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1巻
1-2
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「流石、お江戸の同心様、お目が高いどすな! これは蛇の目の中でも一番繊細で、かよわい女子はんにもご負担のう扱える造りになっています。お色もお好みのものを選んでいただけるよう数多う揃えておりますので、どうぞお手に取ってごらんください」
「うむ、俺も友人も無骨者で傘についてはよく知らぬのだ。この際だ、傘について詳しく教えてくれ。えーと、傘には女物と男物があるのか?」
上方出身の商人らしく、大番頭は如才なく説明し始める。
「へえ、当店で扱っている傘は主に番傘、蛇の目傘、端折傘どす」
端折傘は大型で柄が長く、野点などに使われる特殊な傘だと奥の棚を指差した後で、
「こちらが番傘。一般に使用される頑丈な傘どすな。和紙も厚く骨も太い」
「ほう? 《守貞漫稿》に記された大黒傘とはその番傘をいうのか?」
身を乗り出した浅右衛門に番頭は頷いた。
「さようで。お詳しいどすな、お侍様。大黒屋は大坂にあった傘屋の草分けやそうで――残念ながら現在はのうなって、番傘の別名として名だけが残ったゆうことです」
大番頭は番傘が並ぶ一角から移動する。
「番傘もよろしおすが――やはり私はこちら、蛇の目をお勧めします。番傘よりも繊細で粋でっしゃろ? お似合いどすえ!」
蛇の目は細身で男女を問わず洒落者が好むと大番頭は言う。その分、値段も高いというわけだ。大番頭は小僧に運ばせた中から一本抜き取った。
「蛇の目はその名の通り、傘の中央部と端に青い土佐紙を張り、その中間に白い紙を用いて、開くと蛇の目みたいに見えるさかい、この名がついたそうどす。現在は和紙の張り方は色々で上方とお江戸の好みの違いもありますなぁ」
大番頭はちょっと声を低めて、
「どうもお江戸のお人は単色を好まれるようで」
久馬は目を瞠った。
「へー、そうなのか? 傘一つとっても江戸と上方で好みが別れるとは面白いものだな!」
「フフ……同心様ほどの御方が御心を寄せる佳人なら、こんなお色はどうでっしゃろ?」
大番頭が選んで差し出した傘は翡翠色。柄の部分はしっとりとした黒塗りだ。
「どうどす? ここに女子はんの白い手が添えられて、『主様、雨が……』なんて差しかけられたら……」
「むむ、文字梅が……白い手で? そりゃたまらない」
久馬は叫んだ。
「か、買おうじゃねぇか!」
「毎度おおきに!」
まんまと術中にはまり――否、江戸っ子らしく気風よく即決する久馬だった。
贈答品ということで、これまた上方風に藤色の薄紙で美しく包んでもらっている傍らで浅右衛門が尋ねる。
「それはそうと、大番頭さん、このお店は新しいな? 日喜屋という屋号は初めて聞く気がする。尤も最近この辺りに来なかったせいかもしれないが」
お茶を差し出しながら、にこやかに大番頭が答えた。
「三年前、開店したばかりでございます。どうぞ、これを機に御贔屓に願います」
この日喜屋は京都烏丸に本店があり、ここは江戸での最初の出店だと大番頭は誇らしげに法被の袖を揺らす。
「三年前、私が店を任されて江戸へ来ましたのや。おかげさまでようさん儲けさせてもろうて、このまま暖簾分けしてもらえそうどす」
浅右衛門は興味深そうに店内を見回した。
「それにしても、こんないい立地がよく手に入ったな!」
「へえ。運が良かったんどす。ちょうど廃業して売りに出されたばかりのお店があり、渡りに船とばかり喜んで買い取らせていただきましてん。ご覧の通り立派な造作で、居抜きで買うてほとんど手も加えず、すぐに店開きできました」
「チェ、乗せられたかな? 傘一本で五百文だぜ。予定外の出費だ」
上方の美しい傘を肩に担いだ黒沼久馬、店を出るなりプックリ頬を膨らます。
「だが、まぁ、そんな傘をもらったら文字梅師匠、泣いて喜ぶぞ。久さんの株も一段と上がろうというものさ」
「やっぱり? 浅さんもそう思うか? ヘヘヘ、照れるぜ。フラれ侍ならず、俺はモテモテの天晴れ侍だな!」
これには浅右衛門、口の中で呟いた。
「やれやれ、それを言うなら照照侍だろうが」
「なんか言ったか、浅さん?」
「いや、何も」
その後、数件の傘屋を巡り、古傘屋も覗いたが、そう上手い具合に〝血染めの傘〟は見つからない。
「同心様、血に汚れた怪しい傘なんぞ拾ったとしても、汚れた和紙は剥がして古傘屋に売るんじゃないでしょうかね? 私どもは骨だけでも買い取りますからね」
などと呆れられる始末。
通りへ戻ると、道の角に白玉屋が屋台を出していた。
「ちょうど小腹がすいたな。久さんは傘を買って散財したようだから、俺が奢るよ」
「お、いいねぇ!」
屋台の親父はニコニコして二人を迎えた。
「こりゃあ助六か、はたまた斧貞九郎かと見紛いましたぜ、八丁堀の旦那。傘がよくお似合いで。日喜屋さんでお買いになった? さすが下り物だけあってあそこの傘は人気ですねぇ! しかし、以前の紅葉屋さんもいい傘を揃えていたし、あんなに繁盛していたのにねぇ」
歌舞伎役者のようだと煽てられた久馬、大切そうに傘を小脇に抱える。
「紅葉屋たぁ可愛らしい屋号だな!」
隣の浅右衛門がすかさず教えた。
