠島以上の刑は、吟味方与力が小伝馬町まで出張って、直接囚人に判決を言い渡すことになっている。
そこで、源太郎もすぐさま退出して、小伝馬町に走ろうと腰をあげた。
だが、
「神谷、お前、わしを鬼だと思っておるのだろ?」
と、正親が出し抜けに訊いてきたので、慌てて座り直した。
「なっ、何を、滅相もござりませぬ」
「よいよい、顔に書いてあるわい」
「御奉行、拙者は……」
源太郎を無視して、正親は右足を庇いながら立ち上がり、縁側に出た。
傍に控えていた久太郎は、正親の猫背気味の背中を目だけで追う。
今日も、ぬけるような青空だ。
「確かに、お七には同情する面もある。じゃが、定めは定め、情は情じゃ」
「は、はい。それは心得ております」
「情だけでは、人は裁けん。情だけでは、裁く側の人の想いひとつで、裁かれる側の一生が決まってしまう。それを避けるためにも定めがあるのじゃ。ましてや、定めを作り、政を司る者が、その定めを自分たちの都合に合わせて変えていけば、必ずや幕府は滅びる。そうは思わぬか?」
「は、誠に。御定法どおりで」
「じゃからと言って、わしが何も考えずに、お七の刑を御定法どおりに決めたと思っておろう?」
源太郎は、そう思っている……という顔をしている。
「甘いな」
と、正親は笑った。
「わしとて、いろいろ考えておるわい。確かに、御老中方が申すように、所払いが良かったのかも知れぬ。その方が、町人も納得しよう、と。じゃが、わしは火罪のほうが良いと思った」
「はっ、見せしめのために、晒し・引廻しをすれば、下々の者もむやみに火付けを働こうなどと考えないでしょう」
源太郎が口を挟むと、正親は頷いた。
「そのとおりじゃ。じゃが、それだけではない。お七のためでもある」
源太郎は首を傾げる。
お七のためを思うのなら、江戸所払いが最良だろう。
正親は、澄み渡るような空を見上げながら言った。
「もし、お七が所払いになり、どこかで静かに暮らしても、やがて生田という男に騙され、利用されたのだという噂が耳に入るであろう。そのとき、あの娘はどう思うかの? あの美しい目をした娘っこは? この世の非情理に耐えられようか? いや、耐えられまい。この世を恨んで、自ずと命を絶つやもしれぬ。彼の世に落ちて、恨みの渦の中、苦しみ続けるかもしれん。それだけは……、ワシはそれだけは避けてやりたかった。それに、熱し易くて冷め易い町人のことだ、お七のことなどすぐに忘れてしまうであろう。だが、それではあまりにも可哀想じゃ。年端もいかぬ娘が、恋しい男逢いたさに火付けを働いた。だが、その男はお七のことなどこれっぽっちも想っておらなんだ。その悲恋が誰の心の中にも残らず、消え去っていくのはあまりも可哀想であろう。町人たちに、お七という素直で、心根の美しい娘がおったということをいつまでも覚えていて欲しいのじゃ。まあ、あとは、晒し・市中引廻しをすれば、お上に対する町人の怒りはますます大きくなろう。そうなれば、御老中方も生田に何らかの処罰を降さねばならなくなるまい。そう考えての刑じゃ」
「そ、そこまで考えておられたとは……」
「そうよ。そこまで考えて、刑罰を決めるものなのよ」
源太郎は、深々と頭を下げた。
「罪を犯すのも人ならば、その罪を罰するのもまた人じゃ。あったけえ血が通った人が、罪を罰するんじゃ。人の心がわからなきゃ、この商い、やっていけねぇだろう?」
正親は、べらんめい調で言った。
源太郎は、ただただ黙って聞いていた。
「それに……」と、正親は続けた、「火付けは大罪じゃ。あれで、子を亡くした親もおる。その親に、火付けを許せと言えようか?」
源太郎は、横目で久太郎の顔を見やった。
澤田は、口をへの字に曲げて、じっと座している。
「が……じゃ、わしとて鬼ではない。これでも人の心はある」
「もちろんでございます」
「ときに……、桜はもうすべて散ったかの?」
正親は唐突に訊いた。
「はあ? はあ……、寛永寺の桜は殆ど散りましたが、ただ、遅咲きの桜がまだ咲いていると思いますが……、それが、なにか?」
源太郎は、首を傾げて答えた。
「うむ、鈴が森までに遅咲きの桜が咲いておるところはあろうか?」
「それは、探索すればあると思いますが……」
「うむ、いや、なに、鈴が森までは道中長い。検使役たちが、そこで休んでも良かろうが」
「はあ……」
と呟いてしばし、
「あっ」
と思い当たって、
「はい、誠に。早速、秋山たちに探させますので」
源太郎は頭を下げると、どたどたと足音を立て下がって行った。
正親はその足音を聞いて、
「定めは定め、情は情よ。あやつも、まだまだよのう、澤田」
と、口の端を緩めて久太郎を見た。
「ごもっともでございます」
久太郎は、いつものごとく狐になった。
当初、綱吉はあまりいい顔をしなかったが、正武が、
『政を司るものが、己の都合で定めを良いように解釈しては、下の者に示しがつきませぬ、云々』
と、どこかで聞いたような言葉を使って説き伏せたので、将軍も渋々裁可を下したらしい。
ただ、正親に将軍の裁可を下達した正武も、あまりいい顔はしていなかったが………………
