新月猫ーニュームーン・キャットー

sanpo

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 やや手前で二人は馬車を下りた。華やかなメリルボーン・ハイストリートの通りを挟んでシメオン・コリンズ写真館が見える。
 いざ、出陣――
 と、その時、信じられないことが起こった。
 ヒューの優雅な黒いドレスのスカートにぶつかって来た何か。同色の黒い毬? いや違う、これは……
「おまえは、新月!?」
「ニャー……」
「嘘だろ?」
 どこまで俺に付きまとったら気が済む? ヒューは舌打ちした。やはり、この猫は俺にりついているのか?
 幸い、すぐ近くに公園が見えた。柵を巡らせた小道の先にアザレアの植え込みが続いて、更にその向こうにサヤサヤと涼し気な緑の梢が揺れている。この地域のちょっとした憩いの場らしい。
 黒いレースの手袋を嵌めた指を伸ばして、ガッシと猫を掴むとヒューは駆け出した。
「あ、ヒュー……?」
「おまえはここで待ってろ、俺はこいつ・・・を放して戻って来る」
「それ、僕がやろうか?」
 おずおずとエドガーが申し出る。
「君、猫が苦手だろ?」
「いや、いい、おまえじゃ無理だ。俺がやる。俺でなきゃ――」
「ヒュー?」
 足にからみつくスカートも何のその、黒猫を抱いてヒューは走る。
「これから本番って大事な時に、もう邪魔されるのは御免だ!」
 走りながらヒューは思い出した。
 考えて見たら、これからって時にこいつは必ず俺の前に出現している。水車小屋……水晶宮……薬屋の地下室……そして、今日のシメオン・コリンズ写真館。ここはようやく辿り着いた、本命の悪魔の牙城かもしれないってのに。いや、おまえも――
 おまえこそ、俺にとって悪魔そのものだ。これ以上、俺のやることを邪魔させるわけにはいかない。できるだけ遠い茂みの中に放り投げてやる!
「――――」
 刹那、いかづちのように白い光がヒューの脳裏をはしった。
 待てよ、もっといい方法がある。おまえが嫌がること……
 そうさ、俺は充分に付きまとわれて嫌な思いをしたんだ。俺には復讐する権利があると思わないか?
 周囲を見回して、足を止める。近くには人影はない。
 そっと足元の草叢くさむらに下した後で、ヒューは黒猫に話しかけた。文字通り猫撫ねこなで声で、
「さあ、おいで新月。おまえに俺からいいものをくれてやろう」
 そうだ。これで関わるのは最後だ。おまえはもう俺の前に出現できなくなる――
「来いよ、新月」
 猫は動かなかった。金色の目でじっと、自分に話しかける人間を見つめている。
 静かな声で、優しく、ヒューは呼びかけた。
「どうした? あれほど俺を追っかけ廻して膝に乗りたがったのに、何を躊躇している? おまえ、俺のこと好きなんだろう? だったら、来いよ」
 ニヤァ……
「そうだ、もっと近づいて来い」
 ニヤー…… …… ……

「ずいぶん時間がかかったね?」
 公園の小道に現れたヒューの姿に気づいてエドガーは駆け寄った。
 女の子の装束なりでたった一人置き去りにされて、よほど不安だったのだろう。ほっと安堵の息を吐くエドガー。だが、次の瞬間、新しい不安の波が押し寄せた。
(何だろう? このカンジ……)
 戻って来たヒューには、何か、欠けた物がある。でも、それが何なのか、わからない。
 唾を飲み込み、探るようにゆっくりとエドガーは尋ねた。
「ヒュー、君、よほど遠い処まで行って新月を放したんだね?」
「遠い処か。まぁ、ある意味当たってる」
 ヒューはクックと乾いた声で笑った。
「これで二度とあいつは俺の傍にやって来ないだろうさ」
 いぶかし気に見つめるエドガーの前で黒い手袋を嵌め直す。それから、ヒューは今自分が戻って来た公園の小道を肩越しに振り返った。
 猫にあんな真似をして、流石に気がとがめないわけではなかったが。
 あいつ、嫌に、従順だったな。ほとんど抵抗もしなかった。柔らかくてスベスベした毛並み、首に回した指の感触を思い出す――
 だが、すばやく心を切り変えた。自分にはやるべき重要なことがある。一匹の猫の不幸など気にかけている暇はない。
さいは投げられた。行こう、エド」
「あ、それ、シェイクスピアの言葉だね?」
「残念、カエサル・シーザーだよ」
 ヒュー・バードは帽子――いつもの制帽キャスケットではなくて優雅な夏帽子のつばプリムに手を置くと、道の向こう、午後の陽光に照らされた白い壁、その前に揺蕩たゆたにぎやかな人波へと足を踏み出した。
「さあ、俺たちのルビコン川を渡るぞ!」
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