本能寺燃ゆ

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第五章「盲愛の寺」

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 十三日に岩村から禰羽橋へ、翌日には浪合に着陣すると、信忠から武田親子の首が届けられた。

 首実検を行った殿は、

「〝大猿(信玄)〟が亡くなったあとは、そうそうもつまいとは思ったが……、ここまで甲斐・信濃・駿河を治め、この儂の頭を悩ませたのは、武将として天晴! されど、運がなかったな」

 と手を合わせ、矢部家定に親子の首を飯田に晒すように命じた。

 十六日には、武田信豊たけだのぶとよの首も届けられた。

 信豊は勝頼の従兄弟で、勝頼の本隊とは離れ、再起を図るために二十騎ほどで下曾根浄喜しもそねじょうきが籠っていた小諸に向かったらしい。

 これを迎え入れた浄喜だったが、織田に靡いて、信豊を討ち取ってしまったらしい。

 浄喜は、織田に味方する証として、この首を届けたようだ。

 殿は、勝頼、信勝、信豊、そして仁科盛信の首を、甲斐を平定した証として、京へと送った。

 十九日、殿は上諏訪殿の法花寺に着陣、先に入っていた津田(織田)信澄、菅屋長頼、矢部家定、堀秀政、長谷川秀一、福富秀勝、氏家行継うじいえゆきつぐ竹中重隆たけなかしげたか、原政茂、武藤康秀むとうやすひで、蒲生賦秀(氏郷)、長岡(細川)忠興、池田元助、蜂屋頼隆、阿閉貞征、不破直光、高山重友(右近)、中川清秀、惟住(丹羽)長秀、陽舜房(筒井)順慶、そして十兵衛の軍がその周りに展開した。

