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第五章「盲愛の寺」
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躑躅ヶ崎を立って、笛吹川を渡って右左口へ、右左口から女坂をあがって本栖へ、本栖から浅間神社へと入ったが、道中、川には立派な橋がかけてあり、道も草木を刈り開き、要所要所に休憩所が設けられ、酒や肴が用意され、陣屋も立派なものが建てられ、二重三重にも柵や堀で囲まれ、お供のものにも大層なごちそうが振舞われていた。
聞けば、家康の指示であるらしい。
「いやいや、儂のために斯くも素晴らしき仕度をしてもらい、羽林(家康)殿には感謝してもしきれぬな」
と、殿は酷く上機嫌だったが、裏では十兵衛と、
「この儂を化かそうと、必死のようじゃな?」
「これほどの気の使いよう、梅雪斎の一件でまずいと思ったのでしょうな。しかし、これは………………」
十兵衛は、浅間神社の境内に建てられた宿舎を見回し、幾分呆れたような顔である。
殿が一泊するだけの仮宿である ―― 柱から壁、天井に至るまで金銀が散りばめられている。
殿の好みといえばそうだが、聊かやりすぎなような気もするが………………
「三河と遠江で……、どのぐらいじゃ?」
「きちんとした検地をしたわけではございませぬので、詳しい貫高は分りませぬが……、みたところ、三河でおおよそ十五万、遠江で十万、あわせて二十五万貫ほどかと」
「すべてが狸の懐に入るわけであるまい?」
「徳川殿が、百姓から年貢としてどれだけ取っているかは分かりませぬが、半分を治めても十二、三……、まあ、十五万貫ぐらいでしょうか」
「戦をして、なおかつこの羽振り……、狸はよほど銭を貯めこんでおるようじゃのう?」
「かなりの吝嗇と聞き及びまする。家臣への褒美も、出し渋るほどとか」
「それでよく、家臣らはついてくるものじゃ?」
「三河武士のなせるところでござりましょうか?」
「面倒臭い連中じゃな」
殿が苦笑したところに、この仮宿の饗応役が挨拶にやってきた。
「如何でございましょうか、此度の宿は?」
饗応役は、恐る恐る訊ねる。
殿は、満面の笑みで、
「うむ、満足じゃ!」
「それは宜しゅうござりました」
と、ほっと胸を撫でおろす。
「羽林殿には、斯様な宿だけでなく、馳走も頂き、感謝するとお伝えくだされ。これほどのことをしてもらって、礼としては足りぬと思うが……」
殿は、吉光作の脇差と一文字作の長刀、黒駮の馬を家康に進呈した。
「ありがたき幸せ、我が主も感涙いたしましょう」
「羽林殿には、よくよく伝えられよ」
「畏まり候。しかれば……、明日以降は如何ほどに?」
「明日?」
「我が主から、道案内を仰せつかっておりまするので、よろしければ某がご案内いたしまする」
「おお、それはありがたい」と言いながらも、「じゃが、結構、結構」
「されど………………」
「結構、結構」と、殿は拒否する、「儂の気分で、ゆるりゆるりと行かせてもらう」
饗応役が下がると、殿はぽつりと呟いた。
「案内がおっては、見たいものも、見れんからのう」
翌朝早くに浅間神社を立ち、田子の浦を通って富士川を渡る。
神原で、家康が用意した酒肴に興じ、しばし地元のものの話を聞いたあと、油井へ。
そこから久能の城を見た後は、江尻に宿を借りた。
翌日以降も、江尻、田中、懸川とゆっくりと上がっていくが、その要所要所に休息所が設けられている。
宿を借りるにも、事前に家康の報せが飛んでいるのだろう、かなりの饗応振りである。
天竜川までくると、見事な舟橋がかかっていた。
これほどの舟橋を駆ける財力があるとは、家康恐るべしである。
浜松まで来ると、殿は太若丸と乱だけを残し、小姓衆・馬廻り衆を解散させた ―― それぞれ思い思いに見物して安土へ帰れよという、殿の親心である。
残ったお弓衆と鉄砲衆を引き連れ、今切りを渡り、吉田へ。
吉田から岡崎城下のむつた川を通り、矢作川に差し掛かった。
ここにも、立派な橋がかけてある。
「ここにも橋か……、気が利くというか、むしろ気持ちが悪いほどじゃな。どうじゃ、十兵衛よ、三州・遠州と見てきたが?」
「橋だけでなく、それぞれの城もよくよく普請され、これを落とすには、なかなか労を要するかと………………」
「攻めるのは、無理か?」
「むしろ、こちらに誘い込んで………………」、不意に十兵衛の動きが止まる、「大殿……」
「うむ」
「鉄砲を!」
十兵衛は、傍らにいた鉄砲衆のひとりから鉄砲を受け取り、弾を込め、縄に火を点け、振り向きざまに草むらの方へと発砲した。
乾いた音とともに、水鳥が数羽飛び立つ。
「鉄砲衆!」
十兵衛は、鉄砲衆数名を引き連れ、草むらへと駆け込んでいく。
「猪でございますか?」
乱の言葉に、殿はにやりと笑う。
「いや、狸かな?」
これは、何かあったな!
