フラれ侍 定廻り同心と首打ち人の捕り物控

sanpo

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白殺し

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 一度ならず二度までも代奴に会いに行ったと明かした紺屋の娘。流石に父親のみならず久馬たちも吃驚した。

「では、聞くが、あい、最初に会いに行ったのは何のためだ?」
「その時は、秀さんにまとわりつくのをやめてほしいとお願いするためです。秀さんのこと諦めてくれって代奴さんに私きっぱりと言いました」

      卍

「私に、秀を諦めろと、あんたは言うのかい? 笑わせてくれるじゃないか」
 今を時めく深川芸者、代奴は喉を振るわせて笑った。置屋近くで座敷帰りを捕まえ大切な話があると言うと連れて来てくれた料理屋の二階の小座敷。窓に座って眺めていた小名木川から目を上げる。
「そりゃ私の台詞だよ。私と秀さんはあんたなんかよりずーっと長い付き合いなんだ。お嬢さん、あんたこそ、横からしゃしゃり出て掻っ攫うような真似はやめとくれ」
「そんな……ご存知と思いますが秀さんと私は正式に夫婦になると約束した間柄です。年が明けたら私たち祝言をあげます」
 あいも負けていなかった。
「代奴さんは秀さんとは幼馴染だそうですが、それは昔のこと。いつまでもそんな古い話をされたって困ります。これ以上、秀さんに迷惑をかけるのはやめてください。秀さん、凄く嫌がっています」
 首を伸ばして言い切った。
「秀さんが愛してくれているのは私だけです」
「なっ……イケシャアシャアと何を言い出すんだよ、この子は。世間知らずのお嬢さんはこれだからかなわない」
 あいは前髪に手をやった。抜き取った櫛を辰巳芸者の顔の前にツッと突き出す。梅の花が彫られた美しい黄楊つげの櫛。
「これ、秀さんからもらったんです。おまえにいっち似合うのを捜したって、手渡してくれました。あの青い手を私、一生忘れません。代奴さんにはそんな思い出ないんでしょう?」
「――」
「これでわかっていただけましたか? 張りと気風が売りの代奴さんなら、秀さんのことはきっぱりと諦めて身を引いて下さい――あ!」
 白い手が閃いて代奴が櫛を奪い取った。
「なんだいこんなもの!」
「なにをするの、返して!」
「畜生! たかがこんな櫛一つ、なんだっていうんだい? 見せびらかしやがって、この泥棒猫!」
 あいが立ち上がった。奪い返されるかと身を固くした代奴を残してスタスタと歩き出す。
「いいわ。それ、差し上げます。秀さんのくれた櫛がそんなに欲しいんなら――」
「な、なんだって?」
 襖に手を掛ける。振り返ってあいはとびきりの笑顔で言った。
「たかが櫛一つ、その通りよ。私はまた秀さんに買ってもらうから! この先いくらでも買ってもらえるんだから!」

