月夜の理科部

嶌田あき

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3.下弦

第17夜 データとプログラム(上)

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 土曜日の昼下がり、レネさんから突然入った〈大事な話がある。研究所に来て〉という謎めいたメールに従い、私は情報通信研究所に急いだ。
 研究所は私の家から、駅と反対方向に自転車で15分程のところにある。もともと畑だったところに県が誘致し、10年程前に東京から移転してきたのだ。ひときわ目を引く25階建ての研究本館。研究所のまわりは住宅やホームセンター、ファミレスのチェーン店が並ぶ程度で、他に高い建物はない。町外れからもよく見えた。
 5階〈證大寺研究室〉の木札が下がる扉を、恐る恐るノックする。もちろん、家を出る時に父がソファーで本を読んでいたのは確認済みだ。今日は、研究所ここには居ないはずである。

「どうぞ」

 レネさんの声が聞こえる。扉を開けてすぐ、私は暗い表情の彼女を見つけた。整然とオフィス机が並ぶ部屋。促されるまま、テーブルを挟んで向かいの小ぶりなスツールに腰掛けた。

「ここはね、私が院生のときに居た部屋なの」

 父は大学に研究室を構えるほか、この国立研究所にも籍を置いた。そして、證大寺研の学生の半数ほどは、テーマや実験装置に応じてここに来ていたという。去年まで彼女もそのうちの1人だった。

「はいこれ。月面基地にデータを送る通信プログラムが入ってるわ」

 そう言ってレネさんに瑠璃色のUSBメモリを手渡された。

「水城くんには、この前話したんだけど――」

 そう言って彼女は7月に私が勝手に部屋を飛び出したあとユキくんに説明したことを、改めて説明してくれた。

「私の脳情報データが、月に送られてしまったとこまで、話したわよね?」
「はい。確か、コピーできなくて。でも月面基地にはちゃんと残ってるんですよね?」
「あのね、この話にはね。続きがあるの」
「ええっ?」

 大事なことを後から言う彼女の性格をようやく思い出した。暗い彼女の表情から、深刻な続きが隠れていることは分かる。いつもの艷やかな髪も、今日は灰をかぶったみたいにくすんでいた。

「月面基地のサーバーは、望遠鏡の観測データの保存にも使われているの。それでね――」

 レネさんの話はこうだ。
 月面望遠鏡での観測のたび、膨大な量の観測データが生まれる。通常データもあれば、コピー不可の量子データの場合もある。いずれの場合も、月面基地内のサーバーに一時保管される。

「サーバーがパンクしないよう、古い順にデータが消去されるしくみになってるの」
「ふーん。そうなんですね。ってあれ? それじゃ」
「そう。このまま順調に観測が続けば、私のデータはいずれ消されてしまうわ」
「ええっ!? そんな。――でも、いずれ、って?」

 レネさんは、現在までの望遠鏡の観測スケジュールと観測内容、サーバーの保存区画の残量から、詳細な削除日をすでに計算していた。予想では、来年4月25日深夜から26日の未明にかけて。

「え、ちょっとまってください! それって、レネさんの観測時間マシンタイムの日じゃないですか!?」
「そう」
「まさか――」
「そうなの」

 レネさんは肩をすくめた。

「もう、あのデータに捕らわれて、生きていくのは、おしまいにしようかな、って思って」

 だから、あれほど貴重な観測時間マシンタイムを、彼女はいとも簡単に高校生に譲ったのだ。
 先輩は確実に4月25日に月面望遠鏡で観測を行い、結果としてレネさんのデータは消去される。だからこそ、彼女は何があっても観測を行う確率が高い先輩に観測時間(マシンタイム)が渡ると読んで、私に託したのだ。そうに違いない。

「ダメですよ! 自暴自棄になっちゃ。今はまだ方法は分からないけど。なんとかして、地球に持って返ってきましょうよ! ね!」

 思わず立ち上がり、レネさんのもとに駆け寄った。香水のいい匂いと耳にかかる長い髪。羨ましいくらいにミステリアスで妖艶だ。レネさんは伏し目がちに私を見て、にっ、と作り笑顔をした。

「2年前の皆既月食、覚えてる? お正月で晴れてたし、結構多くの人が見たと思うけど?」
「はい、覚えてます。お父さん、元旦なのに研究所につめてたような……」
「そう。あの日、実験をしたの」

 月にあるデータを地球に戻すには、月と地球の間でレーザー通信する必要がある。しかし、いま取り戻したいデータはとても脆弱だ。ちょっとしたことで、すぐ壊れてしまう。
 レネさんの話では、当時、父は太陽の影響を気にしていたらしい。月と地球の間の宇宙は、何もない空間ではない。太陽からの強烈な放射線や太陽風と呼ばれる高エネルギー粒子に満ちあふれている。父はそれを避ける案を講じた。

「證大寺先生の案は、皆既月食のときなら地球が守ってくれるだろうってことなの」

 月と地球でレーザー通信しているときに、強烈な太陽風が来たら、レネさんの脳情報データはひとたまりもない。それを恐れた父が目をつけたのは月食だった。
 月食のときには月は地球の影に入り、太陽の光が当たらなくなる。

「月から見ると、このときは地球の影に太陽が隠れる日食になるの」
「あーなんとなくわかります」

 父とレネさんは皆既月食の時にできる、月と地球の間の影を使うことを思いついたのだった。そこだけを通ってレーザー通信すれば、データを傷つけること無く取り戻すことができそうだった。

「――でもね、実験は失敗。月面基地に接続要求する最初の通信すら確立できず、皆既月食中にデータを地球に送り返すなんて、できなかったの。原因はいまも不明」

 レネさんはとても残念そうな顔をした。私は彼女のすぐとなりに回り込み、バーカウンターで話すみたいに顔を覗き込んだ。彼女の話にはまだ続きがあるような気がした。

「私、アメリカ行けなくなっちゃった……」

 レネさんは片肘ついて、まるでウイスキーを舐めるようにコーヒーを少し口に含んだ。
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