「いや、久さん、昔は傘を紅葉傘と総称したから、そこから採った名だろうよ。古今集の歌からきているらしい。『雨降れば 笠取山の もみじ葉は 行きかう人の 袖さえぞ照る』……」
「浅さん、昨日は傘について無知だと嘆いていたのによ、今日はここ、照降町で傘屋がやれそうな勢いだぜ」
久馬の言葉に浅右衛門は頬を染めて目を伏せる。この男でも照れるのだ。慌てて話題を変える。
「紅葉屋さんというのかえ、日喜屋が居抜きで買い取ったという以前の傘屋は?」
屋台の親父は一瞬、ハッとした顔になり、改めて浅右衛門と久馬を交互に見た。
「旦那様方、まさか、御用のスジで来られたんですか?」
「違う違う! 俺はコレにせがまれてさ。モテる男は辛いぜ」
小指を立て、次に傘を持ち上げて陽気に答える同心に、屋台の主も安心したようだ。
「でしょうね! それに紅葉屋が店を畳んだのは誰のせいでもない、自業自得なんだから、事件になんてなりようがない――」
冷水にさらされた白玉は見るからに涼しげで美味しそうだ。店主はすばやく椀に移すと、
「とはいえ、同情はしますがね。へい、お待ちどうさま!」
椀を受け取りながら浅右衛門が訊いた。
「ほう? 店主が病でも患ったのか?」
「病になったのは女将さんの方。ポックリ逝っちまって紅葉屋の主はソリャア気抜けになった。オシドリ夫婦だったからねぇ。だが、いけねぇのはここからです。女房を失った寂しさを別のもので紛らわせようとした。コレですよ」
白玉屋は椀を持って壺を振る真似をした。久馬が顔を顰める。
「博打か」
「若ぇ時まじめだった奴が、年取ってから覚えた遊びは危険とよく言いますが、まさにそれ。あれよあれよという間に身上を潰した。なんでもね、最初の内は同じ照降町の日向屋――これは下駄屋ですがね、そこの若旦那がこっそり金を貸してたそうで。それがとんでもない額になったらしい。大旦那に見つかって大騒動でしたよ」
首に巻いた手拭いで顔を拭うと、白玉屋の親父はしんみりした口調で言った。
「結局、借金のカタに店は押さえられ、一人娘は苦界に入った。紅葉屋当人は娘が吉原に売り渡された夜に身を投げて、翌日、両国の百本杭に引っかかってるのがめっかった」
「そりゃ憐れな話だなぁ」
白玉の甘さを噛みしめながら久馬がつくづくと息を吐く。
「人生てのは降る日もありゃ晴れる日もあるとは聞くがよ」
「こりゃいけねぇ。せっかく綺麗な傘をお買いになったのに湿っぽい話をしてしまいました。申し訳ねえ」
「いいってことよ。気にするな」
ここで二人は背後に聞き覚えのある声を聞いた。
「黒沼の旦那! 大変だ!」
息急き切って駆け寄った曲木の松親分、一気にまくし立てた。
「またずぶ濡れの斬死体が見つかった! 殺られたのは昨晩らしいや!」
〈四〉
驚く久馬と浅右衛門を前に、曲木の松は告げた。
「ほら、昨夜も雨が降ったでござんしょう?」
「なんだと? クソッ、場所は何処だ?」
白玉を呑み下して久馬が前のめりになる。
「京橋川と三十間堀の――三ツ橋界隈です。ふざけやがって八丁堀の御組屋敷に近い辺りですよ。亡骸の方は最初に駆けつけておいでの鳥住の旦那が検視を終えた後、番屋へ回す前に引き取られていきました」
「え? ということは?」
「へい。今回は早い段階で身元が割れたんでさ。というのも、殺されたのはお武家様なんです。それも」
松兵衛はここでゴクリと唾を呑んでから、
「六百石の御旗本。向柳原の宇貝様の御三男で平三郎様という名だそうです」
とりあえず久馬は浅右衛門と三ツ橋の番屋へ向かった。検視をした同僚の同心がまだそこにいると聞いて、詳しい話を聞こうと思ったのだ。松兵衛の方は先の斬死体の二人の身元を何としても割り出すと息まいて、砂埃とともに走り去った。
「そうさ、向柳原に屋敷を構えた宇貝外記様の御三男、平三郎殿。年齢は二十一。検視をしてる最中に屋敷の者が引き取りに駆けつけて来た」
番屋で渋茶を啜っていた定廻り同心、鳥住大吾はそう言って笑った。
「まぁ、あのくらいのお歴々になると体面ってものがある。家人の話によると平三郎殿は桃井の道場に通っていたそうで、どうもその帰りに襲われたらしい」
「桃井? ってことは〈士学館〉か? あさり河岸にある?」
「そう。屍骸が見つかった場所が三ツ橋の白魚橋――」
〈士学館〉は安永二年(一七七三)、桃井春蔵が創建した鏡新明智流の道場で、斎藤弥九郎の神道無念流の〈練兵館〉、千葉周作の北辰一刀流〈玄武館〉とともに江戸三大道場に数えられる。幕末〈人斬り以蔵〉と恐れられた岡田以蔵も〈士学館〉の出だ。最初、道場は日本橋南茅場町にあったが二代目桃井直一が南八丁堀大富町に移した。そこがあさり河岸と呼ばれる一帯で、三つの橋がかかっていた。禅正橋、白魚橋、真福寺橋だ。
「傷はどんなでした?」
「これは山田殿……!」
幕府公認御様御用人、山田浅右衛門に声をかけられて鳥住は姿勢を正した。侍は皆、山田浅右衛門を前にするとこのような態度となる。ただ一人の例外が久馬なのだ。
「鮮やかなものでした。こう、正面からの袈裟懸け。抜く間も与えなかったらしい」
この定廻りは中々の遣い手で太刀筋を再現して見せてくれた。
「〈士学館〉の門弟ならば襲われた宇貝平三郎もそれなりに腕に覚えはあったはず。それをあそこまで見事に斬り殺しているんだから、内心、唸りましたよ」
久馬も唸った。