下城した正親は、直ちに源太郎を呼びつけ、お七の火罪が決定したことを知らせてやった。
源太郎は、お七の刑が死罪ではなく、『晒し・市中引廻しのうえ、火罪』となったので、一瞬顔を曇らせた。
が、すぐにもとの顔に戻って、この裁可を静かに受けた。
遠島以上の刑は、吟味方与力が小伝馬町まで出張って、直接囚人に判決を言い渡すことになっている。
そこで、源太郎もすぐさま退出して、小伝馬町に走ろうと腰をあげた。
だが、
「神谷、お前、わしを鬼だと思っておるのだろ?」
と、正親が出し抜けに訊いてきたので、慌てて座り直した。
「なっ、何を、滅相もござりませぬ」
「よいよい、顔に書いてあるわい」
「御奉行、拙者は……」
源太郎を無視して、正親は右足を庇いながら立ち上がり、縁側に出た。
傍に控えていた久太郎は、正親の猫背気味の背中を目だけで追う。
今日も、ぬけるような青空だ。
「確かに、お七には同情する面もある。じゃが、定めは定め、情は情じゃ」
「は、はい。それは心得ております」
「情だけでは、人は裁けん。情だけでは、裁く側の人の想いひとつで、裁かれる側の一生が決まってしまう。それを避けるためにも定めがあるのじゃ。ましてや、定めを作り、政を司る者が、その定めを自分たちの都合に合わせて変えていけば、必ずや幕府は滅びる。そうは思わぬか?」
「は、誠に。御定法どおりで」
「じゃからと言って、わしが何も考えずに、お七の刑を御定法どおりに決めたと思っておろう?」
源太郎は、そう思っている……という顔をしている。
「甘いな」
と、正親は笑った。
「わしとて、いろいろ考えておるわい。確かに、御老中方が申すように、所払いが良かったのかも知れぬ。その方が、町人も納得しよう、と。じゃが、わしは火罪のほうが良いと思った」
「はっ、見せしめのために、晒し・引廻しをすれば、下々の者もむやみに火付けを働こうなどと考えないでしょう」
源太郎が口を挟むと、正親は頷いた。
「そのとおりじゃ。じゃが、それだけではない。お七のためでもある」
源太郎は首を傾げる。
お七のためを思うのなら、江戸所払いが最良だろう。
正親は、澄み渡るような空を見上げながら言った。
「もし、お七が所払いになり、どこかで静かに暮らしても、やがて生田という男に騙され、利用されたのだという噂が耳に入るであろう。そのとき、あの娘はどう思うかの? あの美しい目をした娘っこは? この世の非情理に耐えられようか? いや、耐えられまい。この世を恨んで、自ずと命を絶つやもしれぬ。彼の世に落ちて、恨みの渦の中、苦しみ続けるかもしれん。それだけは……、ワシはそれだけは避けてやりたかった。それに、熱し易くて冷め易い町人のことだ、お七のことなどすぐに忘れてしまうであろう。だが、それではあまりにも可哀想じゃ。年端もいかぬ娘が、恋しい男逢いたさに火付けを働いた。だが、その男はお七のことなどこれっぽっちも想っておらなんだ。その悲恋が誰の心の中にも残らず、消え去っていくのはあまりも可哀想であろう。町人たちに、お七という素直で、心根の美しい娘がおったということをいつまでも覚えていて欲しいのじゃ。まあ、あとは、晒し・市中引廻しをすれば、お上に対する町人の怒りはますます大きくなろう。そうなれば、御老中方も生田に何らかの処罰を降さねばならなくなるまい。そう考えての刑じゃ」
「そ、そこまで考えておられたとは……」
「そうよ。そこまで考えて、刑罰を決めるものなのよ」
源太郎は、深々と頭を下げた。
「罪を犯すのも人ならば、その罪を罰するのもまた人じゃ。あったけえ血が通った人が、罪を罰するんじゃ。人の心がわからなきゃ、この商い、やっていけねぇだろう?」
正親は、べらんめい調で言った。
源太郎は、ただただ黙って聞いていた。
「それに……」と、正親は続けた、「火付けは大罪じゃ。あれで、子を亡くした親もおる。その親に、火付けを許せと言えようか?」
源太郎は、横目で久太郎の顔を見やった。
澤田は、口をへの字に曲げて、じっと座している。
「が……じゃ、わしとて鬼ではない。これでも人の心はある」
「もちろんでございます」
「ときに……、桜はもうすべて散ったかの?」
正親は唐突に訊いた。
「はあ? はあ……、寛永寺の桜は殆ど散りましたが、ただ、遅咲きの桜がまだ咲いていると思いますが……、それが、なにか?」
源太郎は、首を傾げて答えた。
「うむ、鈴が森までに遅咲きの桜が咲いておるところはあろうか?」
「それは、探索すればあると思いますが……」
「うむ、いや、なに、鈴が森までは道中長い。検使役たちが、そこで休んでも良かろうが」
「はあ……」
と呟いてしばし、
「あっ」
と思い当たって、
「はい、誠に。早速、秋山たちに探させますので」
源太郎は頭を下げると、どたどたと足音を立て下がって行った。
正親はその足音を聞いて、
「定めは定め、情は情よ。あやつも、まだまだよのう、澤田」
と、口の端を緩めて久太郎を見た。
「ごもっともでございます」
久太郎は、いつものごとく狐になった。
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