普通のβだった俺は

りん

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この日は、なんだかすごく体調が悪かった。だるくてぼんやりして、朝ご飯を食べるのにもすごく時間がかかった。ちょっとふらつきながら通学したら、いつもより時間がかかって、遅刻ギリギリになってしまった。普段から早めに家を出ていたからよかった。

教授が話しているのに、あまり頭に入ってこない。のろのろとノートを取り、スッキリしない頭で必死に話を聞く。うまく手に力がはいらなくなってきて、字が崩れる。なんとなく視界がかすんで、周りの音が遠くなる。
なんか、周りがいつもと違う気がする。教授もなんか、何言ってんだろ。でも、なにも、よくわかんないや。





宵紗はいつも通り講義を受けている。いろいろ考えながらメモを取る。
そこまではいつも通りだった。しかし、途中からなんだか集中できなくなる。よくわからない焦燥感。そしてなんだか胸がざわつく感覚。

次の瞬間、考えるよりも前に身体が動いていた。勢いよく立ち上がったせいでノートやペンが床に落ちる。

「おい!宵紗?!」

「どうした急に?」

匡弥たちが何か言っているがどうでもいい。

椅子やら机やらをなぎ倒しながらドアを蹴破る勢いで開けていた。教室では悲鳴が上がっていた。

「宵紗!!なにしてんだよ!!!」

普段、比較的真面目な宵紗が突然立ち上がり、机や椅子が倒れるのもお構いなしに教室を出ていったことに驚きが満ちる。一拍遅れて、教室はざわめきに包まれ、講義どころではなくなった。





本能のままに宵紗は一つの教室に辿り着いていた。ほぼ突き破る勢いでドアを開けると、教室で驚きの声が上がる。


宵紗は椅子に座る凪を見つけ、迷いなく距離を詰める。周りは、突然乱入してきた上級生に困惑している。しかも、宵紗は立派な体格に格好も相まって、かなり怖い。

凪のところまで行った宵紗は、椅子ごと凪を床に押し倒す。

「…え?…せんぱい?」

まだぼんやりした様子の凪。
周りは、急にドアから先輩が入ってきたかと思ったら同級生を押し倒すのだから、それはそれは怖い。突然の出来事に悲鳴が上がり、慌てて席を立って距離を取る人たちが立てる物音も連鎖する。


そのまま凪の体に軽く力を入れると、軽い凪は簡単にうつ伏せになった。邪魔な椅子を蹴り飛ばすと、再び悲鳴が上がる。
マスクを下げて、凪の白い首に手を伸ばし、項に噛み付こうとした瞬間、ある言葉が脳裏に蘇る。

―Ωはね、ここ噛まれたら終わりなんですよ

昴琉が、後輩のあのΩが言っていた言葉。いつ何で言われたやつだろうか。
子供の頃から、何があっても衝動でΩの首を噛んだりしちゃだめだ、と教えられてきた。

宵紗は無意識に凪の項を自分の手で覆う。そして次の瞬間、自分の手に鋭い痛みが走った。自分の歯が手に食い込んで痛い。激しく痛むのに、噛むのをやめられない。
自分の手の甲から血が出ても、宵紗は止まれなかった。


急に飛び込んで来て、同級生を押し倒したまま、自分の手を血が出ても噛み続ける宵紗を見て、誰もが恐怖で動けなくなっていた。しかも宵紗はαで、それも特性の強いαだ。威圧感も並大抵のものではなかった。


「…っ、誰か…!」

震える声が上がり、周りがハッとして動き出す。

「っラット!」

「バース科の人呼んで!」


宵紗自身、何が何だかわからなかった。ただ、全身の全てが凪を求めていた。





凪はわけがわからなかった。急に、教室が騒がしくなって。気づいたら目の前に先輩がいて、次の瞬間には先輩の奥に天井があって。そしたら急に視界いっぱいに黒が広がって。それが床だって気づくのにも時間がかかった。
首にすごい圧がかかって、視界が真っ白で。


「…かんで…」

自分でも何を言っているのかわからない。でも、身体が熱くて、じりじりする。初めての感覚でぞわぞわする。
そして、背中で、息を呑むような気配がする。




目の前の凪が、望んでいるのだから。手をどけて噛んでしまえばいい。でも、それは間違っているような気がした。まわらない頭で、必死に考える。
その間も、凪は熱に浮かされたみたいに、噛んで噛んでとせがんでくる。

「…だいじょうぶ」

「だいじょうぶだよ、なぎ」

凪を抑え込んでいた腕から力を抜いて体を起こす。凪は理解できていないみたいで、不安そうに宵紗に手を伸ばしてくる。
なんで?、やだ、と言う凪を撫でてやりながら必死に呼吸を落ち着かせる。


廊下の方からバタバタと足音が聞こえて、教員が入ってくる。バース科の人と、体格がいい人。たぶん、俺を抑え込んで沈静化するための人選だろう。


βのはずの学生がヒートを起こしているという異常事態。しかも大学でも群を抜いて体格のいいαである宵紗がラットだとなれば最悪の事態だ。



「白瀬くんをこちらに」

有無を言わせない声色。頭では分かる。今の自分と凪は一緒にいるべきではない。今すぐ凪を預けるべきだと。
でも、本能はそれを許さなかった。凪を引き寄せて懐に収めて抱きしめる。

