18 / 22
18
しおりを挟む
やや手前で二人は馬車を下りた。華やかなメリルボーン・ハイストリートの通りを挟んでシメオン・コリンズ写真館が見える。
いざ、出陣――
と、その時、信じられないことが起こった。
ヒューの優雅な黒いドレスのスカートにぶつかって来た何か。同色の黒い毬? いや違う、これは……
「おまえは、新月!?」
「ニャー……」
「嘘だろ?」
どこまで俺に付きまとったら気が済む? ヒューは舌打ちした。やはり、この猫は俺に憑りついているのか?
幸い、すぐ近くに公園が見えた。柵を巡らせた小道の先にアザレアの植え込みが続いて、更にその向こうにサヤサヤと涼し気な緑の梢が揺れている。この地域のちょっとした憩いの場らしい。
黒いレースの手袋を嵌めた指を伸ばして、ガッシと猫を掴むとヒューは駆け出した。
「あ、ヒュー……?」
「おまえはここで待ってろ、俺はこいつを放して戻って来る」
「それ、僕がやろうか?」
おずおずとエドガーが申し出る。
「君、猫が苦手だろ?」
「いや、いい、おまえじゃ無理だ。俺がやる。俺でなきゃ――」
「ヒュー?」
足に絡みつくスカートも何のその、黒猫を抱いてヒューは走る。
「これから本番って大事な時に、もう邪魔されるのは御免だ!」
走りながらヒューは思い出した。
考えて見たら、これからって時にこいつは必ず俺の前に出現している。水車小屋……水晶宮……薬屋の地下室……そして、今日のシメオン・コリンズ写真館。ここは漸く辿り着いた、本命の悪魔の牙城かもしれないってのに。いや、おまえも――
おまえこそ、俺にとって悪魔そのものだ。これ以上、俺のやることを邪魔させるわけにはいかない。できるだけ遠い茂みの中に放り投げてやる!
「――――」
刹那、雷のように白い光がヒューの脳裏を奔った。
待てよ、もっといい方法がある。おまえが嫌がること……
そうさ、俺は充分に付きまとわれて嫌な思いをしたんだ。俺には復讐する権利があると思わないか?
周囲を見回して、足を止める。近くには人影はない。
そっと足元の草叢に下した後で、ヒューは黒猫に話しかけた。文字通り猫撫で声で、
「さあ、おいで新月。おまえに俺からいいものをくれてやろう」
そうだ。これで関わるのは最後だ。おまえはもう俺の前に出現できなくなる――
「来いよ、新月」
猫は動かなかった。金色の目でじっと、自分に話しかける人間を見つめている。
静かな声で、優しく、ヒューは呼びかけた。
「どうした? あれほど俺を追っかけ廻して膝に乗りたがったのに、何を躊躇している? おまえ、俺のこと好きなんだろう? だったら、来いよ」
ニヤァ……
「そうだ、もっと近づいて来い」
ニヤー…… …… ……
「ずいぶん時間がかかったね?」
公園の小道に現れたヒューの姿に気づいてエドガーは駆け寄った。
女の子の装束でたった一人置き去りにされて、よほど不安だったのだろう。ほっと安堵の息を吐くエドガー。だが、次の瞬間、新しい不安の波が押し寄せた。
(何だろう? このカンジ……)
戻って来たヒューには、何か、欠けた物がある。でも、それが何なのか、わからない。
唾を飲み込み、探るようにゆっくりとエドガーは尋ねた。
「ヒュー、君、よほど遠い処まで行って新月を放したんだね?」
「遠い処か。まぁ、ある意味当たってる」
ヒューはクックと乾いた声で笑った。
「これで二度とあいつは俺の傍にやって来ないだろうさ」
訝し気に見つめるエドガーの前で黒い手袋を嵌め直す。それから、ヒューは今自分が戻って来た公園の小道を肩越しに振り返った。
猫にあんな真似をして、流石に気が咎めないわけではなかったが。
あいつ、嫌に、従順だったな。ほとんど抵抗もしなかった。柔らかくてスベスベした毛並み、首に回した指の感触を思い出す――
だが、すばやく心を切り変えた。自分にはやるべき重要なことがある。一匹の猫の不幸など気にかけている暇はない。
「賽は投げられた。行こう、エド」
「あ、それ、シェイクスピアの言葉だね?」
「残念、カエサル・シーザーだよ」
ヒュー・バードは帽子――いつもの制帽ではなくて優雅な夏帽子のつばに手を置くと、道の向こう、午後の陽光に照らされた白い壁、その前に揺蕩う賑やかな人波へと足を踏み出した。
「さあ、俺たちのルビコン川を渡るぞ!」
いざ、出陣――
と、その時、信じられないことが起こった。
ヒューの優雅な黒いドレスのスカートにぶつかって来た何か。同色の黒い毬? いや違う、これは……
「おまえは、新月!?」
「ニャー……」
「嘘だろ?」
どこまで俺に付きまとったら気が済む? ヒューは舌打ちした。やはり、この猫は俺に憑りついているのか?
