普通のβだった俺は

りん

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何度も訪れて、すでに慣れたはずの診察室に入る。いつも通り白くて、少し消毒の匂いがする場所。

でも、自分の腕のなかにはヒートを起こした凪がいる。説明のために来てくれた鷹宮教授と、凪の講座の授業をしていた教授が後ろにいる。

担当医は、明らかにおかしい様子を察しているようだった。でも、態度には出さないで穏やかに挨拶をしてくる。

「随分と…賑やかだね」

穏やかに微笑みかけても、目線すら合わせない宵紗にさらに違和感を感じているようだ。

「…そんなにしょげて、どうしたんだい?」

宵紗は一瞬言葉に詰まったようで、喉をひくりと動かして静かに答える。抑制剤が効いていて、頭はクリアなはずなのに、うまく考えられない。

「…俺の、せいで」

「うーん、とりあえず、彼を寝かせようか」

「…離してくれる?」

静かに、伺うように宵紗に聞いてくる担当医。移動中に眠ってしまった凪は、浅い呼吸のまま目を覚まさない。

「…いや、だけど」

「先生ならいいよ」

「…!そう。ありがとう。とりあえずここに寝かせてくれる?」

宵紗が横のベッドに凪を寝かせると、医者は静かに立ち上がって聴診器を耳に当てる。

凪が他人に触れられているという不快感に、軽く顔をしかめると、

「はは、嫌だよね。でも、警戒することはないよ私はβだ」

気づいた医者が穏やかに微笑む。そういう問題じゃないんだけどな。ただ、αじゃないだけマシだけど。

「とりあえず脈とかは大丈夫」

「で、彼はβとして生活してきたんだね?」

「はい。書類とかも全部βと」

凪について質問する医者と、答える教授。

「まあ、特性が出るのが遅かったり、環境で抑え込まれたりってことはあるし。Ωだったのかもしれないんだけどね」

「とりあえず数値だけ取らせてもらって、それからいろいろ確認しようか」

凪は検査を受けることになって、宵紗たちは待合室で待つことになった。誰も口を開かず、沈黙が続く。



しばらくして、診察室の扉が開いて先生が顔を出す。

「結果が出たのでどうぞ」

診察室に入ると、凪はまたベッドに寝かせられていて、先生が何やらパソコンと画面をいじっている。

「うーんと、わかったことは全部言っていいのかな?」

「…うん」

「正直言うと、私にもよくわからない部分があるんだけどね。わかっていることは伝えるね」

軽く前置きをしながら、先生はパソコンをいじって何かの表を出す。

「数値から言えば、この子はβだ。つまり、遺伝子はβのものってこと。臓器もそうだしね。妊娠器官を持たない」

それは、知っている。だってずっと凪からはβの気配がしていたんだから。

「でも、実際ヒートは起きたし。この子が出していたフェロモンはΩのものなんだよね」

宵紗はなんだか息が詰まるような感じがした。

「バース性の顕現が遅いことは珍しくない。でもね、一度定まった性が覆されることは、基本的には無い。国内では報告されていない」

「…じゃあ、国外に、例外がいるってこと?」

「まあ、そうだね」

「それは、何?」

「ビッチングとか言われるんだけどね、αにあてられて、βがΩになったっていう症例があるんだよね」

「…じゃあ、凪は、Ωなの」

違うと言ってほしい、否定してくれ、と祈りながら聞く。

「これからは、Ωとして生きていくことになるね」

そんな俺の祈りを裏切るその言葉は、俺のなかの何かを壊した。何かが音を立てて崩れる感覚がして、頭の中が真っ白になる。だけど、心は真っ黒だった。

βっていうのは、いわゆる"普通"の性。ヒートもラットもなくて、フェロモンに左右されることもない。身体的にも精神的にも、社会的にも安定している。危険も少ないし、人生の選択肢だって多い。

でも、Ωは違う。弱いと言われ、虐げられてきた性だ。今はだいぶ無くなったけど、それでも差別や偏見が無いかと言えばそんなことはない。性犯罪の被害者にだってなりやすい。αに抑え込まれたら勝てない。発情期があるから、雇用してくれないこともある。