「どうもわからねぇ。裕福な町人、やくざ者、そしてお歴々の若様ときた。この三死体、無関係のようでいて共通するところもある。斬り口から見た〝鮮やかな剣の腕〟……」
浅右衛門が言い添える。
「そしてもう一つ。襲われたのが〝雨の夜〟……」
浅右衛門は久馬を隅に引っ張ってから言った。
「久さん、俺はどうしても気にかかることがある。それを確認するためにその宇貝という旗本の屋敷へ行ってみたいのだが」
斬られた若侍、平三郎が住んでいた屋敷、六百石の宇貝家がある向柳原は、神田川を挟んで南側にある柳原に対してその向かいだからと付いた名だ。大名、旗本、御家人の武家屋敷が並んでいる地域である。町家の通りにある番屋の代わりに辻番所が設けられ、警備の下士が立っているのも物々しい。だが、一番の違いは行商人がやってこないこと。だからどの道筋も森閑としている。
一緒にやって来た浅右衛門は宇貝家の長屋門の前で足を止めた。
「俺はここに残るから、後は久さん、頼んだぞ」
「おう、任せとけ! 例の件を訊けばいいんだな?」
三男とはいえ、子息である。邸内は葬儀の準備などで騒然としていた。
「このたび平三郎様にあらせられましては、誠にご愁傷様でした――」
式台の前で仰々しく頭を下げる南町奉行配下の定廻り同心、黒沼久馬。応対に出てきた初老の用人に「何用か?」と問われると、一気に告げた。
「平三郎殿のご遺品のことで私どもに不備があり、急ぎやって来た次第です。ご遺品をお渡しそびれたかもしれません。平三郎殿は当夜、傘をご使用でしたでしょうか?」
「さあ、私はそこまでは……」
宇貝家の用人は後方に控えていたもう少し若い家士の方へ首を向ける。
「某も存じません」
「平三郎殿は、帰りは差していましたよ」
ずっと後ろから進み出た一人が声を上げた。
「道場へ来た時のことは知りませんが、帰りは確かに傘を差していました」
道場仲間だという若侍はきっぱりと言い切る。
「道場の玄関を出る際、傘を差していく平三郎殿の後ろ姿を見ました。急に雨脚が酷くなった時で、その雨音に吃驚して玄関を振り返ったので覚えているんです」
「そうですか。現在、傘は見つかっていないのですが、周辺をもう一度探して、見つけ次第お届けします」
そう言った久馬に用人は首を振った。
「傘は結構です。そちらで処分なさってください」
「差していたとよ!」
門前で待っていた友に駆け寄り、報告する久馬だった。
「そうか、どんな傘だと言っていた?」
「いや、そこまではわからないそうだ。ただ急に雨脚が強くなった時、傘を差して帰るのを道場仲間が見たと証言している。そういえば文字梅も昨夜、そんなことを言ってたな。酷く降ってきたとかなんとか。だから襲われたのは俺たちが飲んでいたあの時間だろう――ん?」
「む?」
ここで背後に忍び寄る影――
久馬は十手に、浅右衛門は刀の鍔に手を置いた。
「失礼、旦那様方――ご報告です。今夜はありません。当御屋敷にてご不幸があったため取りやめですので、ご承知願います。では」
それだけ告げると、人影は駆け去っていく。
「なんだぁ、ありゃあ? 驚かせやがって」
「人違いされたのだろう。俺がこんな格好で門前をうろついていたから、胡乱な浪人と思われたかな。まぁ、浪人というのは間違っちゃあいないが――」
ここまで言って浅右衛門は自分の着流しの黒羽二重を繁々と見つめた。やがて唐突に顔を上げる。
「試したいことがある。久さんは、ちょっと何処かへ隠れていてくれ。巻羽織の旦那がいるより俺一人の方がいい」
「へ? そりゃ、構わないが」
訝しがりながらも久馬は言われた通り浅右衛門から離れてやや遠い、道向こうの屋敷の生垣の陰に身を寄せる。すると、浅右衛門は宇貝家の前を行ったり来たりし始めた。ほどなく、正門横の耳門が開いて、一人の中間が浅右衛門に近づくと低い声で囁く。
「お知らせします。本日は中止です。宇貝家にご不幸があって――」
「そいつは残念だ。せっかくやって来たのに。次に楽しませてもらえるのはいつだえ?」
「それはまだちょっと……今ははっきりとは申し上げられません。相すみませんが今日のところはお引き取り願います」
男が屋敷の中へ消えるのを待って、浅右衛門は久馬の傍へ戻ってきた。
「これでわかった。ここ宇貝の屋敷では中間部屋で賭場を開いているようだ」
久馬は舌打ちしただけで別段驚きはしない。大名や旗本が博打の場所を提供しているのは珍しいことではなかったからだ。賭博は幕府ご禁制だったが町方の奉行所には旗本を取り締まる権限はない。大名、旗本の捜査権を有するのは大目付である。それを利用して胴元たちは大名の下屋敷や旗本の中間部屋で賭場を開くのだ。寺銭の一部を場所代として上納されるので大名や旗本は潤う。
その種の話を嫌う清廉な同心、黒沼久馬は吐き捨てる。
「ふん、宇貝の屋敷が賭場になっている? クソ面白くねぇがありそうなことだ。だが、それが今回の三男が斬られたこととどう繋がるってんだ?」
「確かにな」
浅右衛門は腕を組んでじっと考え込んだ。
「ここまでの経緯で唯一はっきりしたのは――傘についてだな」
練塀の向こう、高く伸びた椎の木を揺らしてモズがピィッと鳴いて飛び立った。浅右衛門が顔を上げる。
「宇貝平三郎は傘を差していた。どうも俺は思うんだが、雨の夜に斬られた他の二人もやはり傘を差していたんじゃないだろうか?」
また久馬が渋い顔をした。