太若丸は、乱を促し、残った鉄砲衆とお弓衆を指揮して、殿を守るように橋を駆け抜けた。
その後は何事もなく、池鯉鮒の宿へと入った。
ここには、水野惣兵衛忠重が待っていた。
「おや、惟任殿は? ご一緒と伺っておりましたが?」
「うむ、狩りに夢中でな」
「左様でございまするか」
忠重は何やら腑に落ちない顔をしていたが、早速饗応が始まった。
忠重の注いだ酒を飲み干すと、
「惣兵衛も、此度の甲州攻め、大儀であったな。そなたのお陰で、勘九郎もよくよく働くことができたようじゃ、恩に来るぞ。それそれ」
と、殿が忠重の杯に酒を注いだ。
「滅相もないことで」
「どうじゃった、勘九郎は?」
「それはもう、武将としても、織田家当主としてもご立派で。これで、織田家も安泰かと」
「天下人としては、どうじゃ?」
忠重は、一瞬詰まったが、
「もちろんでござりまする」
遅れて十兵衛がやってきた。
「どうじゃった、獲物の首尾は?」
「二匹仕留めましたが、一匹逃しました」
「狸じゃったか、頭の黒?」
「いえ、犬でござりました、いがぐり色の……」
「左様か。ほれ、十兵衛も飲め」
十兵衛は、忠重から注いでもらった酒をぐいっと空けた。
「ときに惣兵衛は……、羽林殿の叔父であったかのう?」
殿の問いに、忠重は頷く。
「某の姉が、次郎三郎(家康)の母に当たりまする」
水野氏は、尾張の知多郡小河において地頭であったが、下剋上の乱世に入って勢力を拡大し、忠重の父水野忠政の代には緒川・刈谷の二城を中心に、近隣の地侍たちと凌ぎを削っていた。
その西に織田、東に松平、さらに松平を傘下におさめる今川がいる。
忠政は生き残るために織田家に協力しながらも、松平家に己の娘たちを嫁に出すなどして、領地の保全を図っていた。
その娘のひとりが於大の方 ―― 松平広忠の正室で、家康の母である。
「惣兵衛は、一時期羽林殿の配下にいたな?」
忠重は頷く。
父忠重亡き後、家督は次男信元が継ぎ、忠重は兄をよく助けていた。
だが、信元は武田と内通したということで処断された。
この武田との内通を殿の耳に入れたのが佐久間信盛であり、これは真っ赤な嘘で、水野氏の領地欲しさに殿に讒言したと………………と、そんな噂もあったが、本当のところは分からない。
主と領地を失った忠重は一時期家康のもとに身を寄せるが、信盛が追放されると、刈谷城主となって織田家に復帰した。
「甲斐からここまでの道のり、羽林殿のお陰で何の苦もなく、随分と快適であった。儂からものちほど礼を申すが、惣兵衛からも礼を申しておいてくれ」
「ありがたき幸せ。次郎三郎も喜びましょう」
「しかし……、羽林殿は金持ちじゃのう、羨ましい限りじゃ。これほどの金、どこで得ておるのかのう?」
「さあ、それは某にも………………」
「これほどの金があれば、天下も取れようのう」
「まさか、左様なことは」
「当代の武将であれば、天下への野望を持っていても、おかしくはあるまい。いや、むしろ斯様な気概がなければ、一国の領主は務まるまい、のう、十兵衛?」
「左様で」
と、十兵衛は頷く ―― その心境は如何に?
