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1巻
1-3
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卍
「なんだい、これっぽっちの御銭で――」
さて、その遣り手。渡された金から目を上げると竹太郎をじっと見つめて言った。
「と、冷たくあしらいたいところだが、イイ男だねぇ、あんた。アタシの死んだ情夫に似てる。ちょっと笑って見せておくれでないか? そうそう、そっくりだよ!」
ほつれ毛を直しながら、遣り手がホウッとため息をつく。
「ったく、惣吉の野郎、金遣いの荒い、浮気性のつれない男だったのにさ、ニコッと笑う笑顔良しときたもんだ。あたしゃ何度、喜んで騙されてやったことか」
噛んだ唇に昔の面影が色濃く匂った。
「悔しいねぇ。あんなに尽くしてやったのにあっさり死んじまってサ。今頃は地獄の釜の前で鬼どもにニッコリ笑ってみせてるんじゃないかねぇ。鬼どももアタシみたいに絆されてくれりゃいいけど……」
小さく首を振ると、遣り手は竹太郎の金を襟元に押し込んだ。
「もう一回、笑ってみせておくれよ。それに免じて、いいよ、請け負ってやるさ。どのコに口利きしてもらいたいんだえ?」
今一度竹太郎は笑ってみせた。今度は本気の笑顔だ。
「いや、おいらが持ってるのはそれポッキリ。流石に遊女を買う金は持ってねぇや。これはあんたへの駄賃だよ。教えてくれ、姐さん、フラれ侍が通ってるのはこの見世だってな? で、贔屓にしているのはなんていう子だい? そして、いつ頃、何回くらい来た? 理由あって俺はどうしてもフラれ侍に会いたいんだ」
「……モミジさ」
卍
「遊女の名はモミジ。部屋持ちの遊女さね」
定廻り同心と首打ち人の顔を交互に見ながら、竹太郎は告げた。
「モミジはその名の通り儚げで、今にも枝を離れてハラハラと散りそうな風情がたまらないと中々の人気だそうだ。そして肝心要のフラれ侍だが、顔を見せたのは今までで二回、どちらも昼見世とのこと」
吉原は昼見世が昼九つ(正午)から昼八つ(十四時)までで、夜見世が暮六つ(十八時)から夜四つ(二十二時)までとなっていた。大門は夜四つで閉まる。そして暁ハツ(二時)、〈大引け〉となり拍子木が打ち鳴らされて吉原は眠りにつく……
「昼見世の二回?」
「そりゃ、おまえさんが中々捕まえられないはずだな」
「そうでしょう? 『フラれていくさ』という粋な台詞のせいで吉原内に噂が広まったが、実際はフラれ侍は二回やって来ただけなんでぃ。ところが、遣り手と話していた矢先――」
卍
遣り手が竹太郎の袖を引いた。
「来たよ、あれだよ、あれがあんたが会いたがってたフラれ侍さ」
「えっ!」
卍
「――てことは、会ったのかい、竹さん?」
「会いましたとも! わっちの熱意が天に届いたか、この日は夜見世が始まったばかりの時刻だというのにフラれ侍がやって来た! これが噂通りだったねぇ! 爽やかなイイ男さね。上背があって、切れ長の涼しい目。麻ちぢみの着流しに三本独鈷の角帯をキリリと締めて……そうそう、やっぱり小脇に傘を挟んでた!」
竹太郎はピシャリと額を叩いて続ける。
「俺は江戸っ子、野暮じゃねぇ。フラれ侍が中に入ってから、見世の前でじっくり待ったね。小半刻経ったろうか? 夏の夜が暮れかけた頃、出て来たところで声をかけた」
ここで、竹太郎はガクリと首を折った。
「でも、ダメだった――」
卍
「お待ちくだせい、お侍様。あなたが最近吉原で噂のフラれ侍さんですか? 私はしがない戯作者でして、あなたについて書きたいんです。絶対傑作にする自信がある。それで――少しでもいい、お話を聞かせてもらえませんか?」
決死の覚悟で声をかけた竹太郎。だが侍は振り向きもしなかった。
「私は話すことなど何もない。失礼」
「あ、待っておくんなせぇ! その傘……聞きましたよ。自分の思いを遂げるまで――惚れた女の心を勝ち取るまで決して傘は差さない。フラれていく。そうでしょう?」
竹太郎は追いすがる。ここで逃してなるものか!
「今日も差してねぇところを見ると……」
ちょうど雨が落ちてきたところだった。細い、囁くように優しい雨だ。
「まだ、ダメなんですか? 思いは届かない? だとしたら、その女、この雨粒よりも冷てぇ女だな! 何度、あなたを濡れて帰せば気がすむんです?」
「構わないさ」
侍は足を止めた。傘を抱え直して袖に包み、目を細めて雲に塞がれた暗い空を見上げる。
「雨は……あの人の涙だ。私は喜んで濡れていくさ」
卍
「いただきました! またしてもこの名台詞! なのに――」
頭を抱える竹太郎。そのままドウと倒れて身もだえする。半紙がカサコソ笑っているかのような音を立てた。
「くー、書けねぇ! こんなにいい材料が手に入って、役者が揃って、この名文句! そ、それなのにいざ書こうとするとなんも書けねぇーーーー」
同心と首打ち人も大いに落胆する。
「そうか、竹さんは昨日、会ったのか……」
「残念だな。せめてその侍の居場所でも聞いていたら良かったのによ」
「山ノ宿の長屋。木戸から入って三軒め」
「え?」
「だから、そのお侍の居場所ですよ。山ノ宿の長屋。今戸へ向かう道の浅草寺側」
定廻り同心は口をあんぐり開けた。
「だって、おまえ、けんもほろろで話もできなかったんじゃねぇのか?」
首打ち人も目を瞠って尋ねる。
「どうやって居場所を訊き出したんだい、竹さん?」
「いや、だからぁ、昨日は冷たくあしらわれたが、いつかその気になって胸襟を開いてくれないとも限らねぇ。何度か訪ねて行って直談判しようと、要するに……つまるところ……こっそり後を付けたんでさぁ」
「でかした、キノコ!」
竹太郎に駆け寄って肩と言わず背中と言わずボカスカ叩きまくる久馬。浅右衛門も心から褒め称えた。