「だがよ、浅さん、博打同様、傘から殺られた者の身元や、はたまた下手人までを辿るのは無理というものだぜ。今日、照降町へ行ってわかったじゃないか。たとえ傘に何らかの手証があったとしても、傘ってやつは拾われたり売り払われたりして……あーーーーっ!」
突然、久馬が叫んだ。
「ど、どうした久さん、驚かすなよ」
「傘といえば、なんてこった! あの傘! 俺が照降町で買った大切な日喜屋の下り傘、あれをさっきの番屋に置いたままだ、どうしよう!」
首打ち人は微苦笑した。
「落ち着けよ、久さん、心配することはねぇやな。流石に番屋に置いてある傘を盗る奴はいないだろう。しかも、新品で包んであるんだ」
「てやんでぃ! 番屋だって安心できるものか。置き傘だと思って誰かがひょいと差して帰るかもしれねぇ。松兵衛親分だって言っていたぞ。江戸っ子は落ちてる傘を悪気なく拾って帰る、と。置いてある傘だっておんなじだろうよ」
「置き傘だと思って……誰かがひょいと?」
浅右衛門の顔が変わった。もう一度口の中で繰り返す。
「置き傘だと思って……誰かがひょいと……」
暫く黙って考え込んでいた浅右衛門が久馬に向き直った。
「久さん、急いで竹さんのところへ行こう。今一度じっくりと訊きたいことがある」
「えー、どっちかってぇと俺はキノコより姉のところへ行きてぇや。さっきの番屋に寄って、あの五百文はたいた綺麗な傘を持ってさ」
〈五〉
両国橋の際に位置する米沢町は両国広小路に隣接し、南は薬研掘に面している。現中央区東日本橋二丁目の辺りだ。ある時期の江戸古地図で見ると薬研堀の端に小さく柳橋の名が記されている。神田川に柳橋が架けられると、薬研堀のこの橋は元柳橋と呼ばれるようになったため米沢町の隅田川に沿った通りを元柳橋河岸という。この界隈は薬種問屋が多いことでも知られている。
そんな薬種屋の一軒、二階の窓から怪しい呻き声が漏れ聞こえてきた。
「う~ん……う~~~~ん……」
ここが戯作者見習い朽木思惟竹こと竹太郎の棲家である。一応実家からは独立しての一人住まい。とはいえ、未だ戯作では稼げないので、口では厳しく言うものの松兵衛が滞りがちな部屋賃を払ってやっているのを周りの者は皆知っている。その代わりに手数の要る時は目明しである父の捕り物の助っ人をしているというわけだ。
「入るぜ、キノコ……げ?」
その勝手知ったる竹太郎の住まい。久馬は薬種屋の独特の匂いが籠った店舗を突っ切って、階段を上がり、カラリと襖を開ける。
狭い四畳半は一面、散らばった半紙で埋まっていた。
キノコの姿は何処? 目を凝らすとその半紙の山の下から小粋な本多髷が見える。
「お、そこか、キノコ!」
引き起こしながら、久馬は真顔で訊いた。
「おめぇ、まさか書き損じの半紙で窒息しかけてたんじゃないだろうな?」
「うーん、うーん……俺はもうダメだぁ……やっぱり、ダメだああああ! 書けねぇ……どうしても書けねぇ……」
「ははぁ、例のフラれ侍の戯作か?」
遠慮なく久馬は呵々と笑う。
「案の定、書きあぐねて行き詰まってやがるな!」
ここで漸く我に返ったようで竹太郎は目を瞬いた。
「これはこれは――黒沼の旦那と山田様? またまたお二人揃って、今日はわっちの塒まで押しかけて一体何の騒ぎです?」
浅右衛門が丁寧に申し出る。
「竹さん、ここはあんたに訊くのが一番だと思ってね。前に言っていたフラれ侍について、今一度詳しく教えてくれないか? どうも、気にかかることがあって……」
竹太郎の顔がパッと輝いた。
「天下の首打ち人、山田浅右衛門様に頭を下げられるたぁ、この朽木思惟竹一生の名誉。ようがす、お話しいたしましょう!」
大きく頷いた後で、言葉を続ける。
「それにしても、山田様、すこぶる運がよろしいようで。というのも――」
竹太郎が言うには、昨日、大門前の五十間通りの茶屋から飛び出した後、竹太郎はやり方を変えたのだとか。
「遊女じゃあるまいしフラれ侍をただ〝待つ〟だけでは埒が明かねぇと気づきましたんでさ。それでわっちは足を使って調べまくったね」
「吉原の中をかい? そりゃ大変だったろう、竹さん?」
浅右衛門が吃驚して訊く。吉原の管轄は町奉行でも寺社奉行でもない。幕府は、代々その名を継ぐ長吏頭・浅草弾佐衛門なる人物に遊郭内の支配を委ねていた。その上、商売上、どの見世も顧客について口が堅い。
「何ね、そこはそれ、大した難儀はありませんでした」
尻端折りして、若い衆のふりをしてチョロチョロ駆け巡ったと竹太郎は軽く流す。
「その結果、フラれ侍が通っている見世が揚屋町の某廓だと、そこまでは探し出したんでさ。さあ、ここからが勝負さね、それでわっちはなけなしの金を……」
「おい! 廓に上がったのか? まともな働きもない半人前の分際でふてぇ野郎だ! 俺だって花魁なんぞ手を握ったことすらねぇってのに」
浅右衛門が遮る。
「落ち着け、久さん。そこは大事な部分じゃない」
「山田様の言う通りだ。最後まで聞いてくだせぇ、黒沼の旦那。わっちが金を渡したのは遊女は遊女でも元遊女。遣り手でさぁ」
「あ、遣り手か」
散らばった半紙の上に四角く座り直す久馬だった。
〈遣り手〉とは年季が明けた後も遊郭に残り働いている女たちのことである。大多数の遊女たちは(無事生き延びていたなら)遣り手になる。遣り手の仕事は遊女の警固や見張りだ。狼藉を働く悪い客から遊女の身を守るのと同時に、遊女自身が逃亡やズル休みといった悪さをしないか常に目を光らせていた。当然、懲罰も担当した。その他に、客からの口利きや仲介なども請け負ったのである。
