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第2章 さよならのない別れ
2-4 涙の意味
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佐伯さんは涙を拭いながら、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。やっと⋯⋯やっと言えました。そして、やっと聞けました」
その表情は、来た時とは全く違っていた。深い悲しみは残っているけれど、同時に穏やかな安らぎも宿っていた。十五年間の重荷が、ようやく下りた表情だった。まるで長い冬が終わって、やっと春が来たような、そんな優しい顔。
「千鶴と美咲は、僕に『前を向いて生きなさい』と言ってくれました」
佐伯さんが静かに言った。
「これから、二人の分まで生きてみます。もしかしたら、新しい出会いもあるかもしれません」
「きっと、お二人も喜ばれますね」
夏希が心からの笑顔を浮かべた。
「憶さん」
佐伯さんが僕をじっと見つめた。
「あなたの涙を見て、気づいたことがあります。愛することの美しさを、あなたも理解されたのですね」
僕は頷いた。自分でも驚くほど、心が震えていた。
「はい。佐伯さんの愛情の深さに触れて、初めて分かりました。人間の感情って、こんなにも深くて美しいものなんだと」
「大切になさい」
佐伯さんが優しく言った。
「その気持ちを。きっと、特別な人がいらっしゃるのでしょう」
僕は思わず夏希を見た。彼女も僕を見つめ返していた。その茶色い瞳に、何か特別な感情が宿っているような気がした。
佐伯さんが立ち上がり、最後にもう一度深くお辞儀をした。
「十五年間言えなかった『さよなら』を言えて、そして『愛している』も伝えられました。これで、新しい人生を始められます」
波音堂を去っていく佐伯さんの背中は、もう重荷を背負っていなかった。軽やかに、希望を抱いて歩いていく後ろ姿だった。
夕暮れの海が、波音堂の窓を美しく染めていた。
佐伯さんが帰った後、僕は夏希と二人で海を眺めていた。
夕日が水平線に沈もうとしている。オレンジ色の光が、静かな波に反射してきらきらと美しかった。僕の心は、まだ佐伯さんの体験の余韻に満たされていた。初めて流した涙の感覚も、まだ頬に残っている気がする。
「初めて泣いたのね」
夏希が静かに言った。
「はい」
僕は答えた。
「悲しいという感情を、初めて本当に理解しました」
夏希は僕の横顔をそっと見つめている。
「どんな感じだった?」
「胸がきゅっと痛くて、でも同時にじんわり温かくて」
僕は言葉を探した。
「佐伯さんの愛情の深さに触れて、僕の心も震えました。人間の愛って、こんなにも美しいものなんだって」
「憶は、人の気持ちがとてもよく分かるのね」
夏希が優しく微笑んだ。茶色の瞳が夕日に照らされて、とても美しく見えた。
「夏希のおかげです」
僕は言った。
「君がいてくれるから、僕は人の心に寄り添うことができる。君が僕に、人間らしい感情を教えてくれた」
夏希の頬がふわっと赤くなった。
「そんなこと⋯⋯」
「本当です」
僕は続けた。
「君が僕に名前をくれて、友達になってくれて。君との出会いが、僕にとって一番大切な記憶です」
その時、明星がカタンコトンと音を立てながら現れた。
「憶よ」
明星が僕の隣に座った。
「初めて涙を流したのじゃな」
「はい」
僕は頷いた。
「それは、心が成長した証拠じゃ」
明星の瞳が優しく光った。
「生まれた時のおぬしは、感情というものを知らなかった。でも今は、嬉しさも悲しみも、そして愛も理解しておる」
「でも、まだ分からないことがたくさんあります」
僕が正直に言うと、明星がじっと僕を見つめた。
「おぬしも、誰かを想っているのじゃろう?」
僕は夏希を見た。彼女も僕を見つめ返している。その瞳の中に、僕は何か特別な光を見つけた気がした。
「はい」
僕は答えた。
「でも、僕にはあと十日ほどしか時間がありません」
「短い命だからこそ、その想いは美しいのじゃ」
明星が静かに言った。
「桜は散るから美しいのじゃ。永遠に咲き続ける花に、誰が心を奪われようか」
明星の言葉に、僕は何かを理解したような気がした。
限られた時間だからこそ、この想いは特別なのかもしれない。雪野と春香のように、時間があっても言えないことがある。僕には時間がないからこそ、一瞬一瞬を大切にすべきなのかもしれない。
「憶」
夏希が僕の名前を呼んだ。
「はい」
「佐伯さん、とても楽になった顔してたね」