「竹さん! やはり、あんたは目明しが合っている! その才があるよ!」
次の瞬間、二階の四畳間から本宅の薬種屋を突き抜けて、元柳橋一帯を揺るがす絶叫が響き渡った。
「いやだああああ! わっちは、わっちは絶対、お江戸一の戯作者になるんだああああああ!」
〈六〉
竹太郎に教えられて久馬と浅右衛門が急ぎやって来た山ノ宿。
千住へ至る大通りは牛馬に引かれた荷車がひっきりなしに行き交っている。隅田川沿いの河岸には渡し場があり、ここから対岸の向島へ渡る人や、浅草寺詣での人々を乗せて舟はいつも大賑わいだ。ちなみに今でも〈山の宿の渡し跡〉として隅田公園内、東武鉄道線路近くに苔むした大きな石の碑が残っている。
長屋はすぐわかった。遠く五重の塔が見える浅草寺側、木戸から入って三軒目。
「もうし――いけねぇ、俺たち名前を知らないんだった。フラれ侍殿とも言えねぇし……」
長屋の戸口に立って苦笑する久馬だった。浅右衛門は中の気配を窺って口を開く。
「留守のようだな。どうする、久さん?」
「この際だ、入るか」
久馬は桟に手をかけてサッと開ける――
「これは……」
フラれ侍の部屋はきちんと片付けられていた。唯一目を引いたのは……
「なんでぇ、これは?」
「久さん、これは傘を作る道具、轆轤だよ」
「奴ぁ、傘を自分で作っていたのか……」
ここで背後に人の気配を感じて、二人はそちらを振り返る。
「誰だ?」
「コリャ失礼しました。声がしたので、てっきり篠田様がお帰りになったかと……」
職人風の男が大根と小芋の煮っ転がしの入った丼を差し出しながら言う。
「篠田様がお帰りならウチの嬶がこれを持って行けと言うんでね。晩飯の足しにでもと。お邪魔をして申し訳ねぇ。あっしは隣に住んでいる指物師で鉄と申しやす。旦那様方は篠田様の御友人で?」
「うむ、そう! 俺たちは、し、し、篠田の御友人だっ」
慌てて久馬が応じた。
「いゃあ、今日、日本橋の袂で久方ぶりにバッタリ会ってな。で、懐かしいので訪ねて来たわけだ。アハハハハ」
「それは良かった。篠田様もお喜びでしょう!」
「時に、篠田殿はいつからここに?」
こう訊いたのは浅右衛門だ。
「そう、越していらっしゃって――一月になりますか」
「一月? それにしちゃあ隣近所とすっかり打ち解けてるみたいだな!」
「そりゃあ、篠田様はこの長屋の神様みてぇなもんですやから! ずっといてもらいてぇと長屋の住人は皆思っていやす」
男は顔を綻ばせた。
「最初は、あの通り無口な御方だし、お武家様だし、取り付く島もないと私どもは少々おっかながっていたんですが……」
あんなお優しい人はいない、と男は言い切る。
「いえね、篠田様が引っ越してきて早々、ウチの腕白坊主が木から落ちて足の骨を折ったんですがね、その時、即座にお医者を呼んで支払いまでしてくれた。私どもがそのお金をいつ返せるかわからないと言っても、自分はもう金など必要ない身だ、だから気にするなと笑うばかり。ごらんの通りご自分は傘の内職などなさりながら倹しくお暮らしなのに」
頬を火照らせて指物師は続ける。
「ウチだけじゃないんで。大工の熊のとこは十五になる娘が胸を病んでの長患いだ。それを知った篠田様は唐渡りの何とかって、そりゃあ高価な薬を買ってきて手渡したんでさぁ。俺はあの熊が大泣きするのを初めて見やした」
その時のことを思い出したらしく、自分も洟を啜り上げると、
「おっと、いけねぇ、長居をしちまいました。じゃ、あっしはこれで」
丼を置いて帰ろうとした指物師を、浅右衛門が呼び止めた。
「時に、篠田殿は今、浪人なのだろうか?」
「詳しいことは知りませんが、そのようなことをおっしゃっていました。美濃の方の藩にお勤めだったのを理由あって御辞めになったとか……」
指物師が去った後、暫く二人は無言だった。上がり框に腰を下ろしたままどのくらい経ったことだろう。久馬が口を開く。
「フラれ侍の名は篠田というのか。どうする、浅さん、篠田が帰るのを待つかえ?」
「そうだな……」
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ……
長屋の屋根を打つこの音は――
「おや? また雨かよ。降り出したようだな」
天井を見上げた久馬にボソリと浅右衛門が呟いた。
「『闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな』」
「な、なんでぃ、いきなり?」
「いやな、昼に照降町へ行く道々、俺が傘職人の句を並べると、久さん、言っただろう? 自分は吉原に纏わる句が好みだと。それで思い出した。今の吉原の句を詠んだのは其角というのだが、この俳人は照降町に住んでいたそうだ。師である芭蕉も一時、居候してたらしいとさ」
腕を組み直して浅右衛門は微苦笑する。
「気づいたのだが、久さん、この句は面白い句だな。〝闇の夜は〟で切ると〝吉原だけはいつも明るい月夜だ〟という意味になるが、〝闇の夜は吉原ばかり〟とも読める。江戸中、月が煌々と照り輝いているのに、吉原ばっかり闇夜だと」
竹太郎と元遊女の話を聞いたせいだろう、浅右衛門は思った。吉原は光と闇が背中合わせだ。〈日本から 極楽僅か 五十間〉……ならば、地獄へも僅か五十間ということか。それに――
光の中に影を見る。実は先々代である五代目山田浅右衛門も辞世の句で似たことを詠んでいた。
〈蓮の露 集まれば影 宿るべし〉
仏の花、蓮に煌く露にも影を見る――
罪人とはいえ人の命を断つことを生業としている自分の行く末を、浅右衛門は強く意識した。
(闇の夜は己ばかりさ月夜かな……)
ここで久馬が明るい声を響かせる。
「お、其角か? その俳人なら知ってるぜ。俺好みの粋な句を詠んでるだろう? えーと、えーと……〈わが物と 思えば軽し 笠の雪〉」
得意そうに鼻を擦って同心は笑う。