「うむ、俺も友人も無骨者で傘についてはよく知らぬのだ。この際だ、傘について詳しく教えてくれ。えーと、傘には女物と男物があるのか?」
上方出身の商人らしく、大番頭は如才なく説明し始める。
「へえ、当店で扱っている傘は主に番傘、蛇の目傘、端折傘どす」
端折傘は大型で柄が長く、野点などに使われる特殊な傘だと奥の棚を指差した後で、
「こちらが番傘。一般に使用される頑丈な傘どすな。和紙も厚く骨も太い」
「ほう? 《守貞漫稿》に記された大黒傘とはその番傘をいうのか?」
身を乗り出した浅右衛門に番頭は頷いた。
「さようで。お詳しいどすな、お侍様。大黒屋は大坂にあった傘屋の草分けやそうで――残念ながら現在はのうなって、番傘の別名として名だけが残ったゆうことです」
大番頭は番傘が並ぶ一角から移動する。
「番傘もよろしおすが――やはり私はこちら、蛇の目をお勧めします。番傘よりも繊細で粋でっしゃろ? お似合いどすえ!」
蛇の目は細身で男女を問わず洒落者が好むと大番頭は言う。その分、値段も高いというわけだ。大番頭は小僧に運ばせた中から一本抜き取った。
「蛇の目はその名の通り、傘の中央部と端に青い土佐紙を張り、その中間に白い紙を用いて、開くと蛇の目みたいに見えるさかい、この名がついたそうどす。現在は和紙の張り方は色々で上方とお江戸の好みの違いもありますなぁ」
大番頭はちょっと声を低めて、
「どうもお江戸のお人は単色を好まれるようで」
久馬は目を瞠った。
「へー、そうなのか? 傘一つとっても江戸と上方で好みが別れるとは面白いものだな!」
「フフ……同心様ほどの御方が御心を寄せる佳人なら、こんなお色はどうでっしゃろ?」
大番頭が選んで差し出した傘は翡翠色。柄の部分はしっとりとした黒塗りだ。
「どうどす? ここに女子はんの白い手が添えられて、『主様、雨が……』なんて差しかけられたら……」
「むむ、文字梅が……白い手で? そりゃたまらない」
久馬は叫んだ。
「か、買おうじゃねぇか!」
「毎度おおきに!」
まんまと術中にはまり――否、江戸っ子らしく気風よく即決する久馬だった。
贈答品ということで、これまた上方風に藤色の薄紙で美しく包んでもらっている傍らで浅右衛門が尋ねる。
「それはそうと、大番頭さん、このお店は新しいな? 日喜屋という屋号は初めて聞く気がする。尤も最近この辺りに来なかったせいかもしれないが」
お茶を差し出しながら、にこやかに大番頭が答えた。
「三年前、開店したばかりでございます。どうぞ、これを機に御贔屓に願います」
この日喜屋は京都烏丸に本店があり、ここは江戸での最初の出店だと大番頭は誇らしげに法被の袖を揺らす。
「三年前、私が店を任されて江戸へ来ましたのや。おかげさまでようさん儲けさせてもろうて、このまま暖簾分けしてもらえそうどす」
浅右衛門は興味深そうに店内を見回した。
「それにしても、こんないい立地がよく手に入ったな!」
「へえ。運が良かったんどす。ちょうど廃業して売りに出されたばかりのお店があり、渡りに船とばかり喜んで買い取らせていただきましてん。ご覧の通り立派な造作で、居抜きで買うてほとんど手も加えず、すぐに店開きできました」
「チェ、乗せられたかな? 傘一本で五百文だぜ。予定外の出費だ」
上方の美しい傘を肩に担いだ黒沼久馬、店を出るなりプックリ頬を膨らます。
「だが、まぁ、そんな傘をもらったら文字梅師匠、泣いて喜ぶぞ。久さんの株も一段と上がろうというものさ」
「やっぱり? 浅さんもそう思うか? ヘヘヘ、照れるぜ。フラれ侍ならず、俺はモテモテの天晴れ侍だな!」
これには浅右衛門、口の中で呟いた。
「やれやれ、それを言うなら照照侍だろうが」
「なんか言ったか、浅さん?」
「いや、何も」
その後、数件の傘屋を巡り、古傘屋も覗いたが、そう上手い具合に〝血染めの傘〟は見つからない。
「同心様、血に汚れた怪しい傘なんぞ拾ったとしても、汚れた和紙は剥がして古傘屋に売るんじゃないでしょうかね? 私どもは骨だけでも買い取りますからね」
などと呆れられる始末。
通りへ戻ると、道の角に白玉屋が屋台を出していた。
「ちょうど小腹がすいたな。久さんは傘を買って散財したようだから、俺が奢るよ」
「お、いいねぇ!」
屋台の親父はニコニコして二人を迎えた。
「こりゃあ助六か、はたまた斧貞九郎かと見紛いましたぜ、八丁堀の旦那。傘がよくお似合いで。日喜屋さんでお買いになった? さすが下り物だけあってあそこの傘は人気ですねぇ! しかし、以前の紅葉屋さんもいい傘を揃えていたし、あんなに繁盛していたのにねぇ」
歌舞伎役者のようだと煽てられた久馬、大切そうに傘を小脇に抱える。
「紅葉屋たぁ可愛らしい屋号だな!」
隣の浅右衛門がすかさず教えた。
「いや、久さん、昔は傘を紅葉傘と総称したから、そこから採った名だろうよ。古今集の歌からきているらしい。『雨降れば 笠取山の もみじ葉は 行きかう人の 袖さえぞ照る』……」
「浅さん、昨日は傘について無知だと嘆いていたのによ、今日はここ、照降町で傘屋がやれそうな勢いだぜ」
久馬の言葉に浅右衛門は頬を染めて目を伏せる。この男でも照れるのだ。慌てて話題を変える。