凪は、βだった。当たりの性別。俺や昴琉みたいに、薬に頼らなくても"普通"に生きていける。

それなのに、俺がいたから。
薬を飲んでいれば大丈夫だと思った。βだから、軽く噛むぐらい何ともないって。Ωであっても甘噛みなら大丈夫だから、βなら何もないって。

無意識に目線が凪のほうに向く。上着に包まれたまま、まだ眠っている。細くて、白くて、でも大きい体。Ωでは、ない。

Ωとして生きるということが、どういうことか。宵紗は嫌というほど知っている。
ヒートを悪用されて、無理やり番にされて、そういう事件は定期的に報道される。
高校時代、だんだんと薬の大量服薬を隠すことすらできなくなっていた昴琉。やめなよって言えば、これがないと無理だからと微笑まれた。諦めちゃったみたいな、これが当然みたいな目。

凪は、そんな世界にいるはずじゃなかったのに。
いるべきじゃないのに。

―俺が凪を壊したんだ

喉が詰まって、うまく息ができない。呼吸が浅くなる。

凪の人生も、安全も、普通も、何もかもを。壊してしまった。


突然黙り込んだ宵紗を、医者たちは気遣わしげに見ていた。

「…橙柊くん」

「君のせいとは言わないよ」

慰めか? それは、俺への。情けなくて惨めな俺への憐れみなのか?
どう考えても俺のせいだろう。俺がそばにいたから、噛んだりするから。


「今後、安定するまでは、安定した環境を用意すべきだ」

「バース性が変わるのに合わせて、フェロモンや身体も変化する可能性が高い。できるだけ安心できる環境をつくる必要がある」

「隔離すんの?」

「逆かもしれないね。彼に求められたら、そばにいてあげるべきだと思うよ」

「そう」

もう、医者の話も何も頭に入ってこなかった。
だって、Ωになってしまうなんて。可哀想とか、大変とか、それどころじゃない。
周りとの関係だって変わってしまうかもしれない。昴琉は、親友がαだから、定期的に距離をとっていた。しんどいって。どっちも苦しい顔して距離を取るんだ。

凪は、たぶん親に愛されてる。たまにする家族の話は、ありきたりで、特別さなんて全くなくて。でも、愛されてるなって思わせるものだった。
両親と凪の3人家族で。βの凪は第2性に振り回されることなんてなくて。夕飯の話とか、休日はどうとか、些細な喧嘩をして仲直りをするだとか。当たり前のように話すその話の端々からは、「愛されて育った」ということが滲んでいた。
宵紗も愛されて育った。でも、それを超えるぐらい大事に大事に育てられたんだなと思う程だった。両親への信頼と安心と愛情を感じた。

それを、壊したかもしれない。

Ωになれば、少なからず生活は変わる。心配も、制限も、危険も増える。凪の家に、"普通"は戻らない。
両親から見れば、可愛くて、大事で、ここまで守ってきた、愛おしい一人息子なはずだ。それを自分は奪ってしまった。

穏やかな家庭は過去のものになる。関係だって歪むかもしれない。

―俺のせいで

何度も何度もその言葉が頭を巡る。



宵紗は軽薄そうだと思われることも多い。面倒くさそうに笑って、適当に流して、だるだる距離を詰める。

でも本当は、真面目で、他人思いで、誠実で責任感が異様に強い。そして、繊細だ。

気に入ったものは手放さない。守ると決めたものは最後まで守り抜く。決して手放さない。
愛したものは何があっても抱え続けて愛し抜く。

だからこそ、今回のことはあまりにも重すぎた。

担当医や教授が何かを言っているが、宵紗には聞こえていなかった。どんなに穏やかに言葉をかけられても、宵紗の胸には届かない。ただの慰めにしか思えない。

―俺のせいで凪の人生が壊れた

その後悔だけが宵紗を支配していた。


「…せんぱい?」

少し意識を取り戻した凪が宵紗を呼ぶ。普段なら嬉しかったそれすら、残酷だった。
これが、お前がやってきたことだ、お前のせいだ、と過去の行いを突きつけられているようで。
宵紗が耐えられなくなって歯を食いしばる。静かな診察室に、奥歯の軋む異質な音が響く。