「まあ、確かに左様でございましょうが………………」、忠重は困ったような顔である、「いまは織田家の天下 ―― これをひっくり返すなど、次郎三郎も考えてはおりますまい。いまは、大殿、殿のために、粉骨砕身で働くつもりでございましょう」
「それは……、羽林殿の本意か?」
「この惣兵衛と同様、まことの気持ちにござりまする」
殿は、しばし黙って酒を飲んでいたが、
「うむ、惣兵衛及び羽林殿の心構え、よくよく分かった。加えて斯様な馳走までしてもらっては、礼を申しただけでは気が済まぬな、うむうむ、今度は儂が羽林殿を招いて馳走しよう」
「ありがたき幸せ、次郎三郎も喜ぶかと思います」
話は、此度の甲斐への進軍の一件に移り、太若丸は小用をもよおしたので、外へと出た。
ほっと息をついていると、後ろから誰かがやってくる。
隣に立ったので見上げると、十兵衛であった。
甲斐からここまで、殿のお供で一緒であったが、こうやってふたりっきりになるのは、実に久しぶりである。
色々と話したいことはあったが、ふたりっきりになると、意外に言葉もないな………………
「今宵は、月がきれいでござりまするな」
十兵衛の言葉に、まことに………………と答えるのが精いっぱい。
「近頃、大殿のご様子は如何か?」
別段、あの様子で。
「なるほど、天下は………………」
言いかけて、十兵衛は口を噤んだ。
もうひとり来たようだ………………せっかくふたりっきりだったのに………………
「いやいや、某もお供して宜しいか?」
傍に立ったのは、忠重であった。
「いや~、斯様な月夜のもとで小便とは、気分が晴れ晴れしますな」
などと言いながら、草むらに激しい音を立てた。
しばし、音だけが響き渡ったが、
「惟任殿、犬のほうは?」
不意に訊いてきた。
「あれは、あまりに殺気立っておりましたので、気配で分かりましたよ」
「馬鹿が!」
誰に言っているのだろう。
忠重は一物を仕舞うと、「手間をお掛けした」と言って下がろうとした。
「水野殿……」
忠重は立ち止まり、振り返る。
「徳川殿によくよくお伝えくだされ、今度は大殿から接待を受けようが、よくよく油断なく………………と」
忠重は眉間に皺を寄せる。
「腐った魚を食わされ、腹を下されぬように」
黙って頷くと、そのまま宿に入っていった。
十兵衛は、にこりと笑い、
「権太殿、行きまするぞ」
どこに?
「天下取りに」
安土に帰城したのは、四月二十一日である。
聞けば、家康の指示であるらしい。
「いやいや、儂のために斯くも素晴らしき仕度をしてもらい、羽林(家康)殿には感謝してもしきれぬな」
と、殿は酷く上機嫌だったが、裏では十兵衛と、
「この儂を化かそうと、必死のようじゃな?」
「これほどの気の使いよう、梅雪斎の一件でまずいと思ったのでしょうな。しかし、これは………………」
十兵衛は、浅間神社の境内に建てられた宿舎を見回し、幾分呆れたような顔である。
殿が一泊するだけの仮宿である ―― 柱から壁、天井に至るまで金銀が散りばめられている。
殿の好みといえばそうだが、聊かやりすぎなような気もするが………………
「三河と遠江で……、どのぐらいじゃ?」
「きちんとした検地をしたわけではございませぬので、詳しい貫高は分りませぬが……、みたところ、三河でおおよそ十五万、遠江で十万、あわせて二十五万貫ほどかと」