「紅葉屋さんというのかえ、日喜屋が居抜きで買い取ったという以前の傘屋は?」
屋台の親父は一瞬、ハッとした顔になり、改めて浅右衛門と久馬を交互に見た。
「旦那様方、まさか、御用のスジで来られたんですか?」
「違う違う! 俺はコレにせがまれてさ。モテる男は辛いぜ」
小指を立て、次に傘を持ち上げて陽気に答える同心に、屋台の主も安心したようだ。
「でしょうね! それに紅葉屋が店を畳んだのは誰のせいでもない、自業自得なんだから、事件になんてなりようがない――」
冷水にさらされた白玉は見るからに涼しげで美味しそうだ。店主はすばやく椀に移すと、
「とはいえ、同情はしますがね。へい、お待ちどうさま!」
椀を受け取りながら浅右衛門が訊いた。
「ほう? 店主が病でも患ったのか?」
「病になったのは女将さんの方。ポックリ逝っちまって紅葉屋の主はソリャア気抜けになった。オシドリ夫婦だったからねぇ。だが、いけねぇのはここからです。女房を失った寂しさを別のもので紛らわせようとした。コレですよ」
白玉屋は椀を持って壺を振る真似をした。久馬が顔を顰める。
「博打か」
「若ぇ時まじめだった奴が、年取ってから覚えた遊びは危険とよく言いますが、まさにそれ。あれよあれよという間に身上を潰した。なんでもね、最初の内は同じ照降町の日向屋――これは下駄屋ですがね、そこの若旦那がこっそり金を貸してたそうで。それがとんでもない額になったらしい。大旦那に見つかって大騒動でしたよ」
首に巻いた手拭いで顔を拭うと、白玉屋の親父はしんみりした口調で言った。
「結局、借金のカタに店は押さえられ、一人娘は苦界に入った。紅葉屋当人は娘が吉原に売り渡された夜に身を投げて、翌日、両国の百本杭に引っかかってるのがめっかった」
「そりゃ憐れな話だなぁ」
白玉の甘さを噛みしめながら久馬がつくづくと息を吐く。
「人生てのは降る日もありゃ晴れる日もあるとは聞くがよ」
「こりゃいけねぇ。せっかく綺麗な傘をお買いになったのに湿っぽい話をしてしまいました。申し訳ねえ」
「いいってことよ。気にするな」
ここで二人は背後に聞き覚えのある声を聞いた。
「黒沼の旦那! 大変だ!」
息急き切って駆け寄った曲木の松親分、一気にまくし立てた。
「またずぶ濡れの斬死体が見つかった! 殺られたのは昨晩らしいや!」
〈四〉
驚く久馬と浅右衛門を前に、曲木の松は告げた。
「ほら、昨夜も雨が降ったでござんしょう?」
「なんだと? クソッ、場所は何処だ?」
白玉を呑み下して久馬が前のめりになる。
「京橋川と三十間堀の――三ツ橋界隈です。ふざけやがって八丁堀の御組屋敷に近い辺りですよ。亡骸の方は最初に駆けつけておいでの鳥住の旦那が検視を終えた後、番屋へ回す前に引き取られていきました」
「え? ということは?」
「へい。今回は早い段階で身元が割れたんでさ。というのも、殺されたのはお武家様なんです。それも」
松兵衛はここでゴクリと唾を呑んでから、
「六百石の御旗本。向柳原の宇貝様の御三男で平三郎様という名だそうです」
とりあえず久馬は浅右衛門と三ツ橋の番屋へ向かった。検視をした同僚の同心がまだそこにいると聞いて、詳しい話を聞こうと思ったのだ。松兵衛の方は先の斬死体の二人の身元を何としても割り出すと息まいて、砂埃とともに走り去った。
「そうさ、向柳原に屋敷を構えた宇貝外記様の御三男、平三郎殿。年齢は二十一。検視をしてる最中に屋敷の者が引き取りに駆けつけて来た」
番屋で渋茶を啜っていた定廻り同心、鳥住大吾はそう言って笑った。
「まぁ、あのくらいのお歴々になると体面ってものがある。家人の話によると平三郎殿は桃井の道場に通っていたそうで、どうもその帰りに襲われたらしい」
「桃井? ってことは〈士学館〉か? あさり河岸にある?」
「そう。屍骸が見つかった場所が三ツ橋の白魚橋――」
〈士学館〉は安永二年(一七七三)、桃井春蔵が創建した鏡新明智流の道場で、斎藤弥九郎の神道無念流の〈練兵館〉、千葉周作の北辰一刀流〈玄武館〉とともに江戸三大道場に数えられる。幕末〈人斬り以蔵〉と恐れられた岡田以蔵も〈士学館〉の出だ。最初、道場は日本橋南茅場町にあったが二代目桃井直一が南八丁堀大富町に移した。そこがあさり河岸と呼ばれる一帯で、三つの橋がかかっていた。禅正橋、白魚橋、真福寺橋だ。
「傷はどんなでした?」
「これは山田殿……!」
幕府公認御様御用人、山田浅右衛門に声をかけられて鳥住は姿勢を正した。侍は皆、山田浅右衛門を前にするとこのような態度となる。ただ一人の例外が久馬なのだ。
「鮮やかなものでした。こう、正面からの袈裟懸け。抜く間も与えなかったらしい」
この定廻りは中々の遣い手で太刀筋を再現して見せてくれた。
「〈士学館〉の門弟ならば襲われた宇貝平三郎もそれなりに腕に覚えはあったはず。それをあそこまで見事に斬り殺しているんだから、内心、唸りましたよ」
久馬も唸った。
「どうもわからねぇ。裕福な町人、やくざ者、そしてお歴々の若様ときた。この三死体、無関係のようでいて共通するところもある。斬り口から見た〝鮮やかな剣の腕〟……」
浅右衛門が言い添える。
「そしてもう一つ。襲われたのが〝雨の夜〟……」
浅右衛門は久馬を隅に引っ張ってから言った。