幸い、すぐ近くに公園が見えた。柵を巡らせた小道の先にアザレアの植え込みが続いて、更にその向こうにサヤサヤと涼し気な緑の梢が揺れている。この地域のちょっとした憩いの場らしい。
黒いレースの手袋を嵌めた指を伸ばして、ガッシと猫を掴むとヒューは駆け出した。
「あ、ヒュー……?」
「おまえはここで待ってろ、俺はこいつを放して戻って来る」
「それ、僕がやろうか?」
おずおずとエドガーが申し出る。
「君、猫が苦手だろ?」
「いや、いい、おまえじゃ無理だ。俺がやる。俺でなきゃ――」
「ヒュー?」
足に絡みつくスカートも何のその、黒猫を抱いてヒューは走る。
「これから本番って大事な時に、もう邪魔されるのは御免だ!」
走りながらヒューは思い出した。
考えて見たら、これからって時にこいつは必ず俺の前に出現している。水車小屋……水晶宮……薬屋の地下室……そして、今日のシメオン・コリンズ写真館。ここは漸く辿り着いた、本命の悪魔の牙城かもしれないってのに。いや、おまえも――
おまえこそ、俺にとって悪魔そのものだ。これ以上、俺のやることを邪魔させるわけにはいかない。できるだけ遠い茂みの中に放り投げてやる!
「――――」
刹那、雷のように白い光がヒューの脳裏を奔った。
待てよ、もっといい方法がある。おまえが嫌がること……
そうさ、俺は充分に付きまとわれて嫌な思いをしたんだ。俺には復讐する権利があると思わないか?
周囲を見回して、足を止める。近くには人影はない。
そっと足元の草叢に下した後で、ヒューは黒猫に話しかけた。文字通り猫撫で声で、
「さあ、おいで新月。おまえに俺からいいものをくれてやろう」
そうだ。これで関わるのは最後だ。おまえはもう俺の前に出現できなくなる――
「来いよ、新月」
猫は動かなかった。金色の目でじっと、自分に話しかける人間を見つめている。
静かな声で、優しく、ヒューは呼びかけた。
「どうした? あれほど俺を追っかけ廻して膝に乗りたがったのに、何を躊躇している? おまえ、俺のこと好きなんだろう? だったら、来いよ」
ニヤァ……
「そうだ、もっと近づいて来い」
ニヤー…… …… ……
「ずいぶん時間がかかったね?」
公園の小道に現れたヒューの姿に気づいてエドガーは駆け寄った。
女の子の装束でたった一人置き去りにされて、よほど不安だったのだろう。ほっと安堵の息を吐くエドガー。だが、次の瞬間、新しい不安の波が押し寄せた。
(何だろう? このカンジ……)
戻って来たヒューには、何か、欠けた物がある。でも、それが何なのか、わからない。
唾を飲み込み、探るようにゆっくりとエドガーは尋ねた。
「ヒュー、君、よほど遠い処まで行って新月を放したんだね?」
「遠い処か。まぁ、ある意味当たってる」
ヒューはクックと乾いた声で笑った。
「これで二度とあいつは俺の傍にやって来ないだろうさ」
訝し気に見つめるエドガーの前で黒い手袋を嵌め直す。それから、ヒューは今自分が戻って来た公園の小道を肩越しに振り返った。
猫にあんな真似をして、流石に気が咎めないわけではなかったが。
あいつ、嫌に、従順だったな。ほとんど抵抗もしなかった。柔らかくてスベスベした毛並み、首に回した指の感触を思い出す――
だが、すばやく心を切り変えた。自分にはやるべき重要なことがある。一匹の猫の不幸など気にかけている暇はない。
「賽は投げられた。行こう、エド」
「あ、それ、シェイクスピアの言葉だね?」
「残念、カエサル・シーザーだよ」
ヒュー・バードは帽子――いつもの制帽ではなくて優雅な夏帽子のつばに手を置くと、道の向こう、午後の陽光に照らされた白い壁、その前に揺蕩う賑やかな人波へと足を踏み出した。
「さあ、俺たちのルビコン川を渡るぞ!」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
おばさんは、ひっそり暮らしたい
波間柏
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる