もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第3章 別れのないさよなら

3-1 新しい挑戦(前)

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 この日も夏希が学校帰りにやってきた。でも、いつもより少し遅い時間だった。
「お疲れさま」
 僕は言った。
「ありがとう」
 夏希は少し疲れたような表情を浮かべて座った。制服の肩が少し下がっているのが分かる。
「今日は生徒会の仕事があって」
「生徒会?」
「うん。高校最後の文化祭の準備」
 夏希の瞳に、複雑な光が宿る。嬉しさと寂しさが混じったような、不思議な色。
「来月なの。でも私、文化祭に参加するのは今年で最後」
 そうか、夏希は高校三年生だった。僕と同じ十七歳だけれど、来年の春には卒業して、新しい道を歩んでいく。僕には経験できない、人生の節目がたくさん待っている。
「寂しい?」
 僕は聞いた。
「うん、少し」
 夏希は正直に答えた。
「でも、楽しみでもある。新しいことを始められるから」
 新しいこと。夏希には無限の未来がある。十八歳の誕生日も、大学生活も、就職も、恋愛も、結婚も、きっと素敵な未来が待っている。笑ったり、泣いたり、悩んだりしながら、少しずつ大人になっていく。
 僕には、それらのどれも経験できない。
 でも、不思議と悲しくはなかった。夏希の未来を想像すると、むしろ胸が温かくなる。彼女が幸せになることを、自分のことより大切に思っている。
 これが恋なのだろうか。相手の幸せを、自分の幸せよりも願う気持ち。
「憶、どうしたの?」
 夏希が心配そうに覗き込んできた。その茶色い瞳に、僕の顔が映っている。
「君の未来を想像してました」
 僕は心から微笑んだ。
「きっと素敵な大人になる。たくさんの人を幸せにするような」
 夏希の頬がふわっと赤くなった。
「そんな、分からないよ」
「分かります。君は優しくて、強くて、美しい。何より、人の痛みに寄り添える心を持ってる」
「憶⋯⋯」
 夏希の瞳が潤んでいるように見えた。なぜだろう。僕は何か悲しいことを言っただろうか。
「ありがとう」
 夏希は小さく、でも心を込めて言った。
「憶にそう言ってもらえて、嬉しい。でも⋯⋯」
 その時、僕の手を見て、夏希が小さく息を呑んだ。
「憶、手が⋯⋯」
 僕は自分の手を見た。わずかだけれど、透明になっている。光がうっすらと透けて見える。まるでガラス細工みたいに。
 消滅の兆候だった。時間が確実に近づいているサイン。
「まだ大丈夫です」
 僕は慌てて言った。夏希を不安にさせたくなくて。
「あと一週間ほどはあります」
 でも夏希の表情は暗くなった。その美しい顔に、深い悲しみが宿る。
「時間が⋯⋯」
「夏希」
 僕は彼女の手をそっと取った。冷たくなってしまった僕の手を、彼女の温かい手が優しく包んでくれる。
「悲しまないで。僕はここにいる。今、この瞬間に。それが一番大切なことだと思うんです」
 夏希は僕の手を両手でしっかりと握り返した。まるで僕を離したくないとでも言うように。
「うん」
 夏希は涙を拭いて、いつもの優しい微笑みを浮かべた。
「今を大切にしよう。一瞬一瞬を」
「はい」
 窓の外で夕日が静かに沈んでいく。オレンジ色の光が海を美しく染めて、この世のものとは思えないほど美しい光景だった。僕の残り時間も、この夕日のように美しく過ぎていくのかもしれない。