「へへっ、この句もよ、照降町の傘屋の前で詠んだのかねぇ」
傘と笠を間違えているのには気づいてないらしい。
「照降町……」
一方、闇を見つめていた首打ち人は現実的な問題へ戻ってきた。
照降町の傘屋……博打に嵌って潰れた一軒……店主は入水、娘は吉原へ……
今一度、断片を拾い集める。
博打……傘屋の屋号は紅葉屋だった……フラれ侍こと篠田が通っている花魁の名は……
――モミジさ。
「久さん、どうも俺たちは順番を間違えたかもしれない」
雨音が響く部屋の中、傘作りの轆轤と整然と並べられた和紙や骨木の箱に視線を走らせ、浅右衛門はやおら立ち上がった。
「久さん、これから照降町へ戻ろう!」
「俺は地獄の底へでもついていくぜ、浅さん。で? 照降町の何処へだ?」
「照降町の下駄屋――潰れた傘屋、紅葉屋に金を貸した下駄屋だ。確か、日向屋と言ったはず」
「あ、思い出した! そういやぁ、白玉屋の親父がそんなこと言っていたな?」
降り出した雨の中へ二人は勢いよく飛び出した。
惜しいかな。かの浮世絵師、歌川広重が〈大橋・安宅の夕立〉と題して隅田川に架かる新大橋を描くのは安政三年(一八五六)。今は天保の世だから二十数年後のことで、チョイ早い。だが、その浮世絵そのままの光景、隙間もないザンザン降りの雨の中を突っ走る定廻り同心と首打ち人だった。
傘を持たない二人はあっという間にぐっしょり濡れる。盛大に滴を滴らせて、久馬は叫ばずにはいられない。
「チキショウメ! これじゃあ、俺たちこそフラれ侍だぜ!」
〈七〉
「はい? 若旦那様? 佑太郎様ですか? 今しがたお出かけになったところでございます」
飛び入った照降町の角店。下駄屋日向屋の大番頭は濡れ鼠のような同心と首打ち人を見て、吃驚して目を丸くした。
「これ、小僧さん、こちらの同心様たちに手拭いをお持ちしなさい」
「ありがたい。で、若旦那は何処へ行ったんだ?」
飛沫を弾き飛ばしながら問う久馬に、暫し大番頭は言い淀んだ。
「……踊りのお師匠さんのお宅です。最近お知り合いになって、大層お気に入りのご様子で」
「場所は何処だ?」
「花川戸です」
雨の夜に訪ねて行くのも風情があるし、知った道だからと提灯も持たず出ていったとのこと。
「供は連れてったのか?」
お察しくださいとばかりに大番頭は含み笑いを漏らす。
「いえ、お一人です。お泊まりになられることが多いので」
「傘は差していったか?」
この問いには大番頭、即座に答えた。
「もちろんです。お出かけの時、既に雨が降っていましたから」
続けて、手拭いを持って来た小僧が胸を張った。
「傘立てにあった一番新しい傘を私がお渡しいたしました!」
卍
花川戸は美しい名だ。対岸が花の名所の向島で、そこへ至る〝戸口〟だから付いたとも伝わる。その名の通りこの辺りの家々は皆、大川を背にしている。とはいえ、今宵、川面と空は黒く塗り潰されて境目が何処か判然としない。晴れていれば優しく心を擽る漣の音も今は聞こえない。日向屋の若旦那の耳に響くのは、降る雨と傘を打つ音だけだった。
ザン、ザンザン……
パラパラパラ……
ザン、ザンザン……
パラパラパラ……
ザン、ザン、ザン……
……ボゾ。
音が変わった。くぐもった音。それだけではない、先刻から酷く傘が重い。妙な気がして佑太郎は顔を上げた。
「ゲ?」
いつの間に? 傘に黒く染みができている。まるで血が飛び散ったようだった。
違う、これは舞い散る楓だ。そして浮き上がる、今はなき屋号――
〈紅葉屋〉
「う、嘘だ! なんだこりゃあ、目の迷いか?」
一旦、目をギュッと閉じ、改めて傘の内を見上げる。だが、目の迷いではなかった。いよいよ楓の形は鮮明になった。
「ひええ!」
思わず傘を放り出す。と、目の前に男が立っていた。
暗闇の中、大地に叩きつけられる雨が白く見えた。ユラリと男の体が揺れる。鈍く光る刃の匂いを佑太郎は確かに嗅いだ――
刹那、雨の音が乱れた。
ザンザン、ズン!
鮮血が迸り、泥水が跳ね、ぬかるんだ地面に屍が転がった。
その後、再び規則正しい雨の音だけが辺りに響く。
そこに、声。
「遅かった! 間に合わなかったか――」
「おまえが篠田だな!」
喘ぎに近い浅右衛門の呟きに、久馬の怒号が重なる。
「またの名を、フラれ侍――」
フラれ侍は晴れ晴れと笑った。
「間に合いました、私にとっては、ね。これで全部だ。悪党は全て、葬った……!」
〈八〉
篠田は血刀を振って鞘に納めると、浅右衛門と久馬を交互に見て、巻羽織の方――久馬に差し出す。
「抵抗はしません、同心殿。お縄につきます。私は思いを遂げましたから」
「おまえさんの思いは、モミジ花魁と相思相愛になることじゃなかったのかえ?」
同心にそう言われても篠田は驚かなかった。
「やはり全てお見通しのようですね。何やら陰で張られている気配には気づいていました。戯作者のふりをした鯔背な目明しといい……だから、急いだんです。私は邪魔されたくはなかった。どうしてもやり遂げたかった。悪党四人、屠った。もう思い残すことはありません」
雨が激しくなっている。
ザーザーザー……
降り続く雨の中、誰も動こうとしない。改めてフラれ侍が口を開く。
「私は微塵も後悔してはいません。私が斬った四人は斬られて当然の悪党だ」
そう遠くない昔、お江戸は照降町に繁盛している傘屋があったとお思いください。そう前置きして、篠田は話し始めた。
「私の父は浪人でした。長く苦労をかけ続けた妻――私にとって母を早くに亡くし、男手一つで私を育ててくれました。私たち父子の命を繋いだのが内職の傘張りです。幼い私の仕事は父の張った傘を傘屋さんに届けに行くこと。店には一人娘のお嬢さんがいて、名を楓殿といわれた。歳は同じくらい。その楓お嬢さんが私には眩しいばかり――さながらお天道様のようでした。いつも笑顔で迎えてくれるんです」
――傘をお届けにまいりました!
