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白殺し
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こうして、急遽、深川菊川町の文字梅の小粋な仕舞屋へ足を運んだ三人だった。
座敷には意外な人物が待っていた。昨日、置屋で始終泣きじゃくっていた代奴の妹芸者、豆吉である。
文字梅が用意したのだろう、山盛りの虎家喜の皿の前で豆吉は久馬の顔を見てもじもじと体を揺らした。
「ほんとにこんなこと話したって役に立つかどうか……でもお師匠さんがぜひとも話してみろっていうんです」
「おう、いいから、言ってみな」
「そうだよ、豆吉さん、私に話したみたいに、あのまんま、話てごらんよ」
促されて豆吉はしぶしぶ口を開いた。
「大したことじゃないんですが、あの夜、私どもの扇橋屋に代奴姐さんを訪ねて来たお人がいたんです」
「あの夜とは?」
唾を飲み込んで問い直す久馬。
「二十六夜待ちの夜です。月も昇って最後の座敷から私が帰って来た頃だから、九つ半と思います。店の前でいきなり声を掛けられて『代奴姐さんを呼んできてほしい』と頼まれたんです」
「それはどんな野郎だった?」
「いやですよ、男じゃなくて女です。それも若い娘さん。上等なむじな菊の薄物、結綿に結った髪には花簪――一目でどこかの大店のお嬢さんだとわかりました」
久馬と浅右衛門がハッとして互いの顔を見た。ポンと自分の膝を叩く竹太郎。文字梅は励ますように若い芸妓の肩にそっと手を置く。
「それでどうしたか、その先を話しておあげな、豆吉さん」
「凄く思いつめた顔をしていたので、私、すぐ代奴姐さんの部屋へ知らせに行きました。でも、部屋に姐さんはいなかった」
ちょっと得意げに豆吉は顎を上げた。
「ほら、昨日私が、姐さんの部屋がきれいに掃除されているって言ったのはこの時、部屋を見たからですよ」
「むう、虫の知らせなんぞじゃなくて、娘の知らせと言ってほしかったぜ。それはともかく、それからどうしたんだい?」
「代奴姐さんはいないと告げると娘さんはがっかりした様子で去って行きました」
豆吉は文字梅の顔を覗き込んだ。
「これでいいんですか、お師匠? 本当にこんな話が同心様の役に立つとは思えませんが」
「いや、物凄く役に立った、ありがとよ! いつか俺が深川で盛大に遊ぶ時は、必ずおまえをイの一番に呼んでやるからな、豆太」
「……豆吉です」
「訊くまでもないが、浅さん、妹芸者豆吉の言った、代奴を訪ねて来た娘と言うのは、ありゃ――」
「うむ、紺屋の娘、あいだろうな」
竹太郎も我慢できないというように、
「それ以外誰がいるってんだよ?」
「と言うことは、こりゃあどうでも紺屋へ戻ってあい本人に話を聞く必要があるな」
慌ただしく走り出した玄関先で久馬は文字梅師匠にも礼を言うのを忘れなかった。
「ありがとよ、お梅。おまえがあれこれ聞き出してくれたんだろ? やっぱりおまえは曲木の松親分の娘だけのことはある」
「私のお弟子さんを間が抜けてるなんて悪く言われちゃ黙ってるわけにはいきませんからね。でも」
雪白の項が目に眩しい。ほつれ毛を撫で上げながら文字梅はフフと笑った。
「お役に立てて、なによりです」
再び神田は紺屋町一丁目。
「これは、旦那様、先刻松兵衛親分がいらしたので、玄の長屋へ向かったとお伝えしましたが」
「ああ、親分には会った。面倒をかけたな、亀七親方。だがよ、今度来たのは、あんたの娘ともういっぺん話がしたくてさ」
「え? あい、ですか?」
自室で寝込んでいたあいは気丈にも布団から起きあがって挨拶した。背後に控える親方の方が真っ青な顔をしている。人払いをして部屋には久馬たちと父子だけである。
「豆吉さんと言うんですか? はい、その人の言う通りです。私はあの夜、代奴さんを訪ねて置屋の扇橋屋へ行きました」
同心より早く父の親方が声を荒げた。
「そりゃ本当か、あい? あの日、おまえは熱が出たと言って朝からずっと部屋で臥せっていたんじゃなかったのかい? だから、俺は二十六夜待ちの宴の準備も手伝わせなかったのに……」
「お父っあん、あれは嘘です。ごめんなさい」
「何のために、代奴に会いに行ったんだ?」
詰め寄る父に娘は答える。
「どうしても取り戻したいものがあったから……」
「取り戻したい、って、秀のことかい?」
南町定廻りのいたく艶めいた問いに娘は逆に吃驚して首を振った。
「違います。秀さんじゃない。だって秀さんは、誰にも、一度も奪われてなんかないわ。私が取り戻したかったのは」
ここで急に娘の声が小さくなった。
「櫛です」
全く意味がわからない男たち、その顔をぐるっと見回して紺屋の娘は言った。
「全部お話します。私が代奴さんに会いに行ったのは、あの日で二度目なんです」
「な、なんだと!」
拳を握って立ち上がった親方を竹太郎が宥めて座らせる。
「まぁ親方、落ち着いて、ここはひとつ最後までお嬢さんの話を聞きましょうや」
父親から目を反らし、一つ息を吐いてから、あいは話し始めた。
「私は、お父っあんと違って、玄さんたちが隠していた、飲み屋で秀さんと代奴さんが喧嘩した話をすぐに聞いて知っていたんです。こっそり耳打ちしてくれる職人さんが何人もいるから。それで、私、その翌日、代奴さんに会いに行きました――」
