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1巻
1-1
しおりを挟む〈一〉
――傘をお届けにまいりました!
――ありがとうございます。貴方様のお父様は本当に丁寧な良いお仕事をなさる。
今、お茶をお持ちします。どうぞ、ゆっくりしていってくださいませ。
ね、玄乃介様?
卍
「実は折り入ってお頼みしたいことがあるんです」
深川は菊川町の裏店。その風のよく通る座敷で、この家の主、常磐津の師匠・文字梅はこう切り出した。常磐津は当代人気の三味線の一流派である。
「ほう! お師匠さんの頼みとあっちゃあ無下にはできねぇ。聞こうじゃないか。言ってみねぇ」
即座に安請け合いしたのは南町定廻り同心・黒沼久馬だ。傍らの首打ち人――正式な役名は御様御用、山田浅右衛門も口を引き結んで静かに頷いた。
さて。同心と首打ち人が並んで座していることについて、少々説明が必要かもしれない。
そもそも罪人の首を打つのは町奉行所の駆け出し同心の仕事だった。とはいえ、江戸幕府が開かれ、既に二百有余年経っている。長く続く天下太平の世では、一度も刀を抜くことなく生涯を終える武士も多かった。そして一刀のもと首を斬り落とすのは生半可な技量ではできない。そこで、いつからか同心たちは斬首を山田家に依頼するようになった。
そうして自分の番が巡ってきた際、わざわざ浅右衛門のもとへ挨拶に行って、すっかり彼の技と人柄に惚れこんだのがこの黒沼久馬なのだ。以来、ことあるごとにまとわりついている。
尤も、当初、同心と首打ち人が連れ立って歩く姿を奇異に感じる江戸っ子は多かった。何しろ二人は背格好と年齢はほぼ同じだが見た目は甚だ違っている。久馬は剣の腕はからっきしながら、外見も中身も明朗闊達、粋な細作りの小銀杏髷と巻羽織がよく似合う、絵に描いたような同心だ。片や総髪、黒羽二重の浅右衛門は寡黙で、双眸に凄味がある。
「ホラ、俗に言う〝馬が合った〟というやつさ」
出会った頃、二人の関わりについて久馬が言及したことがある。
「一目で俺は悟ったね。浅さんこそ、無二の親友、まさに俺の名の通り、俺たちは〝久馬の友〟なのさ」
浅右衛門は即座に間違いを訂正した。
「久さん、それを言うなら〝竹馬の友〟だ」
「チェ、聞き流せよ。そのくらい知ってらぁ。洒落だよ洒落。それにさ、浅さんだって俺のことをコンコンチキって言ってるじゃないか」
「……ひょっとして、それは知己では?」
知己とは己を知る――漢語表現で親友の意である。指摘されて恥じ入るかと思いきや、久馬は胸を張って言ってのけた。
「まぁいいってことよ、気にするな。コンコンチキの狐だろうと、竹馬の馬だろうと、はたまた孤高の狼だろうと、俺は構やしねぇ。浅さんとならこんな風に毎日楽しい付き合いができるんだからよ」
「――」
自分と居て、楽しいと言ってくれる人が現れるとは……!