教員が近づいてきて、無意識に唸る。自分の喉から、到底人間とは思えない、獣じみた唸り声が出る。

「近づくな」

凪を抱きしめると、凪の体は俺の身体に簡単に隠れた。

「俺のだ」

なにに対して言っているのか、自分でもわからない。でも、凪は自分のものだ。こいつらを近づかせちゃいけないと本能が言っている。

この場にいる大人が、宵紗を抑えるために一斉に動く。体格のいい教員が宵紗のほうに手を伸ばしてくる気配がする。
途端、脳は、こいつらは敵だと判断する。視界が赤く染まる。

「触るな!」

反射的に体を捻ってその手をかわすと、宵紗の大きな身体で机や椅子が揺れて倒れる音が教室に響く。
グレアを出すと、大人たちは怯んだ。周りの人がきゃあきゃあ言いながら騒いでる。たぶん、俺のグレアにあてられて具合が悪くなった人がいるんだろう。

「落ち着け、橙柊」

宵紗を抑え込む機会をうかがう教員陣を睨みつける宵紗の胸元で、凪が軽く身じろぎする。

「…せん、ぱい?…」

よくわからないという表情で、不安そうに俺の服を握りしめている凪。俺のグレアのせいでさらに不安にさせただろうか。守らないと、という衝動に駆られる。
凪を手放さないと、と分かっているのに、この腕は緩めてやれそうにない。熱に浮かされて、必死に自分に縋り付く可愛い凪を、こいつらに渡せるわけがなかった。



「橙柊くん、一旦、病院に行こう?」

宵紗と教員が睨み合う沈黙を破ったのは、この場にはそぐわないぐらい穏やかな声だった。
あの宵紗がラットだと聞いて、授業を中断して駆けつけてくれたのは、あの鷹宮 和臣たかみや かずおみ教授だった。宵紗が一番懐いていて、凪にも慕われている。宵紗に凪の名前を教えてくれたあの教授。

宵紗は、聞き慣れたその穏やかな声に顔を上げる。

「一緒なら、連れて行ってくれるかい?」

「…うん」

「いいですよね?同行しても」

鷹宮教授の、珍しく圧をかけるような言い方に、教員たちは一瞬ひるむ。普段穏やかに微笑む優しいおじいちゃんの先生が、αの威圧感も隠さずに自分の意見を押し切る姿なんて初めて見た。たぶん教員たちもそうなんだろう、だいぶ驚いているから。そして宵紗には同行が認められた。

それは、普段の行いのおかげでもあった。耳にいくつもの金属を光らせて、黒マスクで顔を隠して。前髪は常識ではあり得ないぐらい伸ばしていて。ただ、それは見た目だけで、課題や講義には真面目に取り組む。わざわざ質問に来て、遠慮がちに質問をする。距離は詰めるけど、相手の様子を慎重にうかがう。
態度だけで言えば、真面目で、優等生なのだ。



「…かかりつけ医、近いんで、そこでいいですか」

教室を出ながら言う。いつも通っているあそこなら近いし、何より信頼できるから。

「かまわないよ。車を出そうね、場所を教えてくれるかい?」

「うん。ナビ入れる」


鷹宮教授が車を出してくれると言うので駐車場に向かう。車に乗ろうとすると、いつもは落ち着くはずの鷹宮教授の香りが、何だか不快だった。ここに凪をいれるのか?

「…教授、αだよねぇ」

「ああ、嫌かな。ごめんね」

「ううん」

「白瀬くんに上着着せてあげなさい」

明らかに嫌悪感を隠せていない宵紗の声にも、鷹宮教授は嫌な顔一つせずに微笑む。
上着を脱ぐために座席に凪を下ろすと、慌てたようにこちらに手を伸ばしてくる。

「…っせんぱい?」

「だいじょうぶ。ちょっと待ってね」

上着を着せてやると、明らかにサイズが合わない。肩は落ちて、袖は手を隠してしまう。でも、宵紗の匂いに包まれたからか、凪は少し落ち着いた様子だ。宵紗も、凪に自分の匂いがついていると落ち着く。多少ラットが落ち着いたとはいえ、αの本能はある。自分のものには自分のものだと印をつけておかないと。


「ねぇ、おみちゃん、水ない?」

少し落ち着いてきて、抑制剤を飲んておこうと思い至る。普段飲むやつと別に、緊急用のものをもらっていた。緊急用なら肌身離さず持っておこうと思ってポケットに入れてある。水があったほうが飲みやすいんだけど、と思うぐらいには余裕が出てきたらしい。

「あるよ。助手席に置いてしまったけど」

シートベルトを外して助手席に手を伸ばす。俺の腕なら全然余裕で届くし。

「買っといてくれたの?」

抑制剤を飲みながら聞く。

「一応ね」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

咄嗟にこういう事が出来るのは経験値だけじゃないと思う。俺は鷹宮教授のこういうところが好きだ。
あと、臣ちゃんとかいう一見ふざけたあだ名も許してくれちゃうところ。教授の下の名前が和臣かずおみって知らない人の前で言うとマジで通じない。


しばらく乗っていると、見慣れた駐車場に着く。

「ここであってるかい?」

「うん。まじでありがとう」

凪を抱き上げて受け付けのほうに行く。俺がラットになってパニクってる間に連絡しておいてくれたらしい。なんか、前にてきとーに言った病院の名前を匡弥が覚えてたらしい。駆けつけて、おかしいと思って連絡してくれたんだって、臣ちゃんが言ってた。今度なにかお礼して謝らないと。

丁度予約はなかったらしくて、そのまま診察室に行っていいと言われる。
慣れたはずの白いドア。伸ばした手が震えているのは、見なかったことにする。
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