「すべてが狸の懐に入るわけであるまい?」
「徳川殿が、百姓から年貢としてどれだけ取っているかは分かりませぬが、半分を治めても十二、三……、まあ、十五万貫ぐらいでしょうか」
「戦をして、なおかつこの羽振り……、狸はよほど銭を貯めこんでおるようじゃのう?」
「かなりの吝嗇と聞き及びまする。家臣への褒美も、出し渋るほどとか」
「それでよく、家臣らはついてくるものじゃ?」
「三河武士のなせるところでござりましょうか?」
「面倒臭い連中じゃな」
殿が苦笑したところに、この仮宿の饗応役が挨拶にやってきた。
「如何でございましょうか、此度の宿は?」
饗応役は、恐る恐る訊ねる。
殿は、満面の笑みで、
「うむ、満足じゃ!」
「それは宜しゅうござりました」
と、ほっと胸を撫でおろす。
「羽林殿には、斯様な宿だけでなく、馳走も頂き、感謝するとお伝えくだされ。これほどのことをしてもらって、礼としては足りぬと思うが……」
殿は、吉光作の脇差と一文字作の長刀、黒駮の馬を家康に進呈した。
「ありがたき幸せ、我が主も感涙いたしましょう」
「羽林殿には、よくよく伝えられよ」
「畏まり候。しかれば……、明日以降は如何ほどに?」
「明日?」
「我が主から、道案内を仰せつかっておりまするので、よろしければ某がご案内いたしまする」
「おお、それはありがたい」と言いながらも、「じゃが、結構、結構」
「されど………………」
「結構、結構」と、殿は拒否する、「儂の気分で、ゆるりゆるりと行かせてもらう」
饗応役が下がると、殿はぽつりと呟いた。
「案内がおっては、見たいものも、見れんからのう」
翌朝早くに浅間神社を立ち、田子の浦を通って富士川を渡る。
神原で、家康が用意した酒肴に興じ、しばし地元のものの話を聞いたあと、油井へ。
そこから久能の城を見た後は、江尻に宿を借りた。
翌日以降も、江尻、田中、懸川とゆっくりと上がっていくが、その要所要所に休息所が設けられている。
宿を借りるにも、事前に家康の報せが飛んでいるのだろう、かなりの饗応振りである。
天竜川までくると、見事な舟橋がかかっていた。
これほどの舟橋を駆ける財力があるとは、家康恐るべしである。
浜松まで来ると、殿は太若丸と乱だけを残し、小姓衆・馬廻り衆を解散させた ―― それぞれ思い思いに見物して安土へ帰れよという、殿の親心である。
残ったお弓衆と鉄砲衆を引き連れ、今切りを渡り、吉田へ。
吉田から岡崎城下のむつた川を通り、矢作川に差し掛かった。
ここにも、立派な橋がかけてある。
「ここにも橋か……、気が利くというか、むしろ気持ちが悪いほどじゃな。どうじゃ、十兵衛よ、三州・遠州と見てきたが?」
「橋だけでなく、それぞれの城もよくよく普請され、これを落とすには、なかなか労を要するかと………………」
「攻めるのは、無理か?」
「むしろ、こちらに誘い込んで………………」、不意に十兵衛の動きが止まる、「大殿……」
「うむ」
「鉄砲を!」
十兵衛は、傍らにいた鉄砲衆のひとりから鉄砲を受け取り、弾を込め、縄に火を点け、振り向きざまに草むらの方へと発砲した。
乾いた音とともに、水鳥が数羽飛び立つ。
「鉄砲衆!」
十兵衛は、鉄砲衆数名を引き連れ、草むらへと駆け込んでいく。
「猪でございますか?」
乱の言葉に、殿はにやりと笑う。
「いや、狸かな?」
これは、何かあったな!