十二の歳から罪人の首を斬ってきた、陰では〈首斬り浅右衛門〉と恐れられる山田浅右衛門には信じられないことだった。
それから数年が経つ今、浅右衛門は思っている。自分も楽しいのだ、と。
実際、この型破りな同心に引っ張り回されている内に首打ち人は知り合いが増え、世間が広がった。そういうわけで――
定廻りと首打ち人が小粋な細格子造りの町屋に並んで座り、いかにも婀娜っぽい常磐津の師匠の頼み事を揃って聞いていても、なんの不思議もないのだ。
「頼みというのは他でもございません。弟の竹太郎のことなんですよ。最近、連日、吉原で見かけたと人伝に聞きました」
いえね、と文字梅は濃い緑のよろけ縞の袖を振る。帯は鳥の子色の流水紋、揺れる根付の水晶玉も涼しげな夏の装いだ。
「私も野暮は言いたかありませんし、自分の稼ぎで好き勝手するのに口を挟むつもりは毛頭ござんせん。ただ、弟はお二人もご存知の通り、目明しの父の仕事を引き継ぐでもなし、フラフラ遊び歩いている半人前の身。この上、吉原通いに耽るなんざぁ姉として、いやさ、人として許せませんのさ」
「――だから、人格者である俺と浅さんに連れ戻して説教してほしい、か」
翌朝。久馬と浅右衛門は文字梅の頼みに応えるべく問題の場所に向かっていた。
「そもそも未だまっとうなハナシ一つ書けたためしのない見習い戯作者のくせして、連日の北国通いとは羨ま……じゃない、ふてぇ野郎だ、キノコのヤツめ」
キノコとは文字梅の弟、竹太郎のことだ。筆名の朽木思惟竹から、久馬は面白がってこう呼んでいる。
言うまでもなく、二人が目指す吉原は、幕府公認の遊郭である。
元々は日本橋近くにあったのだが明暦の大火事(一六五七)後、浅草寺裏の日本堤下に移動した。それ故〈新吉原〉とも称される。総面積は現在の尺度に換算すると約七千平方メートルという。
新吉原への行き方は主に二通りあった。浅草寺の裏手から日本堤をひたすら歩く。でなければ、神田川沿いに並ぶ舟宿で猪牙船を仕立てて日本堤まで。その後は駕籠で大門へ続く坂を揺られていく。大店の旦那衆や富貴な粋人は後者を採った。勿論、定廻りと首打ち人の二人は徒歩である。昨夜の雨で洗い流されたような真っ青な空の下、燕がスイスイ二人を追い越していった。
「金をかければいいってもんじゃない。敵娼の顔を瞼に思い起こしながらテクテク歩くのこそ粋ってもんだ、なぁ浅さん?」
敵娼どころか、通ったことすらないくせに――などという意地悪は言わない浅右衛門だった。笑いを噛み殺して相槌を打つ。
「まったくさ。『野暮なこと 何処へおいでと 土手で云い』と言うからな」
これは日本堤を歩いている男は皆、吉原通いだと茶化している川柳だ。
「お、いいねぇ。俺だってその手の、吉原に纏わる句ならヤマほど知ってるぜ。例の見返り柳とかな……」
久馬が言っているのは日本堤近くにある柳のこと。後朝の朝、別れてきた花魁を思って振り返る辺りにちょうど植わっているから、こう呼ばれるのだ。
「まさに『もてたヤツ ばかり見返る 柳かな』だよな? わかるわかる、花魁に邪険にされたらとても見返りたいとは思わねぇからなぁ」
若い二人の足は速い。日本堤から緩やかに傾斜する衣紋坂を下り、茶屋の立ち並ぶ門前の五十間道を抜ける。
「チキショウメ! この辺り、道の名から何から艶っぽいや」
いちいち感心する久馬だった。衣紋坂は行き帰りで乱れた衣紋(着物)を整えるので付いた名だし、五十間道は大門までの最後の行程の距離を表している。まさに〈日本から 極楽僅か 五十間〉〈極楽と この世の間が 五十間〉だ。