――まぁ、ご苦労様!
貴方様のお父様は本当に丁寧なお仕事をなさる……!
貴方様もさぞや重かったでしょう? さあ、お茶をどうぞ。
ゆっくりなさってください、ね? 玄乃介様?
「本当に、楓殿の笑顔は私の全てだった……その笑顔に励まされて私は剣術にも学問にも精を出したのだ。私は真剣に思いました。いつか、ひとかどの人物になって楓殿に会いに行きたい。立派な姿を見てもらいたい。その時、楓殿が私に与えてくれたもの……照らしてくれたその温かな光の御礼を伝えられたらと。そして――私はやりましたよ!」
パッと篠田の顔が輝いた。
「参加の機会を得たとある藩の剣術試合で私は見事、勝者となりました。私の剣技をご覧になった藩主様が直々にお声をかけてくださり、褒美として書院番に取り立ててくださったのです。天にも昇る心地でした。勿論、真っ先にそのことを報告しに私は照降町へ走りましたよ。楓殿は一緒に喜んでくれました」
――おめでとうございます。玄乃介様!
仕官の夢が叶ってさぞやお父様、お母様もお喜びでしょう!
「父は既に他界していました。でも、父と同じくらい私を支えてくれたのは、楓殿、あなたです。あなたの温かな笑顔です……実際はそんなこと口に出して言えませんでしたが。ただもう、仕官が叶ったことを告げるのが精いっぱい。その後はニコニコ笑う楓殿の眩しい笑顔を見つめていました。藩主様に目をかけていただいた私は翌年の参勤交代の際、御供をして美濃へ下りました。そして三年を彼の地で過ごし今年、江戸へ帰って来たのです」
篠田の口調が変わった。
「だが、挨拶がてら久しぶりに訪れた照降町で私が見聞きしたのは、消え失せた紅葉屋と店主一家の悲報だった! 僅か数年の間に紅葉屋の看板は下ろされて店舗は上方からやって来た別の傘屋になっている。何より、旧主は己を悔いて大川に入水、一人娘は吉原に売られた……そんな馬鹿な! これは絶対、何かある――私は吉原へ向かいました。その際、急遽作った傘を小脇に抱えて持って行ったのです。これには父の遺品が役に立ちました。父母の苦労を忘れないように、藩に取り立てられて組屋敷に移った際も傘作りの道具を手元に残していたのです」
ここで初めて久馬が声を発した。
「篠田さん、傘を作って吉原へ赴いた……それは何故だい?」
「楓お嬢さんに私だとわかってもらうためでした。目印になればと思ったんです。私のことなど忘れていて当然だ。傘張りの内職者はたくさんいた。たかが傘を届けに来た浪人の子など大店のお嬢さんが覚えているはずもない……」
「だが、お嬢さんは覚えていた?」
「ええ!」
篠田は満面の笑みで頷いた。
「多少照れながらおどけて言った私の挨拶に元紅葉屋の一人娘楓殿、モミジ花魁は即座に答えてくれました。懐かしい笑顔はとめどなく流れる涙に滲んでいましたが」
――傘をお届けにまいりました。
――ありがとうござりんす。……ほんに丁寧な良い仕事をしなんす……
どうぞ、ゆっくりと……していってくんなまし。
ね? 玄乃介様……?
「見世に上がり再会を果たしたその日のうちに、私は照降町の老舗の傘屋・紅葉屋廃業の真相を聞くことができました。表向きはよくある話だ。恋女房に先立たれ落胆した店主が、気休めに手を染めた賭博に嵌って身上を潰した。しかし、悪意を持った人物四人が加わると全く違う絵柄になる。賭博に誘ったのは喜助という紅葉屋の手代だった男だ。この手代はお嬢さんを口説いてきっぱりと拒絶されて以来、歪んだ情念を燻らせていた。優しい楓殿は言い寄られたことを親御に明かさなかったのだが、その温情が仇になった。私が斬った最初の男です」
早口に篠田は続けた。
「手代は行きつけの賭場の馴染みの壺振りを抱き込んだ。名をマサという。これが悪党の二人目。二番目に私が斬った男ですよ。イカサマで最初は勝たせてその気にさせる。だが勝つのは始めだけ。やがて負けが込み、取り戻そうとのめり込んでいく。店主にお金を貸し続けたのが同じ町内の老舗の下駄屋、日向屋の若旦那、佑太郎――こいつです」
白々と足元の死体を見下ろして篠田は言う。
「実はこの若旦那も賭博仲間でした。おまけに賭場に少なからぬ借金があった。ハナから紅葉屋を潰して売り払い、その資金を強奪する目論見だったのさ」
篠田は暫く黙ったまま屍と地面を叩く激しい雨の音を聞いていた。やがて、ゆっくりと視線を上げる。
「これでおわかりでしょう? こいつら四人は老舗を一軒潰して売り払い、手に入れた金を山分けした。若旦那は自分の借金も帳消しにできた。壺振りと手代は以後、遊び暮らす良い御身分だ。手代なんぞはもう何処へも奉公することなく竜泉寺村に家を買って、一人気ままに暮らしていましたよ」
「そうか! 正体を隠して暮らしていたので殺されても誰も名乗りを上げる者がいなかったのか。しかも竜泉寺村だと? あそこは吉原の真裏じゃねぇか! 松兵衛親分も走り損だな」
合点がいったと大きく頷いてから、改めて久馬が質した。
「三番目に斬られた宇貝家の三男坊はどういう関わりだ? 賭場主の息子だったから場所の提供と、イカサマを大目に見過ごす約束でもしたのか?」
「あいつもシンから性根の腐った人間でね」
昨日斬った旗本の息子を思い出してか、篠田は暗く笑う。
「自分の屋敷の中間部屋の賭場にしょっちゅう出入りして遊んでいた。その上で、手代や日向屋の若旦那の悪巧みを知り、自分も噛ませろと飛び入った。三男坊の目的は金よりも……こういえばおわかりでしょう? 連中が山分けにしたのは紅葉屋の売り賃だけじゃない。一人娘を苦界に売った代金と、その前にさんざん――さんざん――」
フラれ侍の声は低くくぐもって雨の音にかき消された。
――連中は面白がっていまだに通って来んす。