「久さん、俺はどうしても気にかかることがある。それを確認するためにその宇貝という旗本の屋敷へ行ってみたいのだが」
斬られた若侍、平三郎が住んでいた屋敷、六百石の宇貝家がある向柳原は、神田川を挟んで南側にある柳原に対してその向かいだからと付いた名だ。大名、旗本、御家人の武家屋敷が並んでいる地域である。町家の通りにある番屋の代わりに辻番所が設けられ、警備の下士が立っているのも物々しい。だが、一番の違いは行商人がやってこないこと。だからどの道筋も森閑としている。
一緒にやって来た浅右衛門は宇貝家の長屋門の前で足を止めた。
「俺はここに残るから、後は久さん、頼んだぞ」
「おう、任せとけ! 例の件を訊けばいいんだな?」
三男とはいえ、子息である。邸内は葬儀の準備などで騒然としていた。
「このたび平三郎様にあらせられましては、誠にご愁傷様でした――」
式台の前で仰々しく頭を下げる南町奉行配下の定廻り同心、黒沼久馬。応対に出てきた初老の用人に「何用か?」と問われると、一気に告げた。
「平三郎殿のご遺品のことで私どもに不備があり、急ぎやって来た次第です。ご遺品をお渡しそびれたかもしれません。平三郎殿は当夜、傘をご使用でしたでしょうか?」
「さあ、私はそこまでは……」
宇貝家の用人は後方に控えていたもう少し若い家士の方へ首を向ける。
「某も存じません」
「平三郎殿は、帰りは差していましたよ」
ずっと後ろから進み出た一人が声を上げた。
「道場へ来た時のことは知りませんが、帰りは確かに傘を差していました」
道場仲間だという若侍はきっぱりと言い切る。
「道場の玄関を出る際、傘を差していく平三郎殿の後ろ姿を見ました。急に雨脚が酷くなった時で、その雨音に吃驚して玄関を振り返ったので覚えているんです」
「そうですか。現在、傘は見つかっていないのですが、周辺をもう一度探して、見つけ次第お届けします」
そう言った久馬に用人は首を振った。
「傘は結構です。そちらで処分なさってください」
「差していたとよ!」
門前で待っていた友に駆け寄り、報告する久馬だった。
「そうか、どんな傘だと言っていた?」
「いや、そこまではわからないそうだ。ただ急に雨脚が強くなった時、傘を差して帰るのを道場仲間が見たと証言している。そういえば文字梅も昨夜、そんなことを言ってたな。酷く降ってきたとかなんとか。だから襲われたのは俺たちが飲んでいたあの時間だろう――ん?」
「む?」
ここで背後に忍び寄る影――
久馬は十手に、浅右衛門は刀の鍔に手を置いた。
「失礼、旦那様方――ご報告です。今夜はありません。当御屋敷にてご不幸があったため取りやめですので、ご承知願います。では」
それだけ告げると、人影は駆け去っていく。
「なんだぁ、ありゃあ? 驚かせやがって」
「人違いされたのだろう。俺がこんな格好で門前をうろついていたから、胡乱な浪人と思われたかな。まぁ、浪人というのは間違っちゃあいないが――」
ここまで言って浅右衛門は自分の着流しの黒羽二重を繁々と見つめた。やがて唐突に顔を上げる。
「試したいことがある。久さんは、ちょっと何処かへ隠れていてくれ。巻羽織の旦那がいるより俺一人の方がいい」
「へ? そりゃ、構わないが」
訝しがりながらも久馬は言われた通り浅右衛門から離れてやや遠い、道向こうの屋敷の生垣の陰に身を寄せる。すると、浅右衛門は宇貝家の前を行ったり来たりし始めた。ほどなく、正門横の耳門が開いて、一人の中間が浅右衛門に近づくと低い声で囁く。
「お知らせします。本日は中止です。宇貝家にご不幸があって――」
「そいつは残念だ。せっかくやって来たのに。次に楽しませてもらえるのはいつだえ?」
「それはまだちょっと……今ははっきりとは申し上げられません。相すみませんが今日のところはお引き取り願います」
男が屋敷の中へ消えるのを待って、浅右衛門は久馬の傍へ戻ってきた。
「これでわかった。ここ宇貝の屋敷では中間部屋で賭場を開いているようだ」
久馬は舌打ちしただけで別段驚きはしない。大名や旗本が博打の場所を提供しているのは珍しいことではなかったからだ。賭博は幕府ご禁制だったが町方の奉行所には旗本を取り締まる権限はない。大名、旗本の捜査権を有するのは大目付である。それを利用して胴元たちは大名の下屋敷や旗本の中間部屋で賭場を開くのだ。寺銭の一部を場所代として上納されるので大名や旗本は潤う。
その種の話を嫌う清廉な同心、黒沼久馬は吐き捨てる。
「ふん、宇貝の屋敷が賭場になっている? クソ面白くねぇがありそうなことだ。だが、それが今回の三男が斬られたこととどう繋がるってんだ?」
「確かにな」
浅右衛門は腕を組んでじっと考え込んだ。
「ここまでの経緯で唯一はっきりしたのは――傘についてだな」
練塀の向こう、高く伸びた椎の木を揺らしてモズがピィッと鳴いて飛び立った。浅右衛門が顔を上げる。
「宇貝平三郎は傘を差していた。どうも俺は思うんだが、雨の夜に斬られた他の二人もやはり傘を差していたんじゃないだろうか?」
また久馬が渋い顔をした。
「だがよ、浅さん、博打同様、傘から殺られた者の身元や、はたまた下手人までを辿るのは無理というものだぜ。今日、照降町へ行ってわかったじゃないか。たとえ傘に何らかの手証があったとしても、傘ってやつは拾われたり売り払われたりして……あーーーーっ!」
突然、久馬が叫んだ。