遂に二人は乳鋲を打った厳めしい黒塗りの大門の前へ至った。と――
「いた! いやがった、 あそこだ! おいこら、キノコ!」
大門前の大通り、仲之町通りで早くもキノコこと筆名・朽木思惟竹、本名・竹太郎を発見。常磐津のお師匠文字梅の弟で御用聞き〈曲木の松〉松兵衛親分の息子である。
「面白くもねぇ! もっと中にいやがれってんだ! せっかくこの機会に吉原中じっくり見て回るつもりだったのによ」
「……久さん、心の声がダダ漏れだぞ」
久馬が嘆くのも無理はない。仲之町は前述したように吉原の真ん中をぶち抜いている目抜き通りだ。桜の季節には桜の木が植えられて、お江戸の花見の名所の一つになる。この時ばかりは女子供も通行自由で、人がどっと押し寄せて花見を楽しんだ。歌川国貞の〈北廓月の夜桜〉がその光景を巧みに描いている。また、今まさに久馬と浅右衛門が目にしている大門からの眺めは、歌川広重の〈名所江戸百景〉の一枚、〈廓中東雲〉が見事にその風情を現代に伝えていた。
「だから、誤解なんでさぁ! ったく姉貴ときたら早合点もいいとこだ」
とりあえず大門から引きずり出して収まった門前、五十間町の茶屋の座敷。同心と首打ち人の前で、竹太郎は憤って大きく首を振った。
「わっちが最近あそこへ入り浸ってるのには理由がある。戯作のためなんでさ。何としてもフラれ侍に会いたいと思いやしてね」
これには久馬も浅右衛門も鸚鵡返しに、
「フラれ侍?」
「あれれ? 黒沼の旦那も、山田様もご存知ない?」
では、この思惟竹がご説明いたしましょう、と自称戯作者は茶で喉を潤すと六弥太格子の袖をまくって話し始めた。
「東西、と~ざい!」
以下は竹太郎の語りである。
……ここ吉原で最近、〈フラれ侍〉というのが話題になっている。
このお武家、ある日、晴れだというのに傘を小脇に挟んでやって来た。吉原中を巡り、とある遊女を見初めて一軒の廓に上がり、帰る際、雨が降っているというのに傘を差さない。来た時同様、小脇に挟んで歩き出した。その姿を奇妙に思った店の男衆が、若様、何故、傘を差さないのかと問うと、侍はしとどに濡れながらこう言った。
『私は思いを遂げていない。だから、フラれていくさ』
「くーっ! 粋だねぇ! どうです、黒沼の旦那? 山田様? 己が恋した敵娼がシンから惚れてくれるまで傘は差さねぇというわけさね」
話し終えた竹太郎は威勢よく両手を打ち鳴らす。
「この話を聞いて、わっちは『これだ!』と思いましたね。このネタ、誰あろう、この朽木思惟竹が見事に名作に仕立ててみせる。だが、そのためには、ぜひ本人に会ってもう少し詳しく事のあらましを聞いてみたい――」
楽しみにしていた吉原探訪が露と消えた久馬は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん、それで吉原へ日参していたと?」
「で、フラれ侍には会えたのかい、竹さん?」
浅右衛門の問いに竹太郎は鯔背に結った本多髷に手をやって、大きく息を吐く。
「いえ、それがまだなんで。だからこうして通い続けているんでさぁ。それも万が一にも見逃さないよう大門前で見張っていたわけでして」
「黒沼の旦那! 大変だ!」
ここで飛び込んできたのは久間の父の代からの目明し、〈曲木の松〉こと松兵衛親分。お江戸八百八町を走り回っており、何処にいても久馬を必ず見つけてこういう図になる。ちなみに、曲木は〝柱にゃならない〟……いつ何時も〝走らにゃならない〟松親分……という洒落から付いた江戸っ子好みの綽名だ。