「なんだい、これっぽっちの御銭で――」
さて、その遣り手。渡された金から目を上げると竹太郎をじっと見つめて言った。
「と、冷たくあしらいたいところだが、イイ男だねぇ、あんた。アタシの死んだ情夫に似てる。ちょっと笑って見せておくれでないか? そうそう、そっくりだよ!」
ほつれ毛を直しながら、遣り手がホウッとため息をつく。
「ったく、惣吉の野郎、金遣いの荒い、浮気性のつれない男だったのにさ、ニコッと笑う笑顔良しときたもんだ。あたしゃ何度、喜んで騙されてやったことか」
噛んだ唇に昔の面影が色濃く匂った。
「悔しいねぇ。あんなに尽くしてやったのにあっさり死んじまってサ。今頃は地獄の釜の前で鬼どもにニッコリ笑ってみせてるんじゃないかねぇ。鬼どももアタシみたいに絆されてくれりゃいいけど……」
小さく首を振ると、遣り手は竹太郎の金を襟元に押し込んだ。
「もう一回、笑ってみせておくれよ。それに免じて、いいよ、請け負ってやるさ。どのコに口利きしてもらいたいんだえ?」
今一度竹太郎は笑ってみせた。今度は本気の笑顔だ。
「いや、おいらが持ってるのはそれポッキリ。流石に遊女を買う金は持ってねぇや。これはあんたへの駄賃だよ。教えてくれ、姐さん、フラれ侍が通ってるのはこの見世だってな? で、贔屓にしているのはなんていう子だい? そして、いつ頃、何回くらい来た? 理由あって俺はどうしてもフラれ侍に会いたいんだ」
「……モミジさ」
卍
「遊女の名はモミジ。部屋持ちの遊女さね」
定廻り同心と首打ち人の顔を交互に見ながら、竹太郎は告げた。
「モミジはその名の通り儚げで、今にも枝を離れてハラハラと散りそうな風情がたまらないと中々の人気だそうだ。そして肝心要のフラれ侍だが、顔を見せたのは今までで二回、どちらも昼見世とのこと」
吉原は昼見世が昼九つ(正午)から昼八つ(十四時)までで、夜見世が暮六つ(十八時)から夜四つ(二十二時)までとなっていた。大門は夜四つで閉まる。そして暁ハツ(二時)、〈大引け〉となり拍子木が打ち鳴らされて吉原は眠りにつく……
「昼見世の二回?」
「そりゃ、おまえさんが中々捕まえられないはずだな」
「そうでしょう? 『フラれていくさ』という粋な台詞のせいで吉原内に噂が広まったが、実際はフラれ侍は二回やって来ただけなんでぃ。ところが、遣り手と話していた矢先――」
卍
遣り手が竹太郎の袖を引いた。
「来たよ、あれだよ、あれがあんたが会いたがってたフラれ侍さ」
「えっ!」
卍
「――てことは、会ったのかい、竹さん?」
「会いましたとも! わっちの熱意が天に届いたか、この日は夜見世が始まったばかりの時刻だというのにフラれ侍がやって来た! これが噂通りだったねぇ! 爽やかなイイ男さね。上背があって、切れ長の涼しい目。麻ちぢみの着流しに三本独鈷の角帯をキリリと締めて……そうそう、やっぱり小脇に傘を挟んでた!」
竹太郎はピシャリと額を叩いて続ける。
「俺は江戸っ子、野暮じゃねぇ。フラれ侍が中に入ってから、見世の前でじっくり待ったね。小半刻経ったろうか? 夏の夜が暮れかけた頃、出て来たところで声をかけた」
ここで、竹太郎はガクリと首を折った。
「でも、ダメだった――」
卍
「お待ちくだせい、お侍様。あなたが最近吉原で噂のフラれ侍さんですか? 私はしがない戯作者でして、あなたについて書きたいんです。絶対傑作にする自信がある。それで――少しでもいい、お話を聞かせてもらえませんか?」
決死の覚悟で声をかけた竹太郎。だが侍は振り向きもしなかった。
「私は話すことなど何もない。失礼」
「あ、待っておくんなせぇ! その傘……聞きましたよ。自分の思いを遂げるまで――惚れた女の心を勝ち取るまで決して傘は差さない。フラれていく。そうでしょう?」
竹太郎は追いすがる。ここで逃してなるものか!
「今日も差してねぇところを見ると……」
ちょうど雨が落ちてきたところだった。細い、囁くように優しい雨だ。
「まだ、ダメなんですか? 思いは届かない? だとしたら、その女、この雨粒よりも冷てぇ女だな! 何度、あなたを濡れて帰せば気がすむんです?」
「構わないさ」
侍は足を止めた。傘を抱え直して袖に包み、目を細めて雲に塞がれた暗い空を見上げる。
「雨は……あの人の涙だ。私は喜んで濡れていくさ」
卍
「いただきました! またしてもこの名台詞! なのに――」
頭を抱える竹太郎。そのままドウと倒れて身もだえする。半紙がカサコソ笑っているかのような音を立てた。
「くー、書けねぇ! こんなにいい材料が手に入って、役者が揃って、この名文句! そ、それなのにいざ書こうとするとなんも書けねぇーーーー」
同心と首打ち人も大いに落胆する。
「そうか、竹さんは昨日、会ったのか……」
「残念だな。せめてその侍の居場所でも聞いていたら良かったのによ」
「山ノ宿の長屋。木戸から入って三軒め」
「え?」
「だから、そのお侍の居場所ですよ。山ノ宿の長屋。今戸へ向かう道の浅草寺側」
定廻り同心は口をあんぐり開けた。
「だって、おまえ、けんもほろろで話もできなかったんじゃねぇのか?」
首打ち人も目を瞠って尋ねる。
「どうやって居場所を訊き出したんだい、竹さん?」
「いや、だからぁ、昨日は冷たくあしらわれたが、いつかその気になって胸襟を開いてくれないとも限らねぇ。何度か訪ねて行って直談判しようと、要するに……つまるところ……こっそり後を付けたんでさぁ」
「でかした、キノコ!」
竹太郎に駆け寄って肩と言わず背中と言わずボカスカ叩きまくる久馬。浅右衛門も心から褒め称えた。
「竹さん! やはり、あんたは目明しが合っている! その才があるよ!」