「ど、どうした久さん、驚かすなよ」
「傘といえば、なんてこった! あの傘! 俺が照降町で買った大切な日喜屋の下り傘、あれをさっきの番屋に置いたままだ、どうしよう!」
首打ち人は微苦笑した。
「落ち着けよ、久さん、心配することはねぇやな。流石に番屋に置いてある傘を盗る奴はいないだろう。しかも、新品で包んであるんだ」
「てやんでぃ! 番屋だって安心できるものか。置き傘だと思って誰かがひょいと差して帰るかもしれねぇ。松兵衛親分だって言っていたぞ。江戸っ子は落ちてる傘を悪気なく拾って帰る、と。置いてある傘だっておんなじだろうよ」
「置き傘だと思って……誰かがひょいと?」
浅右衛門の顔が変わった。もう一度口の中で繰り返す。
「置き傘だと思って……誰かがひょいと……」
暫く黙って考え込んでいた浅右衛門が久馬に向き直った。
「久さん、急いで竹さんのところへ行こう。今一度じっくりと訊きたいことがある」
「えー、どっちかってぇと俺はキノコより姉のところへ行きてぇや。さっきの番屋に寄って、あの五百文はたいた綺麗な傘を持ってさ」
〈五〉
両国橋の際に位置する米沢町は両国広小路に隣接し、南は薬研掘に面している。現中央区東日本橋二丁目の辺りだ。ある時期の江戸古地図で見ると薬研堀の端に小さく柳橋の名が記されている。神田川に柳橋が架けられると、薬研堀のこの橋は元柳橋と呼ばれるようになったため米沢町の隅田川に沿った通りを元柳橋河岸という。この界隈は薬種問屋が多いことでも知られている。
そんな薬種屋の一軒、二階の窓から怪しい呻き声が漏れ聞こえてきた。
「う~ん……う~~~~ん……」
ここが戯作者見習い朽木思惟竹こと竹太郎の棲家である。一応実家からは独立しての一人住まい。とはいえ、未だ戯作では稼げないので、口では厳しく言うものの松兵衛が滞りがちな部屋賃を払ってやっているのを周りの者は皆知っている。その代わりに手数の要る時は目明しである父の捕り物の助っ人をしているというわけだ。
「入るぜ、キノコ……げ?」
その勝手知ったる竹太郎の住まい。久馬は薬種屋の独特の匂いが籠った店舗を突っ切って、階段を上がり、カラリと襖を開ける。
狭い四畳半は一面、散らばった半紙で埋まっていた。
キノコの姿は何処? 目を凝らすとその半紙の山の下から小粋な本多髷が見える。
「お、そこか、キノコ!」
引き起こしながら、久馬は真顔で訊いた。
「おめぇ、まさか書き損じの半紙で窒息しかけてたんじゃないだろうな?」
「うーん、うーん……俺はもうダメだぁ……やっぱり、ダメだああああ! 書けねぇ……どうしても書けねぇ……」
「ははぁ、例のフラれ侍の戯作か?」
遠慮なく久馬は呵々と笑う。
「案の定、書きあぐねて行き詰まってやがるな!」
ここで漸く我に返ったようで竹太郎は目を瞬いた。
「これはこれは――黒沼の旦那と山田様? またまたお二人揃って、今日はわっちの塒まで押しかけて一体何の騒ぎです?」
浅右衛門が丁寧に申し出る。
「竹さん、ここはあんたに訊くのが一番だと思ってね。前に言っていたフラれ侍について、今一度詳しく教えてくれないか? どうも、気にかかることがあって……」
竹太郎の顔がパッと輝いた。
「天下の首打ち人、山田浅右衛門様に頭を下げられるたぁ、この朽木思惟竹一生の名誉。ようがす、お話しいたしましょう!」
大きく頷いた後で、言葉を続ける。
「それにしても、山田様、すこぶる運がよろしいようで。というのも――」
竹太郎が言うには、昨日、大門前の五十間通りの茶屋から飛び出した後、竹太郎はやり方を変えたのだとか。
「遊女じゃあるまいしフラれ侍をただ〝待つ〟だけでは埒が明かねぇと気づきましたんでさ。それでわっちは足を使って調べまくったね」
「吉原の中をかい? そりゃ大変だったろう、竹さん?」
浅右衛門が吃驚して訊く。吉原の管轄は町奉行でも寺社奉行でもない。幕府は、代々その名を継ぐ長吏頭・浅草弾佐衛門なる人物に遊郭内の支配を委ねていた。その上、商売上、どの見世も顧客について口が堅い。
「何ね、そこはそれ、大した難儀はありませんでした」
尻端折りして、若い衆のふりをしてチョロチョロ駆け巡ったと竹太郎は軽く流す。
「その結果、フラれ侍が通っている見世が揚屋町の某廓だと、そこまでは探し出したんでさ。さあ、ここからが勝負さね、それでわっちはなけなしの金を……」
「おい! 廓に上がったのか? まともな働きもない半人前の分際でふてぇ野郎だ! 俺だって花魁なんぞ手を握ったことすらねぇってのに」
浅右衛門が遮る。
「落ち着け、久さん。そこは大事な部分じゃない」
「山田様の言う通りだ。最後まで聞いてくだせぇ、黒沼の旦那。わっちが金を渡したのは遊女は遊女でも元遊女。遣り手でさぁ」
「あ、遣り手か」
散らばった半紙の上に四角く座り直す久馬だった。
〈遣り手〉とは年季が明けた後も遊郭に残り働いている女たちのことである。大多数の遊女たちは(無事生き延びていたなら)遣り手になる。遣り手の仕事は遊女の警固や見張りだ。狼藉を働く悪い客から遊女の身を守るのと同時に、遊女自身が逃亡やズル休みといった悪さをしないか常に目を光らせていた。当然、懲罰も担当した。その他に、客からの口利きや仲介なども請け負ったのである。
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