 波音堂の扉が開いて、琴音さんが新しい依頼者を案内してきた。
 小柄で背の丸まった、七十代後半の女性だった。白髪を丁寧に結い上げ、清潔感のある服装をしている。穏やかだが芯の強さを感じさせる表情で、どこか上品な雰囲気を漂わせていた。
「渡辺光子と申します」
 女性は丁寧にお辞儀をした。
「主人のことでご相談があって参りました」
 僕は渡辺さんの周囲に漂う感情を感じ取った。深い愛情。でも、佐伯さんとは違う種類の悲しみがある。諦めのような、受容のような静けさも感じられた。長い時間をかけて、ゆっくりと育った悲しみのような。
 琴音さんが優しく聞いた。
「どのようなご相談でしょうか?」
「主人は認知症なんです」
 渡辺さんが静かに口を開いた。その声には、長い間の疲れが滲んでいる。
「もう、私のことも覚えていません」
 認知症。僕はその言葉の重さをじんわりと理解した。生きているのに、記憶を失っていく。それは、死別とはまた全く違う別れの形だった。一緒にいるのに、もう一緒にいない。そんな矛盾した状況。
「六十年連れ添った夫が、いまは『どちら様ですか』と私に言うんです」
 渡辺さんの声が微かに震えた。
「生きているのに、もう一緒に過ごした記憶がない。私だけが覚えているんです、二人の思い出を」
 僕は渡辺さんの痛みを深く感じ取った。これは「さよならのない別れ」の別の形。佐伯さんのように明確な別れがあるわけでもなく、でも愛する人はもうそこにいない。言うならば「別れのないさよなら」だった。
「それで、お願いがあります」
 渡辺さんが続けた。その瞳に、切実な願いが宿っている。
「まだ私を覚えていた頃の主人に、もう一度会うことは叶わないでしょうか」
 夏希が僕の言葉を代弁した。
「記憶式が、記憶の渚でお手伝いできると言っています」
「はい」
 渡辺さんは希望を込めて頷いた。
「もう一度、あの人と思い出を分かち合いたい。一緒に笑いたいんです」
 僕は渡辺さんの記憶を感じ取った。六十年間の愛の記録。豊富で温かい記憶の波動が、彼女の周りをふんわりと満たしている。結婚式の日、子供たちが生まれた日、一緒に過ごした何気ない日常。すべてが愛情で彩られている。
「記憶式が言ってるの」
 夏希が優しく伝える。
「とても豊かな記憶をお持ちだから、きっと大丈夫だって」
 渡辺さんの瞳に、明るい希望の光が宿った。
「ただし」
 琴音さんが慎重に説明した。
「認知症のケースは、今まで扱ったことがないので、新しい方法を考える必要がありそうです」
「認知症の場合、むしろ時間軸が曖昧になることを活かせるかもしれません」
 琴音さんが続ける。
「異なる時代の記憶と交流する方法があるかもしれないんです。若い頃の記憶、中年の記憶、最近の記憶⋯⋯すべてに触れられるように」
 僕はその可能性をはっきりと感じ取った。佐伯さんのケースとは全く違う、新しい挑戦。でも、できる気がする。渡辺さんの愛の深さなら、きっと道を作ってくれる。
「準備に少し時間をいただきます」
 琴音さんがそう伝えると、渡辺さんは深々と頭を下げて、希望を胸に店を出ていった。

「認知症って、本当に辛い病気ですね」
 渡辺さんが帰った後、夏希が静かに言った。
「愛する人がそばにいるのに、もう愛した記憶がないなんて」
「そうですね」
 僕も頷いた。
「でも、愛は記憶を超えることもあります。たとえ記憶を失っても、心の奥底に愛は残るものです」
 僕は窓の外を見た。夕日が海を美しく染めている。穏やかで美しい光景だった。
 佐伯さんは「さよなら」を言って前に進んだ。渡辺さんは、まだ「さよなら」じゃなく、記憶の中での「再会」を求めている。
 人それぞれに、本当に異なる癒しの形がある。僕の役割は、その人にとって最良の形を見つけることなのかもしれない。一人ひとりの心に寄り添って、その人だけの答えを見つける。
「憶」
 夏希が僕の手をそっと取った。
「あなたがいてくれて、本当によかった。あなたがいるから、こんなに多くの人が救われるんだね」
 その言葉に、僕の胸が温かくなった。人の役に立てること。誰かの癒しになれること。それが、僕の存在意義なのだと実感する。
 残された時間は一週間ほど。短いけれど、その時間で、僕はまだ多くのことを学ぶだろう。多くの人を助けるだろう。
 そして、夏希との時間も、一瞬一瞬を大切にしたい。彼女への想いを、心に刻んでいきたい。
 波の音が、僕たちを優しく包んでいた。まるで子守歌みたいに、静かで穏やかに。
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