次の瞬間、二階の四畳間から本宅の薬種屋を突き抜けて、元柳橋一帯を揺るがす絶叫が響き渡った。
「いやだああああ! わっちは、わっちは絶対、お江戸一の戯作者になるんだああああああ!」
〈六〉
竹太郎に教えられて久馬と浅右衛門が急ぎやって来た山ノ宿。
千住へ至る大通りは牛馬に引かれた荷車がひっきりなしに行き交っている。隅田川沿いの河岸には渡し場があり、ここから対岸の向島へ渡る人や、浅草寺詣での人々を乗せて舟はいつも大賑わいだ。ちなみに今でも〈山の宿の渡し跡〉として隅田公園内、東武鉄道線路近くに苔むした大きな石の碑が残っている。
長屋はすぐわかった。遠く五重の塔が見える浅草寺側、木戸から入って三軒目。
「もうし――いけねぇ、俺たち名前を知らないんだった。フラれ侍殿とも言えねぇし……」
長屋の戸口に立って苦笑する久馬だった。浅右衛門は中の気配を窺って口を開く。
「留守のようだな。どうする、久さん?」
「この際だ、入るか」
久馬は桟に手をかけてサッと開ける――
「これは……」
フラれ侍の部屋はきちんと片付けられていた。唯一目を引いたのは……
「なんでぇ、これは?」
「久さん、これは傘を作る道具、轆轤だよ」
「奴ぁ、傘を自分で作っていたのか……」
ここで背後に人の気配を感じて、二人はそちらを振り返る。
「誰だ?」
「コリャ失礼しました。声がしたので、てっきり篠田様がお帰りになったかと……」
職人風の男が大根と小芋の煮っ転がしの入った丼を差し出しながら言う。
「篠田様がお帰りならウチの嬶がこれを持って行けと言うんでね。晩飯の足しにでもと。お邪魔をして申し訳ねぇ。あっしは隣に住んでいる指物師で鉄と申しやす。旦那様方は篠田様の御友人で?」
「うむ、そう! 俺たちは、し、し、篠田の御友人だっ」
慌てて久馬が応じた。
「いゃあ、今日、日本橋の袂で久方ぶりにバッタリ会ってな。で、懐かしいので訪ねて来たわけだ。アハハハハ」
「それは良かった。篠田様もお喜びでしょう!」
「時に、篠田殿はいつからここに?」
こう訊いたのは浅右衛門だ。
「そう、越していらっしゃって――一月になりますか」
「一月? それにしちゃあ隣近所とすっかり打ち解けてるみたいだな!」
「そりゃあ、篠田様はこの長屋の神様みてぇなもんですやから! ずっといてもらいてぇと長屋の住人は皆思っていやす」
男は顔を綻ばせた。
「最初は、あの通り無口な御方だし、お武家様だし、取り付く島もないと私どもは少々おっかながっていたんですが……」
あんなお優しい人はいない、と男は言い切る。
「いえね、篠田様が引っ越してきて早々、ウチの腕白坊主が木から落ちて足の骨を折ったんですがね、その時、即座にお医者を呼んで支払いまでしてくれた。私どもがそのお金をいつ返せるかわからないと言っても、自分はもう金など必要ない身だ、だから気にするなと笑うばかり。ごらんの通りご自分は傘の内職などなさりながら倹しくお暮らしなのに」
頬を火照らせて指物師は続ける。
「ウチだけじゃないんで。大工の熊のとこは十五になる娘が胸を病んでの長患いだ。それを知った篠田様は唐渡りの何とかって、そりゃあ高価な薬を買ってきて手渡したんでさぁ。俺はあの熊が大泣きするのを初めて見やした」
その時のことを思い出したらしく、自分も洟を啜り上げると、
「おっと、いけねぇ、長居をしちまいました。じゃ、あっしはこれで」
丼を置いて帰ろうとした指物師を、浅右衛門が呼び止めた。
「時に、篠田殿は今、浪人なのだろうか?」
「詳しいことは知りませんが、そのようなことをおっしゃっていました。美濃の方の藩にお勤めだったのを理由あって御辞めになったとか……」
指物師が去った後、暫く二人は無言だった。上がり框に腰を下ろしたままどのくらい経ったことだろう。久馬が口を開く。
「フラれ侍の名は篠田というのか。どうする、浅さん、篠田が帰るのを待つかえ?」
「そうだな……」
ポツ、ポツ、ポツ、ポツ……
長屋の屋根を打つこの音は――
「おや? また雨かよ。降り出したようだな」
天井を見上げた久馬にボソリと浅右衛門が呟いた。
「『闇の夜は 吉原ばかり 月夜かな』」
「な、なんでぃ、いきなり?」
「いやな、昼に照降町へ行く道々、俺が傘職人の句を並べると、久さん、言っただろう? 自分は吉原に纏わる句が好みだと。それで思い出した。今の吉原の句を詠んだのは其角というのだが、この俳人は照降町に住んでいたそうだ。師である芭蕉も一時、居候してたらしいとさ」
腕を組み直して浅右衛門は微苦笑する。
「気づいたのだが、久さん、この句は面白い句だな。〝闇の夜は〟で切ると〝吉原だけはいつも明るい月夜だ〟という意味になるが、〝闇の夜は吉原ばかり〟とも読める。江戸中、月が煌々と照り輝いているのに、吉原ばっかり闇夜だと」
竹太郎と元遊女の話を聞いたせいだろう、浅右衛門は思った。吉原は光と闇が背中合わせだ。〈日本から 極楽僅か 五十間〉……ならば、地獄へも僅か五十間ということか。それに――
光の中に影を見る。実は先々代である五代目山田浅右衛門も辞世の句で似たことを詠んでいた。
〈蓮の露 集まれば影 宿るべし〉
仏の花、蓮に煌く露にも影を見る――
罪人とはいえ人の命を断つことを生業としている自分の行く末を、浅右衛門は強く意識した。
(闇の夜は己ばかりさ月夜かな……)
ここで久馬が明るい声を響かせる。
「お、其角か? その俳人なら知ってるぜ。俺好みの粋な句を詠んでるだろう? えーと、えーと……〈わが物と 思えば軽し 笠の雪〉」
得意そうに鼻を擦って同心は笑う。
「へへっ、この句もよ、照降町の傘屋の前で詠んだのかねぇ」
傘と笠を間違えているのには気づいてないらしい。
「照降町……」