 翌日、木曾義昌が馬二頭をもって参陣。

 殿は、此度の働きの礼として、後藤光乗作の刀と黄金百枚を送り、所領の安堵とともに信濃のうち二郡を送る約束をした。

 その夕刻、小笠原信嶺も馬一頭をもって参上、これに本領安堵の朱印状を返した。

 さらに梅雪斎不白(穴山信君)も参上し、馬一頭を贈った。

 当世具足に黒衣を纏った異形の姿で現れ、剃り上げた頭を深々と下げながら、織田家の武田征伐を祝した。

「何を言われる、此度は梅雪斎殿のお陰じゃ」

「某は何も」

「いやいや、梅雪斎殿が我らについてくれたことが大きい。あれによって、我らに運が回ってきた」

「斯様なことで、少しでも前右府さきのうふ様のお力となりましたら、この梅雪、喜びに堪えませぬ」

 殿は、脇差と小刀、鞘袋と燧袋を贈った。

「よくお似合いじゃ」

「ありがたき幸せ。此度は、斯様なおもしろき品をいただき、恐悦至極にござりまする」

「なに、此度の梅雪斎殿の働きからすれば、斯様な代物では不足にござろう」

「いえ、これ以上にない、逸品にござりまする」

「それだけだと思われると、儂も恥ずかしい。もちろん、所領安堵の朱印も出しましょうぞ」

 梅雪斎が顔をあげ、眉を寄せる。

「如何様になされた?」

「はっ、あっ、いや………………、所領安堵でございまするか?」

「何か、ご不満か?」

「いや、不満など………………、されど、御味方をした暁には、甲斐一国を与えると………………」

 今度は、殿の眉間に皺が寄った。

「甲斐一国……? 誰が……、斯様なことを約した?」

 先ほどまでの穏やかさとは打って変わって、怒りを押し殺したような声だ ―― これは………………殿のご気色を損ねたぞ。

「梅雪斎殿、誰が斯様なことを申したか?」

 殿は、梅雪斎を睨みつける。

 蛇に睨まれた蛙 ―― 如何に歴戦の武将といえども、やはり殿の睨みは効くようだ。

 梅雪斎は、急に体を強張らせ、

「あっ、いや、その………………、これは某の勘違いであったやもしれませぬ。申し訳ございませぬ、所領安堵の一件、喜んでお受けいたしまする」

 と、声を上ずらせ、慌てて下がっていった。

 殿は、その背中をぎっと睨みつけていた。

「探らせましたが………………」

 と、話をはじめる間に、十兵衛は乾いた口を潤すように酒を煽った。

 両目がくわっと開き、「おっ!」と声をあげた。

「これは……」

 殿は、にやりと笑う。

「どうじゃ、美味いじゃろう」

「天野でござりまするか?」

「いや、江川らしい。北条殿がな、馬と、この白鳥の徳利とともに贈ってくれたものじゃ」

「左様でござりまするか。うむ、これは美味い」

 十兵衛が、珍しく自ら杯を差し出すので、太若丸はその徳利で酒を注いだ。

 もう一杯煽ってから、

「それで、如何様であった?」

 と、殿が訊ねた。

 十兵衛は、ごくりと飲み干し、

「さすれば………………、梅雪斎殿に甲斐一国を与えると約し、武田家に旗を翻すように申したのは………………、やはり徳川殿のようでござりまする」

「やはりか……」

 殿は、鼻で笑った。

「詳しくは……、こちらに与すれば甲斐一国を与えるが、その前に大殿に扶持を貰えるように斡旋する、それが叶わぬならば、徳川殿が責任をもって扶助する………………と」

「ほう……、偉くなったものじゃのう、羽林(家康)は。十兵衛よ、三河の田舎狸が、いつから領地を約せる立場になったのじゃ?」

 十兵衛は、何も言えず酒を飲む。

「それだけでなく、儂が扶持を断れば、己が召し抱えるなど、何を勝手に決めておるのじゃ?」

「それは……、梅雪斎殿に反旗を決意させるために、徳川殿も色々と手を尽くそうとしたのでは………………、殿に前もって話はなかったので?」

 殿は、一瞬首を傾げたが、

「いや……、あった! あったが、梅雪斎を寝返らせるために、扶持を約してくれぬかとあった。それは当然と、儂は返答したぞ。じゃが羽林は、それが叶わぬと思っておった、つまり、この儂が約束を反故にすると思っておったということではないか?」

「それは……、聊か考えすぎかと……」

「いや、そうに違いない」

 と、殿は断言する。

 家康の肩を持つわけではないが、四国の一件もあるし、そう思われてもしょうがないところが、殿にはある。

「十兵衛、あれがいまの立場にあるのは、誰のお陰か? 三州・遠州二国の主になれたのは、一体誰のお陰か?」

「それはまさに、大殿のお陰にござります」

「うむ、儂が今川を討ち取ったお陰で、あやつは人質から逃れて、武将として旗をあげることができたのではないか? それでなければ、やつは三州どころか、良くて一生部屋住みか、運が悪ければ狸汁にでもされていたところだぞ」

「御尤もで……」

 殿は、脇息をとんとんと指ではじきながら、何事か考えている。

「狸に化かされる前に、いっそのこと撃ち殺すか? 十兵衛よ、狸汁は美味いかの?」

 と、唐突に訊いた。

「臭みがございまするので、あまり。それよりも、猪や鹿のほうが美味しいかと」

「煮ても焼いても食えぬやつか、狸は……、一癖も二癖もあるやつじゃ………………、しかし、三州・遠州の海のものは、美味そうじゃな?」

 十兵衛は酒を飲みながらも、殿の様子を伺っている。

「天下取り寸前で、狸に化かされ、掠め取られてもかなわん。狸に化かされる前に……、こちらが化かすか? のう、十兵衛」

 杯を置き、殿を見つめる。

「北条は……、いづれに味方しようかの?」

 いづれとは………………織田か? 徳川か? という意味か?

「もちろん、大殿でござりましょう」

 十兵衛は断言する。

 殿は頷く。

 それは当然であろう ―― 天下周辺を抑え、中国、四国、北陸へと覇権を広げようとしており、いまや甲斐まで押さえてしまった織田と、三河・遠江二国の徳川を秤にかければ、北条でなくとも味方する相手は分っている。

 殿は、しばし考え、口を開く。

「狸には……、駿河をやる」

 ついに家康の呼び名が〝狸〟となった。

「褒美もくれぬ〝けち〟な奴と思われては、腹が立つ。儂が、狸に何事が企んでいると思われても、また胸糞が悪い」

 十兵衛は頷く。

「甲斐は梅雪斎の所領を除いて……、与兵衛(河尻秀隆)にやる。関東も念のために……、上野に伊予(滝川一益)を遣わすぞ」

 上野は、武田の支配下にあった。

 徳川を包囲するのか?

「甲斐の〝小猿(武田勝頼)〟退治の次は、三河の〝狸〟退治じゃ。この一件は、儂と十兵衛だけの話じゃぞ、よいな」

「畏まり候」 

 十兵衛は、深々と頭を下げた。
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