「おっと、山田様もご一緒で。ほんにお神酒徳利、お仲のよろしいこって――と、あ! てめぇ、竹? ここで会ったが百年目! お梅に聞いたぞ、スネ齧りの分際で吉原に通い詰めだそうだな? 一体どんな了見で――」
「いけねぇ、親父だ。相手をすると長くなる。じゃ、わっちはこれにて――」
「あ、逃げるか、待ちやがれ!」
久馬が割って入る。
「まぁまぁ、松親分、それより何でぇ? 事件かい?」
「あンの野郎、逃げ足だけは速えな。誰に似やがった――」
歯噛みした後で我に返った曲木の松、クルリと向き直った。
「そうでやした。殺しです。見事にスパッとやられた死体がめっかったんでさ」
場所は柳橋の川岸だという。
「何? 柳橋だ? ちょうどいいや、新吉原なら土手八丁から山谷船が通ってる。飛び乗って行こうや、さあ、浅さん!」
「う、うむ……」
例のごとく、浅右衛門を急き立てて松兵衛の先導のもと久馬は現場に急行した。
〈二〉
殺しのあったという柳橋から浅草橋界隈は神田川の岸辺に当たり、舟宿が軒を連ねている。大店の主や富貴な粋人はここから舟を仕立てた。神田川から大川(隅田川)へ漕ぎ出し上流へ上って山谷堀に入り、日本堤の土手で舟を下りて駕籠で吉原を目指すのだ。駕籠に乗り換えるのは風情を求めるためばかりではない。山谷堀は大川との合流地点こそ広いが、そこから先は急激に狭くなっていて舟ではこれ以上遡れないからだ。今、久馬と浅右衛門は吉原詣での逆の道筋を辿っていた。
「やっぱり猪牙舟は速えや! なあ浅さん!」
猪牙舟は櫓が後ろにある伝馬船でお江戸最速の船である。山谷堀から柳橋の舟宿まで一艘百四十八文。これが屋根船となると倍の三百文になる。
昨夜の雨を集めて大川がキラキラ輝いていた。あっという間に柳橋に着く。
櫓から竿に持ち替えた船頭が見事な竿さばきで船を桟橋に寄せる。そのすぐ近く、船宿と船宿の間の空き地で物見高い江戸っ子たちが屍骸を囲んでいた。松兵衛は人垣をちゃっちゃと割って進む。
「はい、道を開けた、開けた――同心様がお着きだぜ」
筵を剥いで開口一番、久馬が訊いた。
「身元は?」
「まだわからないんです」
「ふむ? ぐっしょり濡れてるな? ということはやられたのは昨日の夜半か……」
思い出して久馬が言う。
「昨夜はずっと雨だったからな」
死体を検めながら更に続ける。
「下馬を着てるとこをみると、こりゃ遊び人だな」
下馬は襦袢代わりに着る浴衣の一種でやくざ者が好んだ。堅気の人間はこういう着方はしなかった。
「そういやあ、この前の殺し――三日前に浅草寺裏の田んぼでめっかったアレもまだ身元がわからないままだったな、親分?」
「へえ、面目ねぇこって」
松兵衛は半白の鬢をしきりに掻きつつ、
「あっちは身なりが上等な羽振りの良い町人風だったんで、サクッと身元が割れるかと思ったんですがね。身内がいないのか、いまだに名乗り出てくる者がいねぇ」
「あれも、死体が濡れてたなぁ?」
「そうでした。でも、そのこと自体はフシギじゃありませんや。走り梅雨ってやつで、ここんところ雨の日が多いですからねぇ。特に夜半は」
浅右衛門が周辺の草叢を歩き回っているのに気づいて、久馬が声をかける。
「どうした、浅さん?」
「いや何、さっきの竹さんの話のせいかな」
首打ち人はボソリと呟いた。
「傘が何処かに転がってないかと、ふと気になって――」
「あ、そうか!」
浅右衛門の疑問を久馬が引き継ぐ。
「雨の夜に襲われたなら、そこらへんに傘が落ちてて当然だものな」
「十中八九ありやせんよ」
即座に首を振る老親分。
