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第2章
第9話 秘密の顔
次の日から突然、馬鹿みたいに仕事に行くのが楽しく思えるようになった。
有り難いことにあの人は本当にしょっちゅう荷物を頼むので、ほぼ毎日会うことが出来た。
一日の仕事の辛さは何も変わらないけど、この荷物の山をはければ最後にはあの人に会える……そう思うだけで重い荷物も軽く感じるくらい力をもらえたし、一日の終わりにあの笑顔を見るだけで、疲れは一瞬で吹き飛んだ。
いつもより訪ねるのが遅くなってしまった日のことだった。あの人に突然、
「三ツ矢さん、可愛いから付き合ってる人とかいるんでしょ?」
と聞かれた。その時私は不用意にも一瞬期待してしまった。でも2秒で我に返り、
「全然可愛くなんかないし、彼氏なんかいないですよー!」
と、しっかりあの人に合わせた答え方で返した。
私は生まれてこのかた、男の人と付き合ったことはない。生まれつきの女好きで、物心ついた時から見つめる先には女の子しかいなかった。
実際、私みたいなのはレズの中でも少数派で、女が好きな女は大抵間違いを犯してからその道へ進む人の方が圧倒的に多い。だから、「男と付き合ったことは一度もない」と話すと、本来仲間であるはずのレズ達からも驚かれる。
装った私の返事に、あの人は笑顔のままで当たり障りのないお世辞を言った。
レズには特有の匂いがある。それは鼻で感じるものじゃなく、目と感覚で感じる匂い。同類であれば、なんとなくその匂いを感じとることが出来る。
だけどあの人は全くの無臭で、なんの匂いもしなかった。
あれだけ綺麗なんだから、きっと人生のどのステージでも男にモテ続けてきたんだろう。というか、今だって彼氏がいるのかもしれない。
もしかしたらその話をしたくて私にあんな質問を振ってきたのかもしれない。それなら聞き返してあげるのが礼儀だけど、あの人の口からそんな話は聞きたくなかった。だから私はいつもの営業スマイルを使って上手に流し、話の隙を作らずに玄関の扉を閉めた。
高望み以前に相手はノンケで、どうこうなれるわけじゃない。少しプライベートに触れたような会話だってなんの意味も成しはしない。そう分かっていても、あの人が私に少しでも興味を持って色々と話しかけてくれることが嬉しかった。
せめてこの関係から少し離脱出来たら。多くは望まない。友だちと呼べるくらいになれたらいい。
そう考えてみたこともあったけど、遅くまで仕事をする私を労い慈しむように送られてくる視線、荷物を渡す時にたまたま触れる指先、女の私に油断した少し露出度の高めな姿に、私は毎晩欲情せずにはいられなかった。
もし今より距離が縮まったとしても、友だちでいることなんて無理だろう。私はあの人を見れば、いつだって抱きたい衝動にかられてしまうから。
ゴールは見えないのに、それでも心は今よりもっとあの人の近くにいきたいと、そう願ってしまう。
一方で、冷静さを取り戻し考えてみると、よく知りもしない相手にそんなことを思うなんてどうかしてるとも思った。
女の子との経験は両手じゃ数えられないくらいあるけど、相手を本気で好きになったことも、心を許したことも一度もない。私は今まで出会ったことのない自分に困惑していた。
どうしてあの人にだけそう思うのかが分からない。美しすぎることは、それだけでは理由にはならないと思った。私は偏屈な人間で、姿形だけで心が動かされるほど純粋な作りで出来てはいない。
確かに優しくて気遣いが出来て、きっと普通に性格のいい人なんだろうとは思う。だけど、荷物のやり取りと世間話を重ねたくらいでは、心根に惚れるほどの中身は知らない。
『どうやって落ちたのか分からないのが恋』
誰かがどこかで言っていた安っぽい俗世の言葉を信じるなら、これが『恋』というものなんだと納得するしか他なかった。
***
その日は休みだった。
普通の会社員と違って私の休みは基本平日で、いつもならそれが有効に働く。月曜日の昼のレジャースポットの人の少なさと言えば、まるでそこが自分の城に思えるほどで、ショッピングモールでも映画館でも、どこへ行っても悠々と過ごせた。私はこの仕事をしていて、これが唯一の利点だと思っていた。
だけどその日だけは違った。
会社で義務付けられた健康診断へ出向かなければならず、いつもよりも早く起きた。最寄りの駅までの道を歩きながら、すでに平日の朝の洗礼を受けた。
狭い歩道に、この街にはこんなに人が住んでいたのかと驚かされる数の人がほぼ同じ方向へ、同じ速度で向かう。その中を子どもを後ろに乗せた自転車がビュンビュンと追い越してゆく。車道の自転車レーンには縦に並んで大声で会話をしながら、学生たちが次々と前のめり運転で走り抜けてゆく。
でもそんなものはまだ序の口だった。ようやく駅に着きホームへ出ると、電車を待つ人の列は全校集会さながらの密度で驚愕した。更に、普段車での移動しかしない私にとって、到着した満員電車は想像を超越する、嘘みたいな現実だった。
すでに限界だとしか思えない車両に、一人また一人と乗り込んでいく光景はイリュージョンのように見えた。そうじゃないなら、奥の方の人は紙のように薄っぺらくなってるはずで不安になった。とても乗れないと一本見送った時、流れていく車両の後方に『女性専用車両』の文字を見つけた。
ホームを端まで歩いてみると、地面にそれを指し示す表記があった。ここから乗ればその車両に乗れるらしい。
数分後、到着した車内はやはり混み合っていたけど、女性ばかりだと思えばさほど嫌な気はしなかった。車内に一歩足を踏み入れた瞬間、強大な力で私は一気に中央まで押しやられた。
息苦しさにぐったりしながら、あの人も毎日こんなふうにして通勤してるんだなと考えていた。私なんかよりずっと立派な仕事をしてるであろうあの人を、不憫に思った。
満員電車初心者の私にはとても耐えられない圧迫感に、せめて外の景色でも見て紛らわせようと窓の方を見た。その時、思いもよらない奇跡に遭遇した。なんと、視線の先に私と同じように怪訝な面持ちで電車に揺られるあの人を見つけた。
こんな偶然!!と押し潰されている状況にも関わらず一気に嬉しくなり、なんとか近くまで行けないかと地味に少しづつ人混みの中でポジションをずらしていった。
声をかけたらきっと驚くだろうな……
喜んでくれるかな……
そんな期待をしながらその横顔に向かって更にじりじりと近づいて行く。もう手が届くという距離までたどり着いた時だった。
突然、あの人の表情が曇り始めた。
どうしたんだろう……?