座敷には意外な人物が待っていた。昨日、置屋で始終泣きじゃくっていた代奴の妹芸者、豆吉である。
文字梅が用意したのだろう、山盛りの虎家喜の皿の前で豆吉は久馬の顔を見てもじもじと体を揺らした。
「ほんとにこんなこと話したって役に立つかどうか……でもお師匠さんがぜひとも話してみろっていうんです」
「おう、いいから、言ってみな」
「そうだよ、豆吉さん、私に話したみたいに、あのまんま、話てごらんよ」
促されて豆吉はしぶしぶ口を開いた。
「大したことじゃないんですが、あの夜、私どもの扇橋屋に代奴姐さんを訪ねて来たお人がいたんです」
「あの夜とは?」
唾を飲み込んで問い直す久馬。
「二十六夜待ちの夜です。月も昇って最後の座敷から私が帰って来た頃だから、九つ半と思います。店の前でいきなり声を掛けられて『代奴姐さんを呼んできてほしい』と頼まれたんです」
「それはどんな野郎だった?」
「いやですよ、男じゃなくて女です。それも若い娘さん。上等なむじな菊の薄物、結綿に結った髪には花簪――一目でどこかの大店のお嬢さんだとわかりました」
久馬と浅右衛門がハッとして互いの顔を見た。ポンと自分の膝を叩く竹太郎。文字梅は励ますように若い芸妓の肩にそっと手を置く。
「それでどうしたか、その先を話しておあげな、豆吉さん」
「凄く思いつめた顔をしていたので、私、すぐ代奴姐さんの部屋へ知らせに行きました。でも、部屋に姐さんはいなかった」
ちょっと得意げに豆吉は顎を上げた。
「ほら、昨日私が、姐さんの部屋がきれいに掃除されているって言ったのはこの時、部屋を見たからですよ」
「むう、虫の知らせなんぞじゃなくて、娘の知らせと言ってほしかったぜ。それはともかく、それからどうしたんだい?」
「代奴姐さんはいないと告げると娘さんはがっかりした様子で去って行きました」
豆吉は文字梅の顔を覗き込んだ。
「これでいいんですか、お師匠? 本当にこんな話が同心様の役に立つとは思えませんが」
「いや、物凄く役に立った、ありがとよ! いつか俺が深川で盛大に遊ぶ時は、必ずおまえをイの一番に呼んでやるからな、豆太」
「……豆吉です」
「訊くまでもないが、浅さん、妹芸者豆吉の言った、代奴を訪ねて来た娘と言うのは、ありゃ――」
「うむ、紺屋の娘、あいだろうな」
竹太郎も我慢できないというように、
「それ以外誰がいるってんだよ?」
「と言うことは、こりゃあどうでも紺屋へ戻ってあい本人に話を聞く必要があるな」
慌ただしく走り出した玄関先で久馬は文字梅師匠にも礼を言うのを忘れなかった。
「ありがとよ、お梅。おまえがあれこれ聞き出してくれたんだろ? やっぱりおまえは曲木の松親分の娘だけのことはある」
「私のお弟子さんを間が抜けてるなんて悪く言われちゃ黙ってるわけにはいきませんからね。でも」
雪白の項が目に眩しい。ほつれ毛を撫で上げながら文字梅はフフと笑った。
「お役に立てて、なによりです」
再び神田は紺屋町一丁目。
「これは、旦那様、先刻松兵衛親分がいらしたので、玄の長屋へ向かったとお伝えしましたが」
「ああ、親分には会った。面倒をかけたな、亀七親方。だがよ、今度来たのは、あんたの娘ともういっぺん話がしたくてさ」
「え? あい、ですか?」
自室で寝込んでいたあいは気丈にも布団から起きあがって挨拶した。背後に控える親方の方が真っ青な顔をしている。人払いをして部屋には久馬たちと父子だけである。
「豆吉さんと言うんですか? はい、その人の言う通りです。私はあの夜、代奴さんを訪ねて置屋の扇橋屋へ行きました」
同心より早く父の親方が声を荒げた。
「そりゃ本当か、あい? あの日、おまえは熱が出たと言って朝からずっと部屋で臥せっていたんじゃなかったのかい? だから、俺は二十六夜待ちの宴の準備も手伝わせなかったのに……」
「お父っあん、あれは嘘です。ごめんなさい」
「何のために、代奴に会いに行ったんだ?」
詰め寄る父に娘は答える。
「どうしても取り戻したいものがあったから……」
「取り戻したい、って、秀のことかい?」
南町定廻りのいたく艶めいた問いに娘は逆に吃驚して首を振った。
「違います。秀さんじゃない。だって秀さんは、誰にも、一度も奪われてなんかないわ。私が取り戻したかったのは」
ここで急に娘の声が小さくなった。
「櫛です」
全く意味がわからない男たち、その顔をぐるっと見回して紺屋の娘は言った。
「全部お話します。私が代奴さんに会いに行ったのは、あの日で二度目なんです」
「な、なんだと!」
拳を握って立ち上がった親方を竹太郎が宥めて座らせる。
「まぁ親方、落ち着いて、ここはひとつ最後までお嬢さんの話を聞きましょうや」
父親から目を反らし、一つ息を吐いてから、あいは話し始めた。
「私は、お父っあんと違って、玄さんたちが隠していた、飲み屋で秀さんと代奴さんが喧嘩した話をすぐに聞いて知っていたんです。こっそり耳打ちしてくれる職人さんが何人もいるから。それで、私、その翌日、代奴さんに会いに行きました――」
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