「おい、そりゃどういう意味だ、松?」
「へぇ。傘が道に落ちてたら、通りかかった者が拾って帰るでしょうからねえ」
そう言って、やや皮肉っぽく言い添える。
「関わりたくねぇから死体は見てみぬふりをしてもね」
松兵衛の言葉に久馬も浅右衛門も首を傾げた。それに気づいて松兵衛が早口に説明する。
「黒沼の旦那も山田様もピンと来ないかもしれやせんが傘は新品なら二百文から三百文はしやす。庶民には高根の花でさぁ。その証拠に、越後屋で着物を誂える連中でさえ傘は返さないんですから」
江戸一の呉服屋である越後屋は、宣伝も兼ねて雨の日の来店客に屋号を入れた傘を貸し出している。それを返却せずにそのまま使い倒す人が多かった。川柳に残る〈古傘に いつも越後が 二、三本〉はこれを言っている。
「……ふーん、そういうわけか」
「さいで。町人ならさほど悪気なく落ちてた傘を拾いやす」
「だがよ」
久馬が視線を死体に戻した。
「持ち主がこんな風にザックリやられてるんだぜ。傘だってブチ壊れてるか血潮が飛んでいて綺麗なまんまのはずはない。そんな傘なら、いらねぇだろう?」
松兵衛は優しく微笑んだ。
「いえいえ、骨が折れていようと、血まみれだろうとかまやしません――そのために古傘買いがいるわけで」
お江戸は究極の再利用都市だったのだ。
古くなった傘を下取りする〈古傘買い〉が始終市中を巡っていて、古傘は一本四文から十二文で買い取られた。回収された傘は古傘問屋へ集められ、ここから更に傘張り替え業者へ回される。折れた骨木を入れ替え、破れたり汚れている和紙は張り替えるのだ。この剥がした和紙の方も包み紙に再利用されたというから徹底している。
「へー! なるほどねえ! 俺は気づかなかったが傘ってやつはありがたくて価値のある代物なんだな。尤も、俺は傘は嫌いだ。だから持ったためしはないがよ」
「さすが黒沼の坊! 見上げたお心掛けで!」
すかさず褒めちぎる曲木の松。
「これぞ同心の鑑! 傘を持ってたんじゃあ、いざっていう時、刀が抜けやせんからね。お侍はそうでなくっちゃあ」
「え? 違うよ、雨に濡れてる方が俺は絵になるからさ。これぞ、水も滴る良い男ってね。なあ、浅さん!」
これには苦笑するしかない浅右衛門だった。
その夜。竹太郎の吉原通いの真相を引っ提げて二人は文字梅の家を訪れた。感謝の手料理でもてなされたのは言うまでもない。
「本当にお世話をおかけしました、黒沼の旦那様、山田様。戯作のためと聞いて私も安心いたしました。どうぞ、何もありませんがゆっくりしていっておくんなさい」
「芝海老の乾し煎り、きんぴら、ほう! 渦巻豆腐とは気合が入ってるな、文字梅!」
「フフフ、旦那の好物の卵ふわふわも、ちゃあんと用意してござんす」
しかし、賑やかに並んだ皿を前に、いつにも増して口数の少ない浅右衛門に久馬は気づいた。
「なんだい、浅さん。何が一体そんなに気になるんだ? 今日の殺しの件か?」
「それもある。久さん、今日の仏、ありゃあ、かなりの手練れの仕業だぞ。肩口から一刀両断。微塵も迷いのない剣だ」
「やはりそうか。三日前の浅草寺裏のソレも俺が検視したんだが――あっちも、俺の目から見ても鮮やかな斬り口だった」
南町奉行所配下の定廻り同心・黒沼久馬の剣術が全く冴えないのは、本人も自覚しているところである。
「尤も、剣はヘッポコでも俺には推理の才がある。三日前のは身なりの良い小金持ちを狙った追剥ぎの仕業で、今日のはやくざ者同士の喧嘩というのが俺の結論さ」
「雨の夜に斬られた身元不明の二つの死体ですか? おお、怖い」