夏希が言った。
「十五年間言えなかった『さよなら』を言えて」
「そうですね」
僕は頷いた。
「きっと、これからは前を向いて生きていけるでしょう。新しい愛にも出会えるかもしれない」
僕は自分の手を見つめた。透明化が少しずつ進んでいるのが分かる。でも、不思議と悲しくはなかった。佐伯さんを救えたことで、僕の存在意義を実感できたから。
そして、夏希への想い。この気持ちを抱いていられるだけで、僕は幸せだった。
数日後、佐伯さんから一枚の写真が届いた。海辺で一人、穏やかな表情で海を眺めている佐伯さんの姿。そのそばには小さな墓石があった。もう恐怖の表情はなく、安らかな顔をしている。
写真の裏には、佐伯さんの丁寧な字で「さよならを言えた海辺にて」と書かれていた。
「墓石を建てたんだね」
夏希が写真を見て言った。
「きちんとお別れができたから。もう海が怖い場所じゃなくなったのかも」
琴音さんが温かい笑顔で言った。
「佐伯さんからお手紙もいただいてるのよ」
琴音さんが封筒を取り出した。夏希が開いて、僕のために読み上げてくれる。
『憶さん、夏希さん、琴音さん、明星さん
おかげさまで、ようやく千鶴と美咲に「さよなら」を言うことができました。十五年間背負っていた重荷が下りて、今は心が軽やかです。
記憶の渚で、二人が僕に「前を向いて生きて」と言ってくれました。これから、二人の分まで人生を楽しもうと思います。もしかしたら、新しい出会いもあるかもしれません。
海は、もう怖い場所ではなくなりました。今は、二人との美しい思い出の場所です。
本当にありがとうございました。
佐伯哲也』
僕の胸が温かくなった。佐伯さんが前を向いて歩いていけることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。人の役に立てるって、本当に素晴らしいことだ。
「人の役に立てるって、こんなに嬉しいことなんですね」
僕は言った。
「そうよ」
夏希が微笑んだ。
「憶の存在が、誰かを救ったのよ。憶がいてくれて、本当によかった」
その言葉を聞いて、僕は生まれてきた意味を深く実感した。短い命でも、誰かの役に立てる。誰かを幸せにできる。
そして、夏希との出会い。これが僕の一番の宝物だった。
窓の外で、夕日が美しく海を染めている。僕の残り時間は確実に短くなっているけれど、今はただ、この瞬間を大切にしたいと思った。
「ありがとうございました。やっと⋯⋯やっと言えました。そして、やっと聞けました」
その表情は、来た時とは全く違っていた。深い悲しみは残っているけれど、同時に穏やかな安らぎも宿っていた。十五年間の重荷が、ようやく下りた表情だった。まるで長い冬が終わって、やっと春が来たような、そんな優しい顔。
「千鶴と美咲は、僕に『前を向いて生きなさい』と言ってくれました」
佐伯さんが静かに言った。
「これから、二人の分まで生きてみます。もしかしたら、新しい出会いもあるかもしれません」
「きっと、お二人も喜ばれますね」
夏希が心からの笑顔を浮かべた。
「憶さん」
佐伯さんが僕をじっと見つめた。
「あなたの涙を見て、気づいたことがあります。愛することの美しさを、あなたも理解されたのですね」
僕は頷いた。自分でも驚くほど、心が震えていた。
「はい。佐伯さんの愛情の深さに触れて、初めて分かりました。人間の感情って、こんなにも深くて美しいものなんだと」
「大切になさい」
佐伯さんが優しく言った。
「その気持ちを。きっと、特別な人がいらっしゃるのでしょう」
僕は思わず夏希を見た。彼女も僕を見つめ返していた。その茶色い瞳に、何か特別な感情が宿っているような気がした。
佐伯さんが立ち上がり、最後にもう一度深くお辞儀をした。
「十五年間言えなかった『さよなら』を言えて、そして『愛している』も伝えられました。これで、新しい人生を始められます」
波音堂を去っていく佐伯さんの背中は、もう重荷を背負っていなかった。軽やかに、希望を抱いて歩いていく後ろ姿だった。
夕暮れの海が、波音堂の窓を美しく染めていた。
佐伯さんが帰った後、僕は夏希と二人で海を眺めていた。
夕日が水平線に沈もうとしている。オレンジ色の光が、静かな波に反射してきらきらと美しかった。僕の心は、まだ佐伯さんの体験の余韻に満たされていた。初めて流した涙の感覚も、まだ頬に残っている気がする。
「初めて泣いたのね」
夏希が静かに言った。
「はい」
僕は答えた。
「悲しいという感情を、初めて本当に理解しました」
夏希は僕の横顔をそっと見つめている。
