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第六章『スワンプマンの号哭』
八
しおりを挟む「いいこと? ロラン」
それからもハーレィは日々こう言って切り出し、ロランをあちらこちら連れ回しては、自分の学んだ正義の何たるかを教え込んだ。
「はい、姫様!」
ロランも屈託のない笑顔で返し続けた。
朝の顔見せから礼拝。座学の時間。ときどき城下へ視察。乗馬や嗜みとして最低限の武芸の稽古に、音楽の習い事。食事に、果ては寝る時間さえも。
彼女の行くところどこまでもロランは着いて回り、その姿は臣下や召使、国民たちの間でも肴になって陰で話されもした。
そしてそれは何も悪いことばかりではない。
ロランに感化されて姫様の態度が優しくなった、なんていうのもあって、城内はだいぶ和やかになっていた。
「いいこと? ロラン。教育なんてのは所詮、単方向性の思想に基づく鋳型よ。だから、教養人やら教師やら、それらの人種が用いる弁論は果てなくつまらなくて退屈なものになるの。もし国に雇われ、それを公務としてやっているものがいたとしたら、そんなの、一番信用してはならないわね。なぜって、そいつらは社会の犬に過ぎないから」
ハーレィはおままごと用のぬいぐるみを持って遊ぶふりをしながら、ロランに教えた。ロランは馬の頭がついた子供用の棒を握らされている。
「これを学びだとか言って、教育、なんて決まりのいい言葉で体裁を整えてあげれば、はい、ろくなジョークも通じない私の大嫌いなグズの一丁出来上がりってわけ。彼女らから何か学んだ気になるくらいなら野に出て自然と戯れてたほうがよっぽどマシ。彼女らの教育こそが人を同じ顔の家畜にしている。汝、とりま隣人を愛しとけと言ってね。でもそんなやりとり、ままごと未満ね。幼児のがよっぽど芯に迫るコミュニケーションしてるわ」
ロランが後について回る姿が珍しくもなくなってからも、彼女は日々話し続け、その頃になるとロランの返答もだいぶ落ち着いたものになっていた。
「いつも自分のやりたいことだけ考えるのよ、ロラン。私が私以外になれないように、あなたもあなたにしかなれないのだから。でもそれは諦めとは違う」
「はい、姫様」
「自分が今やりたいと思うこと。ひたすらそれを貫き、従うのよ。誰かの言いなりになってはだめ。思ってるよりずっと難しいことだと気付くわ。でもそれは本能が教えてくれているの。私たちを形作る、目にそれと見えないくらいの小さな物質が、私たちの内に眠る、自分の身体や心が求めている栄養を求め、そして導いてくれている。己の天命に。その歩みが得てして人生に……私そのものになるのよ。解る? やがて蝶になりたければ、今は青虫を辿ればいいの」
「はい、姫様。けれど、もし人を殺したくなってしまったら?」
「良い質問ね。そうね、殺人鬼の人はかわいそうだけれど、命とはどうしたっていつかは消えゆくものだから、それもしょうがないわ。なぜって、それがその人の産まれた意味であるかもしれないのだもの。周りは迷惑するでしょうけど、それも所詮は度合いの差でしかない。人間は忘れてるの。そのいのち、人生含めて、自分はこの世界の一部品でしかないということを。自分が中心であると思い込んでいる。けど本当は、大きな流れの中のたった一粒に過ぎない……解る? いのちは自分のものじゃないわ。そうした流れに与えられたものであって、他の動植物と同じように役目を果たして、やがて返すときがくるだけのこと。それが人類よ」
「はい、姫様」
「矛盾してるみたいだけど、私を大切にすることと、一方で全体の一に過ぎないと考えることは相反しない。なぜって、自分の小さな一を大切に考えるからこそ、全体を大切に想えるからよ。私は私を大切にするからこそ、決して世界に絶望したりしない。私を以て世界に訴える」
「それが姫様の感情……産まれた意味となる、ですね」
「ロラン。なかなか良くなってきたわね」
「いえ。姫様の教えがあってこそです。……うん。僕もそう思います」
ロランは真実、ハーレィの意思を尊重していた。作り物ならばハーレィの観察眼の前に立ち所にボロボロにされていただろうが、この少年は心の底から無垢にハーレィを慕っていたのだった。
そしてハーレィもまた初めて、気づくとロランといることが苦ではなくなっていた。
ロランを弟のように想い、自分の学んできたことや考えを惜しみなく話し、最高の時には彼の意見を伺うことさえあった。
ハーレィは続けた。
「ここまで言えば解ると思うけど……興味本位。それが答えにして、何よりの自分を知る手掛かりなの。そうして学んだことや身につけたことは決して忘れない。私だって祈りを捧げないわけじゃないし、学ぶことが嫌なわけでもないわ。良い子ちゃんぶって周りの顔色を伺ったり、お行儀良くしたり、他人にやらされるというのがまったく非効率なことだと理解しているだけ。大人ぶった人たちにはそれが解らないだけなのよ」
そうするうち瞬く間に一ヶ月、二ヶ月と過ぎていき。
三ヶ月……もうじきロランの母が彼を連れ戻しにくる……その刻限が迫ってきた頃。
夜。二人の部屋をつなぐテラスだった。
二人は姉妹同然に色違いの夜衾(少女用だが、ロランは違和感なく着れたので)で夜風を浴びていた。