剥身を交ぜた切干大根の小鉢と燗徳利を持って戻ってきた文字梅が、ブルッと肩を震わせる。
「ほっといて大丈夫なんですか? 今また、雨が酷く降ってきましたよ。お二人ともお帰りは十分お気をつけくださいまし」
「アハハハ、俺たちが襲われるかよ。天下の定廻りと首打ち人だぞ。とはいえ――雨中の殺しが二度も続くと流石にいやぁな気分だぜ」
久馬は咳払いをした。
「言うまでもなく、俺としてもこのまま見過ごすつもりはない。二人の身元――いやさ、どっちか一人でもいい。何処の誰か、一日でも早くはっきりさせたい。そこでだ、ぜひ力を貸してくれないか、浅さん? 俺にはあんたの助けが必要だ」
率直で明朗な協力要請に浅右衛門は噴き出す。
「久さん、頼りにしてもらうのは光栄だが、俺も今回ばかりは〝腕の立つ人物に斬られた〟ということ以外はわからない。特別気にかかる点も見当たらなかったし……」
自分が拘っている理由は、と浅右衛門は明かした。
「実はな、今日、松兵衛親分に傘の話を聞いて――耳が痛かったよ。何故って、俺は今の今まで傘の事情について全くの無知同然だったからさ」
首打ち人は心から恥じ入っている。その様子を見て久馬はクスッと笑い、浅右衛門の盃になみなみと酒を注いだ。
「そういうところがいかにも浅さんだな! よろず目利きは伊達じゃないや!」
山田家の斬首請負は副業にすぎない。本職は刀剣鑑定である。だが、専門の刀剣だけではなく、未知のモノはなんでも知ろうとするあくなき探求心がこの男にはある。わからないことに出会ったら徹底的に追求せずにはいられないのだ。こういうところが凄い、と久馬は思う。そうやって蓄積した知識が、他人を見下す尊大な態度や驕慢にならず、あの優しい静かな眼差しになるから不思議だ。
手酌した酒を喉を鳴らして飲み干すと、久馬は言った。
「そうか、浅さんは傘について興味がある、もっと知りたいというのだな。そういうことなら――どうだい、明日、一緒に照降町へ行ってみねぇか?」
素晴らしい笑顔を友に向けて続ける。
「俺もよ、今、気づいたんだが、ひょっとして今回の〈雨の夜の殺し〉に繋がる血染めの傘なんぞが、あの町でならひょっこりめっかるかもしれねぇからよ」
浅右衛門はゆっくりと顔を上げた。
「照降町か……」
〈三〉
照降町は大伝馬町の南、堀江町三、四丁目の辺り――
日本橋北詰から江戸橋方向へ進むと荒布橋というのに突き当たる。ここを渡って親父橋に至るまでの通りについた名だ。傘屋や、下駄、雪駄などの履物屋の店が並んでいる。
〈一町で 雨を泣いたり 笑ったり〉
雨が降れば傘屋が喜び、晴れてお天道様が照れば履物屋が喜ぶ。そのことを江戸っ子が面白がってつけた町名だ。元々は寛永三年頃、一軒の店が当時珍しかった傘と千利休の用いた庭下駄を売り出したら人気になり、同業者がどっと後に続いたのが始まりらしい。
「久さん、昨夜、お師匠さんの家から帰って、俺も家にある書物を漁って傘について多少は調べてみたんだが」
照降町への途上、魚河岸を歩きながら浅右衛門が言う。この日本橋から江戸橋の間の河岸、日本橋側の北岸は魚市場になっており朝はたいそう賑わう。ちなみにこの頃の江戸には〈一日千両〉と称された場所が三つあった。一日でそれだけの金が動くという意味だが、魚河岸は朝千両、歌舞伎小屋は昼千両、そして昨日、久馬と浅右衛門が足を運んだ吉原が夜千両である。
その魚河岸には、薄曇りの今日も大量の魚介類が荷揚げされ、威勢の良い取引の声が響いている。
「あの後? ふぇー、浅さんは書物を調べたのか? 俺は、昨夜は文字梅の美味い手料理と良い酒を飲んで、ぐっすり寝たよ」