一方、闇を見つめていた首打ち人は現実的な問題へ戻ってきた。
照降町の傘屋……博打に嵌って潰れた一軒……店主は入水、娘は吉原へ……
今一度、断片を拾い集める。
博打……傘屋の屋号は紅葉屋だった……フラれ侍こと篠田が通っている花魁の名は……
――モミジさ。
「久さん、どうも俺たちは順番を間違えたかもしれない」
雨音が響く部屋の中、傘作りの轆轤と整然と並べられた和紙や骨木の箱に視線を走らせ、浅右衛門はやおら立ち上がった。
「久さん、これから照降町へ戻ろう!」
「俺は地獄の底へでもついていくぜ、浅さん。で? 照降町の何処へだ?」
「照降町の下駄屋――潰れた傘屋、紅葉屋に金を貸した下駄屋だ。確か、日向屋と言ったはず」
「あ、思い出した! そういやぁ、白玉屋の親父がそんなこと言っていたな?」
降り出した雨の中へ二人は勢いよく飛び出した。
惜しいかな。かの浮世絵師、歌川広重が〈大橋・安宅の夕立〉と題して隅田川に架かる新大橋を描くのは安政三年(一八五六)。今は天保の世だから二十数年後のことで、チョイ早い。だが、その浮世絵そのままの光景、隙間もないザンザン降りの雨の中を突っ走る定廻り同心と首打ち人だった。
傘を持たない二人はあっという間にぐっしょり濡れる。盛大に滴を滴らせて、久馬は叫ばずにはいられない。
「チキショウメ! これじゃあ、俺たちこそフラれ侍だぜ!」
〈七〉
「はい? 若旦那様? 佑太郎様ですか? 今しがたお出かけになったところでございます」
飛び入った照降町の角店。下駄屋日向屋の大番頭は濡れ鼠のような同心と首打ち人を見て、吃驚して目を丸くした。
「これ、小僧さん、こちらの同心様たちに手拭いをお持ちしなさい」
「ありがたい。で、若旦那は何処へ行ったんだ?」
飛沫を弾き飛ばしながら問う久馬に、暫し大番頭は言い淀んだ。
「……踊りのお師匠さんのお宅です。最近お知り合いになって、大層お気に入りのご様子で」
「場所は何処だ?」
「花川戸です」
雨の夜に訪ねて行くのも風情があるし、知った道だからと提灯も持たず出ていったとのこと。
「供は連れてったのか?」
お察しくださいとばかりに大番頭は含み笑いを漏らす。
「いえ、お一人です。お泊まりになられることが多いので」
「傘は差していったか?」
この問いには大番頭、即座に答えた。
「もちろんです。お出かけの時、既に雨が降っていましたから」
続けて、手拭いを持って来た小僧が胸を張った。
「傘立てにあった一番新しい傘を私がお渡しいたしました!」
卍
花川戸は美しい名だ。対岸が花の名所の向島で、そこへ至る〝戸口〟だから付いたとも伝わる。その名の通りこの辺りの家々は皆、大川を背にしている。とはいえ、今宵、川面と空は黒く塗り潰されて境目が何処か判然としない。晴れていれば優しく心を擽る漣の音も今は聞こえない。日向屋の若旦那の耳に響くのは、降る雨と傘を打つ音だけだった。
ザン、ザンザン……
パラパラパラ……
ザン、ザンザン……
パラパラパラ……
ザン、ザン、ザン……
……ボゾ。
音が変わった。くぐもった音。それだけではない、先刻から酷く傘が重い。妙な気がして佑太郎は顔を上げた。
「ゲ?」
いつの間に? 傘に黒く染みができている。まるで血が飛び散ったようだった。
違う、これは舞い散る楓だ。そして浮き上がる、今はなき屋号――
〈紅葉屋〉
「う、嘘だ! なんだこりゃあ、目の迷いか?」
一旦、目をギュッと閉じ、改めて傘の内を見上げる。だが、目の迷いではなかった。いよいよ楓の形は鮮明になった。
「ひええ!」
思わず傘を放り出す。と、目の前に男が立っていた。
暗闇の中、大地に叩きつけられる雨が白く見えた。ユラリと男の体が揺れる。鈍く光る刃の匂いを佑太郎は確かに嗅いだ――
刹那、雨の音が乱れた。
ザンザン、ズン!
鮮血が迸り、泥水が跳ね、ぬかるんだ地面に屍が転がった。
その後、再び規則正しい雨の音だけが辺りに響く。
そこに、声。
「遅かった! 間に合わなかったか――」
「おまえが篠田だな!」
喘ぎに近い浅右衛門の呟きに、久馬の怒号が重なる。
「またの名を、フラれ侍――」
フラれ侍は晴れ晴れと笑った。
「間に合いました、私にとっては、ね。これで全部だ。悪党は全て、葬った……!」
〈八〉
篠田は血刀を振って鞘に納めると、浅右衛門と久馬を交互に見て、巻羽織の方――久馬に差し出す。
「抵抗はしません、同心殿。お縄につきます。私は思いを遂げましたから」
「おまえさんの思いは、モミジ花魁と相思相愛になることじゃなかったのかえ?」
同心にそう言われても篠田は驚かなかった。
「やはり全てお見通しのようですね。何やら陰で張られている気配には気づいていました。戯作者のふりをした鯔背な目明しといい……だから、急いだんです。私は邪魔されたくはなかった。どうしてもやり遂げたかった。悪党四人、屠った。もう思い残すことはありません」
雨が激しくなっている。
ザーザーザー……
降り続く雨の中、誰も動こうとしない。改めてフラれ侍が口を開く。
「私は微塵も後悔してはいません。私が斬った四人は斬られて当然の悪党だ」
そう遠くない昔、お江戸は照降町に繁盛している傘屋があったとお思いください。そう前置きして、篠田は話し始めた。
「私の父は浪人でした。長く苦労をかけ続けた妻――私にとって母を早くに亡くし、男手一つで私を育ててくれました。私たち父子の命を繋いだのが内職の傘張りです。幼い私の仕事は父の張った傘を傘屋さんに届けに行くこと。店には一人娘のお嬢さんがいて、名を楓殿といわれた。歳は同じくらい。その楓お嬢さんが私には眩しいばかり――さながらお天道様のようでした。いつも笑顔で迎えてくれるんです」
――傘をお届けにまいりました!