少し後ろを気にしているような仕草を、私は見逃さなかった。
彼女の後ろには、彼女よりも一回りほど年上の女の人がぴったりとくっついていた。それは、いくら混んでいると言っても、不自然な距離感とくっつき方だった。
まさか……
私はあの人のその困った顔の理由をすぐに悟った。
あの人は現実逃避をしているのか、ただ耐えようとしているのか、窓の外へ視線を向けていて私に気づく様子はない。
そしてついに、私は人と人の隙間から決定的な場面を見てしまった。
後ろに立っていた女の右手があの人の腰に触れていたかと思うと、更に下へと下りていくのを……
周りの人間に見つからないよう気にしながらも、かなり大胆な行為に及んでいるように思えた。高揚を隠しきれずに、あの人の髪の匂いまで嗅いでいる。
私はいい加減に我慢出来なくなった。
あの人の下半身を勝手に撫で回すその手を、私は左手で捕らえた。手首を掴まれた女は焦った表情で私の方を振り返った。
その瞬間、タイミング悪く大きな音を立てて目の前の扉が開いた。女は私の手を力づくで振りほどくと悪びれもせず、まるで被害者ぶるように私を睨みつけながらあの人を追い越して降りて行った。
私はこのまま逃がすものかと、あの人を心配な気持ちを堪え、扉が閉まる前にあの女の後を追って電車を飛び降りた。
人混みに紛れ一度振り返ってみると、再び閉まる扉の端で、あの人は暗い顔をして疲れたように立っていた。それを見てさらに許せない気持ちが増幅していった。
女の向かった方向へしばらく人混みをかき分けて前へ進むと、印象に新しい後ろ姿を見つけ、再びその手首を捕まえた。
「待って下さい!!」
「何よ!?離しなさいよ!!」
女は背の低い小柄な私を子供のようにナメていて、私がひとまず手を離すと、自分の罪をまるで分かっていないように強気な態度で反抗してきた。
「私、見てましたよ、あなたがしたこと」
私の言葉に女は周りを気にし始めた。この人混みの中、私にこれ以上下手なことを言われたくないんだろう。かと言って逃げるには体力と歳の差からして難しいと判断したようだった。女は一旦反発するのを止めて、周りの集団が流れ去るの大人しくそのまま待ってから、ようやく口を開いた。
「何が悪いの?多少体が触れたくらいで大袈裟な……」
「多少触れた?何言ってるんですか?あれは完全に自分の意志で触ってた。完全にチカンでしょ!あなたがしたことは犯罪ですよ!」
私が誤魔化しても騙される人間じゃないと分かると、女は鼻で笑い逆に開き直り始めた。
「何がチカンよ、女同士で……」
「女同士だからチカンにならないなんて理由にはならない」
「だとしたって、当の本人が嫌がってないんだから、なんの問題にもならないわよ」
「は?!そんなの!ただ言えないだけじゃないですか!」
私がそう言うと、女は私を面白がるよう声に出して笑った。
「いいわ、教えてあげる。あの子ね、私が毎朝毎朝同じことしてるのに、毎朝毎朝きちんと同じ時間、同じ車両に乗ってくるのよ。もう今日で一週間。分かる?待ってるのよ、あの子は私にそうされたいの。そう望んでるのよ」
女はあの人への行為を思い出しながら愉悦の表情で笑みを浮かべていた。私には、その女が子どもの頃、昔話の絵本で見た人喰いの妖怪に見えた。
女は私を品定めするかのように足元から全身を見てから、上から目線で続けた。
「あなたには分からないかもしれないけど、私たちみたいな人間は毎日会社で色んなストレス抱えて大変なのよ。だからそれを癒してほしくて彼女も私の手を受け入れてるの。私と彼女は言葉こそ交わさないけど、お互いにそうやって与え合って繋がってるのよ。だからあなたの余計な心配なんて必要ないの」
あの人が、この女のチカン行為を受け入れている……
私は聞かされた衝撃的な話に立ち尽くすしか出来なかった。さらに女を問い詰めることも、質問することも出来ないまま、ただ言葉を無くした。だけど、女を憎む気持ちだけは消えず目だけで責め続けた。
「な、なんなのよ……頭おかしいんじゃないの?」
女は相変わらず自分のことは棚に上げ、私を異常な人間扱いして去っていった。
さっきの人混みが幻のように広々としたホームで一人考えていた。
チカンをしていたあの女の言うことに信憑性なんてない。
でも、一度の犯行を目撃された相手に『一週間毎朝している』という不利なことを自ら告白する意味が他には考えられない。
あの人がそれでも受け入れている、それが事実であるということ以外、他には……。
ついさっき見た鮮明な横顔を思い返す。
あの人のあの困ったような表情は……
触られて感じている顔だった……?
あの人は私以外の人間に感じていた。
それも女の人に……
それは何よりも耐え難い事実だった……。
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