初めにロランが出ていたのを、物音に気付いてハーレィも出てきたのだった。
ハーレィはもはや親しげに声をかけた。
「あなた、ときどきこうしてテラスに出ているわね。そろそろ恋しくなってきた?」
「いえ——といえば嘘にはなります。完全に母を想わないわけではありませんけれど、今の僕には姫様がいますから」
そう言われてハーレィも悪い気はしない。彼女は彼に並んで外を眺めながら言った。
「ま、私も退屈凌ぎにはなったわ、ロラン」
テラスからは城下の街並み、その周りに広がる丘陵から林、彼方の背景を囲んでそびえたつ山の稜線の影までも見渡せた。
よく見ればその足元には湖畔が木々に隠れて覗け、三ヶ月前、ロランの母と出会ったあの林も見える。
ハーレィは続けた。
「東の国に行ったら、あなたはどうするの——? あなたほどの知見を騎士にして無為にしてしまうのは最大の愚行だと考えるけど……」
「学者は……難しいです。僕の家も確かに〈コヨ・クラーマ〉では名家なんですが、その名も捨てて来たものですから……」
「何なら私が父に言って……」
「珍しく——」
隣で、ロランの柔らかな金髪が風に浮いた。
ロランはそれを押さえながら言う。
彼の童顔と服装が相まって、まるで同年代の少女を見ているようだった。
「僕を篤く擁護してくださるんですね。ありがとうございます、姫様」
「……それは」
ハーレィは目を奪われていたその一瞬をしまいこむように、顔を前に戻して言った。
「……するわ。私だって。誰にでもケチをつけてるわけじゃない。解っているでしょう?」
「ありがとうございます……本当に。でも——でも、僕だって男ですから」
「…………」
「戦う時がきたら、この身をもって戦わないと……姫様にも顔向けできない」
「そんなこと、ないわ」
ハーレィはロランを騎士にさせたくなかった。
見た目からしてまずロランには向いていない。生活してみて解ることもある。ドジでひょろくて、頼りなくて、学者のほうがまったくおあつらえ向きだ。
それに、騎士になる。戦場に赴く。それはすなわち——。
「戦うばかりが男らしさや強さの証明じゃないでしょ。時には逃げることも必要じゃない」
自分自身で都合の良いことを言っていると思った。
ロランの言う通りだ。男ならばというわけでもないが、戦うべき時には戦う姿勢の方が本来ハーレィも好ましい。
しかし……だから……これこそがわがままなのだった。
ハーレィが起こした初めてのわがまま。
「それでも……それでもです」
しかし、ロランの覚悟は固かった。むしろ皮肉なことには、ハーレィから学んだ精神がますます彼を意固地にもさせていた。
「産まれて、生きて、死んで、また産まれて——」
ロランはふと思いついたように言った。
「人類は、いつまで人類を続けるのでしょう」
「それは……」
さしものハーレィも言葉に詰まった。
永遠に? それとも、果てなく続くように見えて、いつか問答無用に、一斉に、終わる日でも来るというのだろうか?
「例えば」
ロランが続けた。
「これ以上の出産を禁じ、人の身体にそのような細工が施せればそう時間はいりません。百年ほどで死滅します。そしてこの世にはそんな毒も探そうと思えばきっとある。人は、造ろうと思えばいつか、そんな薬を造れてしまう」
「けどしないわ」
ハーレィは言った。
「そう思えばいつだってできる。だから、しない」
「なぜ?」
「どんなに世界が残酷でも……それでもといって、明日の可能性に幼気な夢を見続けるから……その健気さが私は嫌いじゃない」
口に出すと、ハーレィはふと涙ぐんだ。
なぜかは自分でも解らない。
得意げに微笑んだつもりが、そうなっていた。
「今がすべてじゃない——生きてれば、必ず、あんたみたいな人にもまた会えるって……」
「姫様……」
ハーレィの涙を受けて、ロランはその瞬間、久しぶりに動揺した。
けれど——間もなく凛々しい顔つきをして、その涙を拭ってみせる。
その、束の間覗かせた男らしさにハーレィはくすぐったい気持ちがしながら少し笑ってしまう。
似合わない。けれど。
けれど——。
「ねぇ、ロラン」
ハーレィはテラスに身を乗り出すようにして、打ち明けた。
「私ね。そのうち結婚するわ」
「…………」
「私でもね、抗えないことはあるのよ。お人好しでどうしようもなく甘い人だとは思っても、パパ様のことは嫌いではないし。私もこの国のためになるのなら、身を捧げる覚悟はできてる」
「はい、姫様……」
「でも、だからって、何も抵抗しないなんて私らしくないでしょ。私のいのちは時代なんかに左右されなかったって、私はこの人生を以て未来の人に突きつけてやるんだ。そしてその人の勇気を後押ししたい——」
私がたくさんの著者に助けてこられたようにして。
ハーレィはロランの手をとった。
「だから、初めては、自分で決めた好きな人に——」
ロランは目を見開いた。
ハーレィはロランを見ていた。
すでにして潤んだ瞳を浮かべて、頬を赤く染めながら言った。
「ねぇ、ロラン。お願い」
私を忘れないで。
ロランは何か言った気がした。
正確には無言だったかもしれない。
そのようにして、ハーレィを強く抱きしめた。
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