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白殺し
12*完結
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派手に書きなぐられた瓦版とは裏腹に晴れてお構いなしの身となった藍染師・秀の出獄風景はひっそりしていた。迎えに来たのは許嫁の紺屋の娘あい一人だけ。これ以上世間の目に晒されるのを嫌ったのかもしれない。
小伝馬町牢屋敷の玄関から出て来た秀は左右を固める牢番に丁寧にお辞儀をした。遠く門の側に真っ赤に泣きはらした目のあいが立っている。
「よかった……ほんとによかった……秀さん」
「心配をさせて申し訳ねぇ。俺が早合点したばっかりに、親方にも、仲間にもとんだ迷惑をかけちまった――」
「ううん、わ、私こそ馬鹿な真似をして……秀さん――」
後はもう言葉にならない。胸に飛びついて泣きじゃくる娘。その肩を抱いて秀はゆっくりと歩きだした。
好いた者同士の過ち、行き違い、激情、だが今、嵐は過ぎ去った。庇いながら支えながら一歩づつ新しい明日へ向かうのだ。
だがここで、刃風――秀の背に斬り下ろされる一刀。
キンッ
飛び込んで抜き放った浅右衛門の刃に弾かれる。一旦退くかと思われた襲撃者は再び振りかぶって大上段から斬り込んで来た。
間髪の差で身を躱した浅右衛門、斬り下げた相手のその鍔の上にピタリと刃を重ねる。二つの鋩は地を指したまま、ゆっくりと沈んで――
ガクリ、襲撃者が膝を折る。
血は一滴も流れていない。襲われた秀も、襲った輩も、何処も斬られてはいない。
「勝負あり! それまでっ」
声が響いた。巻き羽織の南町奉行所配下、同心黒沼久馬が朱房の十手を翳してズイッと踏み込んだ。
「やはり、現れたか。張っていて良かったぜ。よもやと思ったが――浅さんの推測どおりだったな」
首打ち人浅右衛門の刀は既に鞘の中に戻っている。久馬はまず尻もちを突いた秀と寄り添う娘に頷いてから、襲撃者に顔を向けた。
「決着は未だ着いちゃあいねぇや! キノコ流に言うなら〝未だ書かれちゃいねぇ〟のよ。第一、このまま終わったら殺された代奴が浮かばれねぇだろ? キチンと白黒つけてやらねぇことには。なぁ、桜川粗肴さんよ?」
地面に落ちた自分の差料はそのままに、正座をして粗肴は答えた。
「こっちだって終われません。自分一人が不幸せで幕を閉じられるものか。藍染師を斬って、それから腹を斬ろうと思ったのに……」
喉を湿らせてから、太鼓持ちは語りだす。
「二十六夜待ちのあの日、秀に言伝を持って行ってくれとせがむ代奴に私は諭したのさ。秀と紺屋の娘の仲は本物だ。もういい加減、諦めて私と所帯持とうと。二人仲良く稼ごうじゃないか」
幇間と芸妓が夫婦になるのは許されている。この業界ではよくあることだった。だが、代奴は即座に首を振った。思わず抱きしめた粗肴を突き飛ばすと抜き取った簪を喉に当てた。
「私の喉じゃないよ。自分の喉さ」
クスンと粗肴は鼻を鳴らす。
「これが辰巳の気風さね。こうやって筋を通して来た。芸は売るが色は売らない。真に愛した男以外肌を許さないってね。私だって知っている。何度もそういう粋な場面を目にして来た。とはいえ、自分がやられるとカーッときちまった。こうまで厭われているかと頭の中が真っ白になって……気づいたら代奴は畳に倒れて死んでいた。首を簪で差し抜かれて。勿論、私が殺ったのさ」
「それさ」
浅右衛門が頷く。
「刺し傷が鋭すぎた。粗肴さん、あんた元は武士だろう? 歩き方は隠せない。これは最初に会った時、去って行く姿を見て気づいていたが」
