法隆寺燃ゆ

hiro75

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第二章「槻の木の下で」 後編

第1話

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 誰も足を踏み入れていない雪の上を歩くのは、気持ちいい。

 この世の全てを征服した気分になれるから………………

 その雪の上に寝転び、澄み渡る空を眺めると、なお気持ちいい。

 この世は、自分のためにあると感じることができるのだから………………

 弟成おとなりは、白い息を吐きながら流れゆく雲を眺め続けていた。

「弟成!」

 どこかで、自分の名を呼ぶ声がする。

「弟成!」

 ほら、また………………、あれは黒万呂くろまろだ。

「弟成!」

 雪を踏みしめる音が、近づいて来る。

 ザック、ザックと………………

「ここにおったんか、探したぞ」

 黒万呂が、心配そうに覗き込んだ。

「どないした?」

「雲、見てた」

「雲?」

 黒万呂は、空を見上げる。

 その頭上にも、雲は流れていく。

「ほんまや、きれいやな」

 雲は、流れていく。

 誰の上にも、平等に………………

 しばらく、二人はその自然の平等を分かち合った。

「行こう、もう、椿井を降りるって」

 黒万呂は、未だ寝転がる弟成を急かした。

「うん」

 弟成は、黒万呂に促されて立ち上がり、もう一度空を見上げた。

「こことも、もうお別れやな」

 黒万呂は辺りを見回した。

 そこは、皆で枝木を振り回しながら駈けずり回った場所だ。

「行くぞ」

 黒万呂は、まだ雲を眺めている弟成に言った。

「うん」

 ようやく弟成も、黒万呂の後に付いて山を降りて行った。

 上宮王家は、斑鳩だけでなく、山城や摂津、伊予などにも所領を持っていたが、その崩壊にともない、大王家や蘇我家等の所領へと編入されていった。

 特に、本拠地であった斑鳩の所領は、斑鳩寺がそのまま引き継ぐこととなり、離宮があった椿井も、全て斑鳩寺の所領となった。

 だが斑鳩の所領は膨大で、それを再編成するために、斑鳩各地に散らばっていた家人けにん奴婢ぬひたちを斑鳩寺に集め、新たに寺の家人・寺の奴婢として編成し直したのである。

 そのため、椿井つばい離宮かりみやの奴婢たちは、新年早々山を降り、斑鳩寺へと移住することとなった。

 弟成と黒万呂が裏山から降りて来ると、奴婢長屋には弟成の家族と黒万呂の家族しか残っていなかった。

「阿呆、どこ行ってんの! 今日は、忙しいんやで」

 3雪女__ゆきめ__#は、その厳しい口調とは裏腹に、弟成の頭を優しく叩いた。

「ほな、皆揃ったな。行くぞ」

 弟成の父親である廣成ひろなりは、みんなの先頭に立つと、椿井の里を降りて行った。

 母の黒女くろめも、姉の雪女もそれに続いた。

 黒万呂の父親の文万呂ふみまろも、妻の三島女みしまめと黒万呂の弟の倉人万呂くらひとまろ若万呂わかまろを連れ、里山を下って行く。

 弟成と黒万呂も、それに続いた。

 山道の雪は、幾人かの足によって踏み荒らされ、黒い地肌を露出していた。

 そこには、何の感動もない。

 むしろ、白い雪と黒い土が混ざり合っているのを見て、弟成は嫌悪感を持った。

 誰も、何も話さない。

 皆、黙って歩いて行く。

 数ヶ月前、そこには笑いがあった。

 ひもじい生活ではあったが、誰もが笑顔を絶やさなかった。

 が、いま椿井の人々に笑顔はない。

 そこには、大切な人々を失った悲しみと、これからの不安が付きまとっている。

 弟成もまた、同じであった。

 そこは通い慣れた道だった。

 数ヶ月前、彼はこの道を嬉々として往復していた。

 時には、苦い思いで道を登ったこともあった。

 しかし、いま彼は、この道の先に待ち受ける闇夜に、不快感を抱いていた。

 斑鳩の里に行きたくはなかった ―― 悲しい思い出の待つ、あの里には………………

 一生、椿井の裏山で暮らして生きたかった。

 あのまま雪に埋もれてしまいたいとも思っていた。

 だが、彼はいま、この踏み荒らされた雪道を歩いていた。

 歩かなければならないと思った。

 踏み外すことなく。

 正しいこの道を………………

 それが、三成みなりとの約束だ。

 斑鳩寺に近づくと、天高く聳える塔が見えてきた ―― 今日は、弟成にどんな気持ちを抱かせるのだろうか?

 だが彼は、これを見上げることなく通り過ぎてしまった。

 いや、見ることができなかった。

 塔には、あの頃の思い出が一杯詰まっていた。
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