新月猫ーニュームーン・キャットー

sanpo

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 1841年、ロイター卿はロンドンに通信社を設立した。10歳から17、8歳の少年たちに揃いの制服を着せ一日三交代制で途切れることなく電報を配達させた。特に圧巻は夜組だ。寝静まったロンドンの街を少年たちはローラースケートを履いて縦横無尽に駆け巡った。
 1866年、ドイツ・イギリス間に海底ケーブルが施設されるとロンドン市内は少年たちが、それより遠距離の市外では伝書鳩が最速の情報配達を担って活躍した。
 だが、急激な電信技術の発達で彼らの栄光の時代はあっけなく幕を閉じる――
 これは19世紀末、歴史の狭間を駆け抜けたテレグラフ・エージェンシー社のメッセンジャーボーイの物語である。




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 さあ、おいで、みんな、餌の時間だよ。
 出ておいで、怖がらずに。
 シダの陰にいる、君。岩にもたれている君も。
 可愛い尻尾をパタパタと揺らして
 静かな時間が流れて行く。
 君たちはなんて綺麗なんだろう……!
 シー、
 ゆっくり出ておいで。
 
 僕のおともだち。
 永遠の宝物たち……



            1

「?」
 何だろう? 何かが、今、動いた。闇の中で。
 エドガーは吃驚してローラースケートを履いた足を止めた。
 深夜の通り。ロンドンは眠っている。昼間ひっきりなしに行き交っていた辻馬車や荷車は消え失せて、どの街路も森閑と静まり返っている。動いているものは唯ひとつ、先行するヒューだけ。思わず見惚れる完璧な走り方で今夜も遥か前を疾走するヒュー・バード! 彼こそテレグラフ・エージェンシー社1の飛ばし屋でエドガーの〈憧れ〉だった。いつか彼を追い抜くこと、それが新入りメッセンジャーボーイ、エドガー・タッカーの夢なのだ。
 でも、今、確かに別の物――何か・・が目の端をよぎった。そう、闇よりももっと黒い影――
 猫だ!
 しかも、1匹じゃない。黒猫の後を追って2匹、3匹、4、5、6匹……
 不思議な行列のようにポッ、ポッと連なって行く……
「待って、ヒュー!」
 エドガーは我慢できずにヒューの背中に叫んだ。
 小さな点になっていたヒューが素晴らしいスピードで戻って来る。
「どうした、エド、足でもくじいたのか?」
「違う、そうじゃない。変なものを見たんだ。あっち――」
 その方角をエドガーは指差した。
「猫たちが何匹も連なって歩いているんだよ、先頭は黒猫でさ」
 ヒューは帽子キャスケットを押しやってニヤリとした。
「フゥン? なら、猫のメッセンジャーボーイじゃないのか? 2番手は金色でクシャクシャ頭だったろ?」
「ふざけんなよ、ヒュー。僕、あんなのは始めて見た。なんか背中がゾクゾクする。物凄くヘンテコな光景だったんだぜ。ほら、君もよく見てみろよ」
 ヒューは目を細めたが、すぐに首を振った。
「いや。そんなもの俺には見えないけど?」
 振り返るエドガー。
「あれ? ほんとだ、いなくなってる。でも、確かにさっき僕の目の前をかすめて通って行ったんだ。そして、向こうの細い路地へ入って行った」
 だが、今はもうそこには闇が濃く降り積もっている。
「行くぞ、かなり時間を喰っちまった。今日のはプレミアがついた特別便だ。無事届け終えたらおまえにもボーナスを半分分けてやるよ」
 特別便の配達者は3ポンドのボーナスがもらえる、これが社の決りだ。ヒューは既に走り出している。慌てて後を追うエドガー。だが、こらえきれずもう一度振り返った。猫たちが消えた路地。風が吹いて、キィキィと吊り看板が鳴っている。

 夜が明けた。仕事を終えた夜番のメッセンジャーボーイたちが三々五々テレグラフ・エージェンシーの社屋から出て来る時間。その流れの中でエドガーはヒューの肘を掴む。
「お願いがあるんだ、ヒュー」
「いいぜ、次は一番手はおまえに譲ってやるさ。おまえも毎晩俺にくっついて、も上げず頑張ってるもんな」
「そうじゃないったら、君を抜いて一番手になるのは実力で勝ち取る。お願いと言うのは――」
 ちょっと口籠ってからエドガーは一気に言った。
「これから僕に付き合ってくれないか? 一緒に行ってほしい場所があるんだ」
「?」
「ほら、昨夜、猫の行列を見た路地へだよ。僕はどうしても気になって仕方がない。だから、ホントに猫たちがいたのかどうか確かめたいんだ」
 さほど乗り気ではないらしく渋々ヒューはうなずいた。
「わかったよ。そうまで言うなら、付き合ってやるよ」
 こうして二人は夜勤明けのままその通りへ引き返した。昨晩の特別便の配達先はメリルボーン、高級住宅地だった。そこへ向かう途中のオックスフォードストリートと交差する辺り……オーチャード街の更に細い通路……この辺りはいかにもロンドン大火後の建築らしい三階建ての棟割住宅がくねくねと続いている。
 いきなりエドガーが声を上げた。
「ここだ、間違いない!」
「ホントにここか? 夜の道は何処も同じに見えるもんだぜ?」
 ヒューの言葉に、勝ち誇ってエドガーが胸を張る。
「そう言われると思って――目印を見つけておいたんだ、あれさ!」
 看板だった。
 〈タルボット薬屋ファーマシー〉とある。
 いかにもそれらしい、蛇がくわえた薬皿の図柄。何より変わっているのはその吊り看板に古びた銀の鎖が巻き付けてあるところか。
「ほらね? こんな変な看板、見間違えるもんか。この下で猫たちは消えたんだよ。なんだい、ヒューどうかしたのか?」
 真横に立つ友人の顔がゆがんだのに気づいてエドガーは吃驚して尋ねた。
「ははぁ、黒猫と薬屋か……」
 チカッ、ヒューの灰色の目が星のように光る。
「昨夜は、おまえが夢でも見たのかと思ったが――ひょっとすると、おまえは本当に見たのかも知れないな」
「だから、僕は、ずっと『見た』と言ってるじゃないか」
「ちがう、俺が言いたいのは『おまえは幽霊を見た』ってこと。おまえは目撃したんだ、黒猫の怨霊を」
「な、な、な……」
 元教区牧師を父に持つ博学のヒューは、俄然、興味を覚えたらしくエドガーの肩を引き寄せて囁いた。チビのエドガーはちょうどヒューより頭一つ小さいのだ。たった2歳しか違わないのにヒュー・バードは長身で大人びている。そんな処もエドガーがヒューに憧れる理由かもしれない。
「おまえの見た黒猫はこの薬屋の前で搔き消えた。大いに有り得る。何故って? 薬屋には黒猫のミイラや骨が秘匿されているからさ。魔女が闊歩かっぽした時代から代々買い集めた貴重な黒猫の死骸それがな。黒猫は最高の薬になると言うぜ。それで、黒猫は薬屋を恨んで、自分のからだを取り返そうと夜な夜な仲間を従えてやって来るんだよ。あれ? 震えているのか、エド? どうする、引き返すかい?」
「ふ、震えているもんか!」
 エドガーは力強く友を押しのけた。
「それを聞いた以上、何としても確かめなきゃ。僕が見たのは幽霊じゃない、本物の黒猫だということを!」
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