静かな声で浅右衛門は訊ねた。
「それにしても見事な腕だ。よほど鍛錬なさったでしょう?」
嬉しそうに粗肴は微笑む。
「しましたよ。お玉が池の道場の一番になりたくて。でも、叶いませんでした。何処の世界にも上には上がいる。落胆して、放蕩に走り、親からは勘当され、暫くはなんでもやりました。用心棒から寄席の下足番、船宿の使い走り……」
「そこに船頭も含まれていた?」
定廻りの問いに頷く太鼓持ち。
「まぁね」
「それでか! 船は巧みだし道場近辺の神田一帯に土地勘もある。代奴が文を託すには持って来いだ」
座興話のごとく滑らかに粗肴は先を続けた。
「結局、放蕩で馴染んだこっちの世界も悪くないと桜川一門に厄介になることになりました。それなりに器用な質と見え、名を上げたんだが、やっぱし一番とはいかなかった。吉原から出張った深川で芸妓に惚れて目が醒めました。この女と一緒ならもう順位なんぞに拘らずに生きて行けると思いましたね」
ツルリと頭を撫でて、
「ところがどっこい、惚れた女には一番がいた。これがこの話の〝落ち〟です。ほらね? やっぱり私はそこそこなんで。粗肴の名はそこそこの其処。剣も芸も女も……」
それは全て二十六夜待ちの夕方から始まったのだ。
一度置屋へ帰った妹芸者豆吉が耳にした代奴の部屋から聞こえた掃除の音は、殺しの跡を拭き清める音だった。清掃後、代奴に羽織を着せ酔いつぶれたように肩を抱いて小舟に乗せる。前述通り器用な粗肴は舟も操れた。柳原土手の吾妻橋の下で舟に遺体を隠したまま、まずは紺屋へ赴き言伝を渡す。再び土手の稲森稲荷近くの闇に隠れて待ち、やって来る秀の姿を認めてから代奴を地面に置いた。秀がこと切れた代奴を見つけて呆然となっている、まさにその時、声を上げたのだ。
「『人殺し!』とおまえは叫んだ。あたかもその瞬間、現場を目撃した如くに。すると声に誘われ群がった連中から釣られたように彼方此方で声が上がったというわけか。『人殺し!』『人殺しだ!』『人殺しがいる!』……」
ここでキッと顔を上げ胸を張って粗肴は久馬の言葉を遮った。
「あちこちからは上がっていません。あれは全部私です。忘れてもらっちゃあ困る。この桜川粗肴、一番の芸は声色。七つの声を操ります」
後日。陽が落ちた柳原土手を久馬と浅右衛門は歩いていた。
「櫛のことは、粗肴は全く気づいていなかったそうだぜ、浅さん。凶器の簪は秀に罪を擦り付けるべく、それらしく代奴の死体の傍に置いたそうだが。地面に横たえた時、抜け落ちたかねぇ」
そこまで言って久馬は眉を寄せた。
「ん? 何を考えてんだい、浅さん? そんな難しい顔をして」
「不思議だな、と思ってさ」
浅右衛門は土手下を流れる水をじっと見つめている。
「もしあの時、秀が櫛を持って逃げなかったら……稲森稲荷の前で捕まっていたら、どんなに『自分は殺っていない』と抗弁しても誰も本気にしなかったに違いない。そういうのはあまりにもありふれたよくある光景だからな。結果的に櫛を持って走った突拍子もない行為のせいで久さんにも奇妙に思われ、しつこく調べてもらえた。つまりさ――」
ボソリと言う。
「情が濃い代奴が護ってやったのかねぇ」
「俺はさ」
しんみりと呟く久馬。
「他の女に贈った櫛とわかっていて、でも、身に着けていた代奴の心が、なんていうか、悲しいや」
遣る瀬無いと言う風に久馬は大きく首を振る。
「あ~あ、つくづく自分が愛染明王でなくって良かったよ。老若男女、散々に悲痛な恋心を聞かされてよ、あっちからもこっちからも恋の成就をせがまれる。だから藍染明王は湯気が出るくらい真っ赤なんだぜ。俺なら絶対身が持たねぇ」
「いかにも久さんらしい考え方だ」