「傘はその昔、仏教や漢字などと同じ頃に中国より伝来したそうだ。とはいえ平安の絵巻物にある傘は今の傘じゃなくて天蓋――貴人や偉い僧侶に差しかける日除けや魔除け、そして権威の象徴だった」
眠そうに目を擦っている同心に、首打ち人がいきなり訊いた。
「久さん、その時代の傘と今の傘の違いは何だと思うね?」
「え? え? そりゃあ、えーと……」
「閉じられるかどうか、さ」
傘の開閉ができるようになったのは安土桃山の世からなのだと浅右衛門は教える。
「その後、傘は度々改良が加えられた。聞いてるかい、久さん?」
「おうよ、聞いてるともっ!」
「萬里亭寥和撰の《俳諧職人尽》にも傘職人の句が載っていた。なかなかいい句もあったぞ。聞きたいかい、久さん?」
「え? あ、も、勿論だ」
「萬里亭本人の『五月雨や 雲かたづくや 日傘張り』、その他傘職人では『傘張りや 菜の花にまで 良い日向』……」
自らも和水の号を持つ浅右衛門。自然、和歌や俳句に心魅かれるようだ。
「『傘張りの 眠り胡蝶の やどりかな』『傘張りや かがりも錦 ふゆもみじ』なんてぇのは優美だな! 『あぶら引き 傘の匂いや 草いきれ』……これは傘づくりの工程を巧みに読み込んでいる」
「ふぁ~~~ぁ」
遂に大あくびをして久馬は本音を漏らす。
「俺ぁ、やっぱし傘職人より吉原関係の艶っぽい句の方がいいや!」
そうこうするうちに荒布橋を二人は渡っていた。
「さあ、着いた! ここが照降町だぜ!」
周囲を見回して久馬が訊く。
「さて、これからどうする? 傘関係の店を一軒ずつ廻るかい?」
と、浅右衛門がスタスタと道の向こう側へ渡っていくではないか。その先にはしゃがみ込んで蠢いている子供たちの姿が見える。
「いもむしごろごろーーひょうたんぽっくりこーーーーー」
近寄ると浅右衛門は声をかけた。
「みんな、せっかくの虫行列の道中に申し訳ない。チョット教えてくれないか? この辺りで一番新しい傘屋は何処だろう?」
〈芋虫ごろごろ〉に興じていた子供たちが顔を上げ、可愛らしい声が返ってきた。
「それなら、あそこ、日喜屋さんだよ、お侍さん!」
「日喜屋さんの傘は〝下り物〟だからそりゃ人気だぜ!」
下り物とは上方から来た物品のことだ。江戸っ子はやたら上方のものをありがたがった。一方、上方伝来でないものはありがたくない、〝くだらないもの〟だ。
「辰巳芸者の綺麗処も買いに来るってお父っつぁんが言ってた!」
「日喜屋さんか、ありがとう」
「へぇー、俺はてっきり一番の老舗が何処か訊くかと思ったがよ」
しきりに感心する同心に首打ち人は微笑んで言う。
「いや、新しい店の方が柵がなくて、噂話も含め色々訊きやすいかと思ったまでさ」
「これはこれは! 日喜屋へようこそおいでやす!」
暖簾を潜った途端、久馬の巻羽織を目ざとく見つけて大番頭が走り寄って来た。
間口三間、堂々たる店構えである。
「同心様! ご妻女あるいは大切な御方への贈り物どすか?」
揉み手する大番頭に久馬の笑顔が弾ける。
「よくわかったな、まぁ、そんなところだ」
「まったく! こんな男前な同心様にお心を寄せられるとは、なんとお幸せな女子はんどっしゃろ! どうどす、これなど? 上方より取り寄せたばかりの最新の傘でございます」
「おお! こりゃ凄い! こんな傘は初めて見た。綺麗だなぁ……!」
思わず声を上げる久馬。
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