――まぁ、ご苦労様!
貴方様のお父様は本当に丁寧なお仕事をなさる……!
貴方様もさぞや重かったでしょう? さあ、お茶をどうぞ。
ゆっくりなさってください、ね? 玄乃介様?
「本当に、楓殿の笑顔は私の全てだった……その笑顔に励まされて私は剣術にも学問にも精を出したのだ。私は真剣に思いました。いつか、ひとかどの人物になって楓殿に会いに行きたい。立派な姿を見てもらいたい。その時、楓殿が私に与えてくれたもの……照らしてくれたその温かな光の御礼を伝えられたらと。そして――私はやりましたよ!」
パッと篠田の顔が輝いた。
「参加の機会を得たとある藩の剣術試合で私は見事、勝者となりました。私の剣技をご覧になった藩主様が直々にお声をかけてくださり、褒美として書院番に取り立ててくださったのです。天にも昇る心地でした。勿論、真っ先にそのことを報告しに私は照降町へ走りましたよ。楓殿は一緒に喜んでくれました」
――おめでとうございます。玄乃介様!
仕官の夢が叶ってさぞやお父様、お母様もお喜びでしょう!
「父は既に他界していました。でも、父と同じくらい私を支えてくれたのは、楓殿、あなたです。あなたの温かな笑顔です……実際はそんなこと口に出して言えませんでしたが。ただもう、仕官が叶ったことを告げるのが精いっぱい。その後はニコニコ笑う楓殿の眩しい笑顔を見つめていました。藩主様に目をかけていただいた私は翌年の参勤交代の際、御供をして美濃へ下りました。そして三年を彼の地で過ごし今年、江戸へ帰って来たのです」
篠田の口調が変わった。
「だが、挨拶がてら久しぶりに訪れた照降町で私が見聞きしたのは、消え失せた紅葉屋と店主一家の悲報だった! 僅か数年の間に紅葉屋の看板は下ろされて店舗は上方からやって来た別の傘屋になっている。何より、旧主は己を悔いて大川に入水、一人娘は吉原に売られた……そんな馬鹿な! これは絶対、何かある――私は吉原へ向かいました。その際、急遽作った傘を小脇に抱えて持って行ったのです。これには父の遺品が役に立ちました。父母の苦労を忘れないように、藩に取り立てられて組屋敷に移った際も傘作りの道具を手元に残していたのです」
ここで初めて久馬が声を発した。
「篠田さん、傘を作って吉原へ赴いた……それは何故だい?」
「楓お嬢さんに私だとわかってもらうためでした。目印になればと思ったんです。私のことなど忘れていて当然だ。傘張りの内職者はたくさんいた。たかが傘を届けに来た浪人の子など大店のお嬢さんが覚えているはずもない……」
「だが、お嬢さんは覚えていた?」
「ええ!」
篠田は満面の笑みで頷いた。
「多少照れながらおどけて言った私の挨拶に元紅葉屋の一人娘楓殿、モミジ花魁は即座に答えてくれました。懐かしい笑顔はとめどなく流れる涙に滲んでいましたが」
――傘をお届けにまいりました。
――ありがとうござりんす。……ほんに丁寧な良い仕事をしなんす……
どうぞ、ゆっくりと……していってくんなまし。
ね? 玄乃介様……?
「見世に上がり再会を果たしたその日のうちに、私は照降町の老舗の傘屋・紅葉屋廃業の真相を聞くことができました。表向きはよくある話だ。恋女房に先立たれ落胆した店主が、気休めに手を染めた賭博に嵌って身上を潰した。しかし、悪意を持った人物四人が加わると全く違う絵柄になる。賭博に誘ったのは喜助という紅葉屋の手代だった男だ。この手代はお嬢さんを口説いてきっぱりと拒絶されて以来、歪んだ情念を燻らせていた。優しい楓殿は言い寄られたことを親御に明かさなかったのだが、その温情が仇になった。私が斬った最初の男です」
早口に篠田は続けた。
「手代は行きつけの賭場の馴染みの壺振りを抱き込んだ。名をマサという。これが悪党の二人目。二番目に私が斬った男ですよ。イカサマで最初は勝たせてその気にさせる。だが勝つのは始めだけ。やがて負けが込み、取り戻そうとのめり込んでいく。店主にお金を貸し続けたのが同じ町内の老舗の下駄屋、日向屋の若旦那、佑太郎――こいつです」
白々と足元の死体を見下ろして篠田は言う。
「実はこの若旦那も賭博仲間でした。おまけに賭場に少なからぬ借金があった。ハナから紅葉屋を潰して売り払い、その資金を強奪する目論見だったのさ」
篠田は暫く黙ったまま屍と地面を叩く激しい雨の音を聞いていた。やがて、ゆっくりと視線を上げる。
「これでおわかりでしょう? こいつら四人は老舗を一軒潰して売り払い、手に入れた金を山分けした。若旦那は自分の借金も帳消しにできた。壺振りと手代は以後、遊び暮らす良い御身分だ。手代なんぞはもう何処へも奉公することなく竜泉寺村に家を買って、一人気ままに暮らしていましたよ」
「そうか! 正体を隠して暮らしていたので殺されても誰も名乗りを上げる者がいなかったのか。しかも竜泉寺村だと? あそこは吉原の真裏じゃねぇか! 松兵衛親分も走り損だな」
合点がいったと大きく頷いてから、改めて久馬が質した。
「三番目に斬られた宇貝家の三男坊はどういう関わりだ? 賭場主の息子だったから場所の提供と、イカサマを大目に見過ごす約束でもしたのか?」
「あいつもシンから性根の腐った人間でね」
昨日斬った旗本の息子を思い出してか、篠田は暗く笑う。
「自分の屋敷の中間部屋の賭場にしょっちゅう出入りして遊んでいた。その上で、手代や日向屋の若旦那の悪巧みを知り、自分も噛ませろと飛び入った。三男坊の目的は金よりも……こういえばおわかりでしょう? 連中が山分けにしたのは紅葉屋の売り賃だけじゃない。一人娘を苦界に売った代金と、その前にさんざん――さんざん――」
フラれ侍の声は低くくぐもって雨の音にかき消された。
――連中は面白がっていまだに通って来んす。
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