「チキショウメ、これから俺は毎年二十六夜月を見るたんびに代奴の眉を思い出しそうだ」
定廻りが懐手をして見上げた空の月はふっくらと満月に近い。柳の葉を涼風が吹き過ぎて江戸の町はもうスッキリと秋である。
白殺し ―― 了 ――
小伝馬町牢屋敷の玄関から出て来た秀は左右を固める牢番に丁寧にお辞儀をした。遠く門の側に真っ赤に泣きはらした目のあいが立っている。
「よかった……ほんとによかった……秀さん」
「心配をさせて申し訳ねぇ。俺が早合点したばっかりに、親方にも、仲間にもとんだ迷惑をかけちまった――」
「ううん、わ、私こそ馬鹿な真似をして……秀さん――」
後はもう言葉にならない。胸に飛びついて泣きじゃくる娘。その肩を抱いて秀はゆっくりと歩きだした。
好いた者同士の過ち、行き違い、激情、だが今、嵐は過ぎ去った。庇いながら支えながら一歩づつ新しい明日へ向かうのだ。
だがここで、刃風――秀の背に斬り下ろされる一刀。
キンッ
飛び込んで抜き放った浅右衛門の刃に弾かれる。一旦退くかと思われた襲撃者は再び振りかぶって大上段から斬り込んで来た。
間髪の差で身を躱した浅右衛門、斬り下げた相手のその鍔の上にピタリと刃を重ねる。二つの鋩は地を指したまま、ゆっくりと沈んで――
ガクリ、襲撃者が膝を折る。
血は一滴も流れていない。襲われた秀も、襲った輩も、何処も斬られてはいない。
「勝負あり! それまでっ」
声が響いた。巻き羽織の南町奉行所配下、同心黒沼久馬が朱房の十手を翳してズイッと踏み込んだ。
「やはり、現れたか。張っていて良かったぜ。よもやと思ったが――浅さんの推測どおりだったな」
首打ち人浅右衛門の刀は既に鞘の中に戻っている。久馬はまず尻もちを突いた秀と寄り添う娘に頷いてから、襲撃者に顔を向けた。
「決着は未だ着いちゃあいねぇや! キノコ流に言うなら〝未だ書かれちゃいねぇ〟のよ。第一、このまま終わったら殺された代奴が浮かばれねぇだろ? キチンと白黒つけてやらねぇことには。なぁ、桜川粗肴さんよ?」
地面に落ちた自分の差料はそのままに、正座をして粗肴は答えた。
「こっちだって終われません。自分一人が不幸せで幕を閉じられるものか。藍染師を斬って、それから腹を斬ろうと思ったのに……」
喉を湿らせてから、太鼓持ちは語りだす。
「二十六夜待ちのあの日、秀に言伝を持って行ってくれとせがむ代奴に私は諭したのさ。秀と紺屋の娘の仲は本物だ。もういい加減、諦めて私と所帯持とうと。二人仲良く稼ごうじゃないか」
幇間と芸妓が夫婦になるのは許されている。この業界ではよくあることだった。だが、代奴は即座に首を振った。思わず抱きしめた粗肴を突き飛ばすと抜き取った簪を喉に当てた。
「私の喉じゃないよ。自分の喉さ」
クスンと粗肴は鼻を鳴らす。
「これが辰巳の気風さね。こうやって筋を通して来た。芸は売るが色は売らない。真に愛した男以外肌を許さないってね。私だって知っている。何度もそういう粋な場面を目にして来た。とはいえ、自分がやられるとカーッときちまった。こうまで厭われているかと頭の中が真っ白になって……気づいたら代奴は畳に倒れて死んでいた。首を簪で差し抜かれて。勿論、私が殺ったのさ」
「それさ」
浅右衛門が頷く。
「刺し傷が鋭すぎた。粗肴さん、あんた元は武士だろう? 歩き方は隠せない。これは最初に会った時、去って行く姿を見て気づいていたが」
静かな声で浅右衛門は訊ねた。
「それにしても見事な腕だ。よほど鍛錬なさったでしょう?」
嬉しそうに粗肴は微笑む。