太若丸は、乱を促し、残った鉄砲衆とお弓衆を指揮して、殿を守るように橋を駆け抜けた。
その後は何事もなく、池鯉鮒の宿へと入った。
ここには、水野惣兵衛忠重が待っていた。
「おや、惟任殿は? ご一緒と伺っておりましたが?」
「うむ、狩りに夢中でな」
「左様でございまするか」
忠重は何やら腑に落ちない顔をしていたが、早速饗応が始まった。
忠重の注いだ酒を飲み干すと、
「惣兵衛も、此度の甲州攻め、大儀であったな。そなたのお陰で、勘九郎もよくよく働くことができたようじゃ、恩に来るぞ。それそれ」
と、殿が忠重の杯に酒を注いだ。
「滅相もないことで」
「どうじゃった、勘九郎は?」
「それはもう、武将としても、織田家当主としてもご立派で。これで、織田家も安泰かと」
「天下人としては、どうじゃ?」
忠重は、一瞬詰まったが、
「もちろんでござりまする」
遅れて十兵衛がやってきた。
「どうじゃった、獲物の首尾は?」
「二匹仕留めましたが、一匹逃しました」
「狸じゃったか、頭の黒?」
「いえ、犬でござりました、いがぐり色の……」
「左様か。ほれ、十兵衛も飲め」
十兵衛は、忠重から注いでもらった酒をぐいっと空けた。
「ときに惣兵衛は……、羽林殿の叔父であったかのう?」
殿の問いに、忠重は頷く。
「某の姉が、次郎三郎(家康)の母に当たりまする」
水野氏は、尾張の知多郡小河において地頭であったが、下剋上の乱世に入って勢力を拡大し、忠重の父水野忠政の代には緒川・刈谷の二城を中心に、近隣の地侍たちと凌ぎを削っていた。
その西に織田、東に松平、さらに松平を傘下におさめる今川がいる。
忠政は生き残るために織田家に協力しながらも、松平家に己の娘たちを嫁に出すなどして、領地の保全を図っていた。
その娘のひとりが於大の方 ―― 松平広忠の正室で、家康の母である。
「惣兵衛は、一時期羽林殿の配下にいたな?」
忠重は頷く。
父忠重亡き後、家督は次男信元が継ぎ、忠重は兄をよく助けていた。
だが、信元は武田と内通したということで処断された。
この武田との内通を殿の耳に入れたのが佐久間信盛であり、これは真っ赤な嘘で、水野氏の領地欲しさに殿に讒言したと………………と、そんな噂もあったが、本当のところは分からない。
主と領地を失った忠重は一時期家康のもとに身を寄せるが、信盛が追放されると、刈谷城主となって織田家に復帰した。
「甲斐からここまでの道のり、羽林殿のお陰で何の苦もなく、随分と快適であった。儂からものちほど礼を申すが、惣兵衛からも礼を申しておいてくれ」
「ありがたき幸せ。次郎三郎も喜びましょう」
「しかし……、羽林殿は金持ちじゃのう、羨ましい限りじゃ。これほどの金、どこで得ておるのかのう?」
「さあ、それは某にも………………」
「これほどの金があれば、天下も取れようのう」
「まさか、左様なことは」
「当代の武将であれば、天下への野望を持っていても、おかしくはあるまい。いや、むしろ斯様な気概がなければ、一国の領主は務まるまい、のう、十兵衛?」
「左様で」
と、十兵衛は頷く ―― その心境は如何に?
「まあ、確かに左様でございましょうが………………」、忠重は困ったような顔である、「いまは織田家の天下 ―― これをひっくり返すなど、次郎三郎も考えてはおりますまい。いまは、大殿、殿のために、粉骨砕身で働くつもりでございましょう」
「それは……、羽林殿の本意か?」
「この惣兵衛と同様、まことの気持ちにござりまする」
殿は、しばし黙って酒を飲んでいたが、
「うむ、惣兵衛及び羽林殿の心構え、よくよく分かった。加えて斯様な馳走までしてもらっては、礼を申しただけでは気が済まぬな、うむうむ、今度は儂が羽林殿を招いて馳走しよう」
「ありがたき幸せ、次郎三郎も喜ぶかと思います」
話は、此度の甲斐への進軍の一件に移り、太若丸は小用をもよおしたので、外へと出た。
ほっと息をついていると、後ろから誰かがやってくる。
隣に立ったので見上げると、十兵衛であった。
甲斐からここまで、殿のお供で一緒であったが、こうやってふたりっきりになるのは、実に久しぶりである。
色々と話したいことはあったが、ふたりっきりになると、意外に言葉もないな………………
「今宵は、月がきれいでござりまするな」
十兵衛の言葉に、まことに………………と答えるのが精いっぱい。
「近頃、大殿のご様子は如何か?」
別段、あの様子で。
「なるほど、天下は………………」
言いかけて、十兵衛は口を噤んだ。
もうひとり来たようだ………………せっかくふたりっきりだったのに………………
「いやいや、某もお供して宜しいか?」
傍に立ったのは、忠重であった。
「いや~、斯様な月夜のもとで小便とは、気分が晴れ晴れしますな」
などと言いながら、草むらに激しい音を立てた。
しばし、音だけが響き渡ったが、
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不意に訊いてきた。
「あれは、あまりに殺気立っておりましたので、気配で分かりましたよ」
「馬鹿が!」
誰に言っているのだろう。
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「水野殿……」
忠重は立ち止まり、振り返る。
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