「橙柊君?」

担当医が慎重に声をかける。教授も気遣わしげに声をかけるが、反応がない。
宵紗は視線を床に落としたまま、浅く呼吸を繰り返していた。

しばらくして、掠れた声を零した。

「…ごめんなさい」

初めて聞く、驚くほど弱々しい声に医者や教授は驚く。

「橙柊君、謝る必要は」

その言葉を遮るように、宵紗は繰り返し掠れた声を零す

「違う、俺が悪い」

「そんなことはないよ」

医者が少し強めに否定した瞬間、宵紗が急に顔を上げる。そして、それを掻き消すように声を荒げる。

「違う?何が!俺が!俺が関わったから!」

「凪は…凪の人生はめちゃくちゃだ!」

診察室の空気が凍りつく。
普段、面倒くさそうで無気力で、穏やかで決して手を挙げたり声を荒げたりしない。その姿を見てきた人ほど、今の姿は異常だった。

呼吸を乱して、激情を吐き出すように、怒鳴るように自分を責める。


宵紗は、知っている。自分を落ち着かせる方法を。あんなひどい状態だったあの時ですら、一時的に落ち着かせられた方法を。
…そして、ここに何があるのかも。

不意に宵紗が動く。予兆もなく伸ばされた腕に、周囲の反応が遅れる。
先生の机の上。ペン立ての中。

―これでいい
―これがあれば落ち着ける

ただ、宵紗よりも、机に向かっていた先生の方が"それ"に近かった。カッターを取った宵紗の手を先生がはたいて、宵紗はカッターを取り落とした。
急いで手を伸ばした鷹宮教授が宵紗からそれを遠ざける。

「だめだよ。橙柊くん」

そんなことぐらい分かってる。これがだめなことぐらい。分かってたからあの時も隠したんだろ。
でも、無理だから。もう無理だから。
後悔と、責任感と、後悔と、罪悪感と、何もかもに押し潰されそうだった。すでに宵紗の心は限界を迎えていて。だから、逃げようとしたのに。逃げ道は奪われてしまった。

どうしようもなくなった宵紗は、自分の腕に爪を立てていた。そのまま手を噛む。何か、自分に罰を与えないと耐えられない。何か、痛みがあれば、耐えられるかもしれない。





宵紗以外から宵紗についての連絡が来たとき。その直後、宵紗が来たとき。担当医は明らかにおかしいことに気付いていた。声のトーンも、落ち着かない視線も、浅い呼吸も。
だから、すでに連絡をしていた。昴琉に。

少し前、昴琉はその異常な感覚の鋭さで、宵紗が通院していることを当ててみせた。そして、心配だと言っていた。

「あの人は、繊細だから。心配です。薬とか、向いてないと思います」

「俺だったら大丈夫だけど。あの人は心の痛覚が死んでないから」

そして、「何かあったら連絡してください。どうかお願いします」と、何度も何度も頼んできたのだ。


宵紗の方も、昴琉のことは気にかけているようだった。診察の前、診察の後、少しだけ聞いてくるのだ。

「…ねぇ、昴琉は元気?」

「まだ、薬何個も飲んでるの?」

「あれはさ、乱用じゃないわけ?」


宵紗は、繊細で、他人の痛みに敏感で、誰よりも自分に厳しい。それは過去の診察で分かっていた。
だから、どこまで伝えるかは、正直かなり迷った。ただ、彼は無駄な隠し事を嫌い、曖昧な説明や都合のいい説明には勘づく。だから、話した。賢くて、大人びている彼なら聞いてくれるだろうと。そして、知る権利がある、と。検査結果は隠すか聞くと、βだった青年は、相手次第でいいと答えた。

でも、結果を伝えて、宵紗が俯いていったのを見て、これはだめだと思った。どんなに言葉を選んで、落ち着かせても、この子は耐えられないと。
だから、昴琉に連絡をした。彼は、橙柊君の「お気に入り」だったらしい。Ωとかαとか抜きにして。ただの後輩で、ただの可愛い子。その「ただ」が、宵紗にとってどれだけ大事なものなのかもわかっている。
この子が限界になったら、きっと助けてくれる。そして、助けになれることを、昴琉は望んでいる。

目の前で、自分の手や腕を傷つけて血を流し始めた橙柊を見て、早く来ないかと、柄にもなく焦った。
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