「どんな感じだった?」
「胸がきゅっと痛くて、でも同時にじんわり温かくて」
僕は言葉を探した。
「佐伯さんの愛情の深さに触れて、僕の心も震えました。人間の愛って、こんなにも美しいものなんだって」
「憶は、人の気持ちがとてもよく分かるのね」
夏希が優しく微笑んだ。茶色の瞳が夕日に照らされて、とても美しく見えた。
「夏希のおかげです」
僕は言った。
「君がいてくれるから、僕は人の心に寄り添うことができる。君が僕に、人間らしい感情を教えてくれた」
夏希の頬がふわっと赤くなった。
「そんなこと⋯⋯」
「本当です」
僕は続けた。
「君が僕に名前をくれて、友達になってくれて。君との出会いが、僕にとって一番大切な記憶です」
その時、明星がカタンコトンと音を立てながら現れた。
「憶よ」
明星が僕の隣に座った。
「初めて涙を流したのじゃな」
「はい」
僕は頷いた。
「それは、心が成長した証拠じゃ」
明星の瞳が優しく光った。
「生まれた時のおぬしは、感情というものを知らなかった。でも今は、嬉しさも悲しみも、そして愛も理解しておる」
「でも、まだ分からないことがたくさんあります」
僕が正直に言うと、明星がじっと僕を見つめた。
「おぬしも、誰かを想っているのじゃろう?」
僕は夏希を見た。彼女も僕を見つめ返している。その瞳の中に、僕は何か特別な光を見つけた気がした。
「はい」
僕は答えた。
「でも、僕にはあと十日ほどしか時間がありません」
「短い命だからこそ、その想いは美しいのじゃ」
明星が静かに言った。
「桜は散るから美しいのじゃ。永遠に咲き続ける花に、誰が心を奪われようか」
明星の言葉に、僕は何かを理解したような気がした。
限られた時間だからこそ、この想いは特別なのかもしれない。雪野と春香のように、時間があっても言えないことがある。僕には時間がないからこそ、一瞬一瞬を大切にすべきなのかもしれない。
「憶」
夏希が僕の名前を呼んだ。
「はい」
「佐伯さん、とても楽になった顔してたね」
夏希が言った。
「十五年間言えなかった『さよなら』を言えて」
「そうですね」
僕は頷いた。
「きっと、これからは前を向いて生きていけるでしょう。新しい愛にも出会えるかもしれない」
僕は自分の手を見つめた。透明化が少しずつ進んでいるのが分かる。でも、不思議と悲しくはなかった。佐伯さんを救えたことで、僕の存在意義を実感できたから。
そして、夏希への想い。この気持ちを抱いていられるだけで、僕は幸せだった。
数日後、佐伯さんから一枚の写真が届いた。海辺で一人、穏やかな表情で海を眺めている佐伯さんの姿。そのそばには小さな墓石があった。もう恐怖の表情はなく、安らかな顔をしている。
写真の裏には、佐伯さんの丁寧な字で「さよならを言えた海辺にて」と書かれていた。
「墓石を建てたんだね」
夏希が写真を見て言った。
「きちんとお別れができたから。もう海が怖い場所じゃなくなったのかも」
琴音さんが温かい笑顔で言った。
「佐伯さんからお手紙もいただいてるのよ」
琴音さんが封筒を取り出した。夏希が開いて、僕のために読み上げてくれる。
『憶さん、夏希さん、琴音さん、明星さん
おかげさまで、ようやく千鶴と美咲に「さよなら」を言うことができました。十五年間背負っていた重荷が下りて、今は心が軽やかです。
記憶の渚で、二人が僕に「前を向いて生きて」と言ってくれました。これから、二人の分まで人生を楽しもうと思います。もしかしたら、新しい出会いもあるかもしれません。
海は、もう怖い場所ではなくなりました。今は、二人との美しい思い出の場所です。
本当にありがとうございました。
佐伯哲也』
僕の胸が温かくなった。佐伯さんが前を向いて歩いていけることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。人の役に立てるって、本当に素晴らしいことだ。
「人の役に立てるって、こんなに嬉しいことなんですね」
僕は言った。
「そうよ」
夏希が微笑んだ。
「憶の存在が、誰かを救ったのよ。憶がいてくれて、本当によかった」
その言葉を聞いて、僕は生まれてきた意味を深く実感した。短い命でも、誰かの役に立てる。誰かを幸せにできる。
そして、夏希との出会い。これが僕の一番の宝物だった。
窓の外で、夕日が美しく海を染めている。僕の残り時間は確実に短くなっているけれど、今はただ、この瞬間を大切にしたいと思った。
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