「しましたよ。お玉が池の道場の一番になりたくて。でも、叶いませんでした。何処の世界にも上には上がいる。落胆して、放蕩に走り、親からは勘当され、暫くはなんでもやりました。用心棒から寄席の下足番、船宿の使い走り……」
「そこに船頭も含まれていた?」
定廻りの問いに頷く太鼓持ち。
「まぁね」
「それでか! 船は巧みだし道場近辺の神田一帯に土地勘もある。代奴が文を託すには持って来いだ」
座興話のごとく滑らかに粗肴は先を続けた。
「結局、放蕩で馴染んだこっちの世界も悪くないと桜川一門に厄介になることになりました。それなりに器用な質と見え、名を上げたんだが、やっぱし一番とはいかなかった。吉原から出張った深川で芸妓に惚れて目が醒めました。この女と一緒ならもう順位なんぞに拘らずに生きて行けると思いましたね」
ツルリと頭を撫でて、
「ところがどっこい、惚れた女には一番がいた。これがこの話の〝落ち〟です。ほらね? やっぱり私はそこそこなんで。粗肴の名はそこそこの其処。剣も芸も女も……」
それは全て二十六夜待ちの夕方から始まったのだ。
一度置屋へ帰った妹芸者豆吉が耳にした代奴の部屋から聞こえた掃除の音は、殺しの跡を拭き清める音だった。清掃後、代奴に羽織を着せ酔いつぶれたように肩を抱いて小舟に乗せる。前述通り器用な粗肴は舟も操れた。柳原土手の吾妻橋の下で舟に遺体を隠したまま、まずは紺屋へ赴き言伝を渡す。再び土手の稲森稲荷近くの闇に隠れて待ち、やって来る秀の姿を認めてから代奴を地面に置いた。秀がこと切れた代奴を見つけて呆然となっている、まさにその時、声を上げたのだ。
「『人殺し!』とおまえは叫んだ。あたかもその瞬間、現場を目撃した如くに。すると声に誘われ群がった連中から釣られたように彼方此方で声が上がったというわけか。『人殺し!』『人殺しだ!』『人殺しがいる!』……」
ここでキッと顔を上げ胸を張って粗肴は久馬の言葉を遮った。
「あちこちからは上がっていません。あれは全部私です。忘れてもらっちゃあ困る。この桜川粗肴、一番の芸は声色。七つの声を操ります」
後日。陽が落ちた柳原土手を久馬と浅右衛門は歩いていた。
「櫛のことは、粗肴は全く気づいていなかったそうだぜ、浅さん。凶器の簪は秀に罪を擦り付けるべく、それらしく代奴の死体の傍に置いたそうだが。地面に横たえた時、抜け落ちたかねぇ」
そこまで言って久馬は眉を寄せた。
「ん? 何を考えてんだい、浅さん? そんな難しい顔をして」
「不思議だな、と思ってさ」
浅右衛門は土手下を流れる水をじっと見つめている。
「もしあの時、秀が櫛を持って逃げなかったら……稲森稲荷の前で捕まっていたら、どんなに『自分は殺っていない』と抗弁しても誰も本気にしなかったに違いない。そういうのはあまりにもありふれたよくある光景だからな。結果的に櫛を持って走った突拍子もない行為のせいで久さんにも奇妙に思われ、しつこく調べてもらえた。つまりさ――」
ボソリと言う。
「情が濃い代奴が護ってやったのかねぇ」
「俺はさ」
しんみりと呟く久馬。
「他の女に贈った櫛とわかっていて、でも、身に着けていた代奴の心が、なんていうか、悲しいや」
遣る瀬無いと言う風に久馬は大きく首を振る。
「あ~あ、つくづく自分が愛染明王でなくって良かったよ。老若男女、散々に悲痛な恋心を聞かされてよ、あっちからもこっちからも恋の成就をせがまれる。だから藍染明王は湯気が出るくらい真っ赤なんだぜ。俺なら絶対身が持たねぇ」
「いかにも久さんらしい考え方だ」
「チキショウメ、これから俺は毎年二十六夜月を見るたんびに代奴の眉を思い出しそうだ」
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