     卍

「あの時、私はカッとなって言ってしまった……」
 両手で顔を覆ってあいは言う。
「でも、家に戻ってすぐ後悔しました。だって、やっぱりあれは私のもの。秀さんにもらった大切な櫛です」
「それで、二十六夜待ちの夜、返してもらおうと置屋まで尋ねて行ったというんだな?」
 腕を組んで大きく頷く久馬。
「だが、代奴は不在で、会えないまま帰ったと。ところでおまえは歩いて帰ったのか?」
「はい。二十六夜待ちの日だったので人出も多く夜道も怖くはなかった」
「そうは言うが若い娘が伴も連れずに歩くには結構な距離だ。舟には乗らなかったのかい?」
 これは至極まっとうな問いだ。久馬たちもそうだったが深川なら柳橋から舟を使う方が早いし楽だ。一度目を逸らせてからあいは再び同心を見つめる。
「誰か――知ってる人にも知らない人にも見られるのが嫌で、だから行きも帰りもひとりで歩きました」
 息もつかずに言葉を継いだ。
「私、代奴さんに酷いことを言いました。今になってわかる、恋した人と会えないことがどんなにつらいか。でも、あの場では、一歩も引けなかった。代奴さんは人気の芸妓です。実際目の当たりにすると震えが来るくらい綺麗で粋で、私みたいな小娘、勝てっこないとわかりました。だからって、絶対秀さんは渡したくない。私だって死にもの狂いだった」
 暫くあいは黙りこんだ。
「紺屋に生まれて物心つく頃から愛染明王様を拝んできたけど――」
 大きく見開いた目。耳たぶが朱に染まっている。
「秀さんを好きになった日から私、お父っあんのあの掛軸の前で毎日、本当に心から祈りました。どうか、秀さんと夫婦になれますようにって。そして、今、祈っています。どうぞあの人を無事私の元に返してくださいって」
 唇を噛む。
「ちがう――」
 首を振ってあいは言い直した。
「代奴さんの代わりに私が死んでもいい。それで、全てが元通りになるなら。秀さんが秀さんのまま元気に働いて代奴さんも深川で益々売れっ子になって……そんな元通りの毎日が戻るなら、私はこの世からいなくなってもいい。私の命と引き換えに全てを元に戻してほしい」
 娘は父に縋りついた。
「お父っぁん、私を愛染明王様の処――ご本尊のある愛染院へ連れて行っておくんなさい。心から、ちゃんとそう祈るから、私に願掛けをさせておくんなさい」
「あい……」
「話はわかった。あいさん」
 割って入った定廻り同心の声は優しかった。
「まずは元気になるこった。その様子じゃ、愛染院までお参りなんぞ行けねえだろ。これ以上お父っあんを困らせるんじゃない」
「わっ」
 布団に突っ伏して泣き崩れるあい。
 そんな娘を部屋に残し亀七は同心一行を玄関まで送りに出た。
 親方は手を突き深々と頭を下げた。
「すみません、旦那様。あっしの目が行き届かねぇばかりにとんだご迷惑をおかけしました。まさか、あいの奴がひとり、陰に隠れて動き回っていたとは……」
 廊下越しに自室の壁、愛染明王の絵姿を見つめる。
「家業のことで日曜寺の愛染院へは始終あいつも連れてお参りに行っていましたが。愛染明王様の姿をおっかながって私の背にくっついて泣きべそをかいていたあいつがなぁ、恋の成就を祈る日が来るとは……」
 亀七親方の声はひどく寂し気に響いた。
「あいつがあんなに女だったなんて……気づきませんでした」

「二十六夜待ちの夜に代奴を訪ねたのは紺屋の娘で、その理由もわかったが――肝心の白殺しが誰かは全くわからねぇ。益々こんがらがっちまった」
 紺屋亀七の店から外に出るや久馬は落胆の溜息を吐いた。紺屋の物干し台にはためく染め上げた布。その隙間から今日は小さく富士のお山が覗いている。
「玄が逃げたかもしれねぇってことを親方に言わなかったのは何故です?」
 竹太郎が訊いて来た。
「少なくとも明後日まで親方は玄に休みをやったつもりでいる。俺はその間に必ずや玄を見つけて真相を聞き出すつもりだからさ。どうだ、この自信。如何いかにも俺らしいだろ、まいったか」
 久馬の軽口に竹太郎は乗って来なかった。真面目な顔に戻って久馬は小声で白状した。
「まぁ、娘はあんな状態だし、婿にするはずの職人は牢座敷、この上、頼りの中央職人まで行方をくらませたなんて言えるかよ」
 浅右衛門が微苦笑して言う。
「うむ、今のまんまじゃ玄が白殺しとも言い切れない。やはりここは何としても玄を見つけて真実を聞き出す以外すべはないと俺も思うよ、久さん」
 首打ち人の加勢に久馬はすぼめていた肩をまたそびやかす。
「それよ、それ。玄の身柄を確保しないで実は玄が白殺しの張本人だ、だから秀を解き放してくれなぁんて与力様うえには通用しねえしな。よっしゃあ、絶対、玄を取っ捕まえてやる!」
 ここで黙っていては男が廃る、とばかり竹太郎、
「わかりました、旦那。わっちも乗り掛かった舟だ。いや待てよ、わっちが漕いで乗せた舟か。とにかく、こうなったらこの朽木思惟竹、執筆の筆を止めても江戸中駆け巡って藍染職人を捜す手伝いをしまさぁ!」
「恩に着るぜ、キノコ」
「けっ、感謝してるくせにキノコ呼ばわりはやめねぇのかよ。そういうとこが如何にも旦那らしいや」
「そうさ、まいったか?」
「はいはい」

 こうして――
 いなくなった藍染職人を追って江戸市中を奔走した久馬たちだった。
 だが、奮闘も虚しく、この日も次の日も、遂に玄を見つけることはできなかった。


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