もっと早く、伝えていれば

嶌田あき

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第3章 別れのないさよなら

3-1 新しい挑戦(後)

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 一週間後、渡辺光子さんが波音堂にやってきた。認知症の夫・正雄さんとの六十年の記憶を、「時間の潮汐」というモデルで体験する。今までとは全く違う種類の記憶の渚だった。
 僕の手は、もうかなり透明になっている。残り時間はたぶん一週間もない。でも、渡辺さんのために、最高の体験を作りたかった。
 渡辺さんは上品な青色のワンピースを着て、静かな決意を瞳に宿していた。七十八歳という年齢を感じさせない、芯の強さがある。
「準備はよろしいですか?」
 琴音さんが優しく尋ねた。
「ええ、準備はできています」
 渡辺さんが頷く。
「少し緊張しますけれど」
 琴音さんが特別な装置を準備してくれた。今回は、霧の効果や時間の移動を表現するため、より複雑なシステムが必要だった。
「今回の記憶の渚は、特別な設計なんです」
 夏希が説明した。
「時間が波のように寄せては返します。結婚五十周年の記憶から始まって、若い頃の正雄さんにも、現在の正雄さんにも会えるようになってます」
「『霧』という要素もあります」
 琴音さんが補足した。
「認知症の特性を表現したものです。記憶が曖昧になる部分を霧で表現します」
 渡辺さんは理解したように頷いた。
「まるで正雄の心の中のようですね」
「そうなんです」
 夏希が優しく答えた。
「渡辺さんの記憶と正雄さんの記憶が融合した空間になります」
 夏希が心配そうに僕を見ていた。僕の透明化が進んでいることを知っているからだ。でも僕は大丈夫だった。この仕事を最後まで成し遂げたい。
 奥の部屋で、渡辺さんは円形の畳に座った。彼女が持参した六十年分の資料が、周囲に大切に配置されている。写真、手紙、録音、そして結婚指輪。愛の記録がこれほど豊富にあるケースは初めてだった。
「では、始めましょう」
 琴音さんが静かに言った。
 僕は渡辺さんの近くに座り、彼女の記憶に意識を向けた。その瞬間、驚くほど深い愛情の波動を感じた。六十年間、一瞬たりとも途切れることのなかった愛。それは佐伯さんの十二年間の想いとはまた違う、長い年月をかけて育まれた愛だった。
「正雄さんとの幸せな記憶を思い浮かべてください」
 夏希が優しく誘導した。
「結婚五十周年の旅行から始めましょう」
 渡辺さんは目を閉じた。
「椿庄での記念旅行⋯⋯紅葉が美しかった」
 僕も目を閉じて、彼女の記憶に深く意識を向ける。すると、温かく豊かな記憶の波動が感じられ始めた。結婚式、新居、子供の誕生、日常の喜びと悲しみ。六十年分の愛の記録。
 そして、現在の正雄さんの記憶も感じられた。霧に包まれたような、曖昧で断片的な記憶。でも、その奥底に、愛の核は残っていた。
 世界がゆっくりと変わり始める。 

 記憶の渚が現れた。
 最初に現れたのは、温泉旅館の美しい一室だった。
 和風の落ち着いた部屋。窓の外には手入れの行き届いた日本庭園が見える。縁側には一人の男性がゆったりと座っていた。白髪の穏やかな表情の正雄さん。五年前、まだ認知症の症状が軽かった頃の記憶だった。
「正雄⋯⋯」
 渡辺さんの声が震えた。愛する人の、懐かしい姿。
 男性がゆっくりと振り向く。
「ああ、光子か。ここは椿庄だね。五十周年の時に来たところだ」
 温かい声だった。愛情に満ちた、夫の声。僕は、この声を十二年間聞けなかった佐伯さんのことを思った。生きているのに会えない辛さと、死別した辛さ。どちらも深い悲しみがある。
「ええ、覚えていてくれたのね」
 渡辺さんがそっと近づく。
「もちろんさ。あの時は桜が満開だったね」
「いえ、違うわ」
 渡辺さんが優しく訂正した。
「紅葉の季節だったのよ、十一月」
 正雄さんは少し困惑したような表情を見せた。
「ああ、そうだったか。記憶が⋯⋯少し曖昧になっているみたいだ」
 その瞬間、僕は空間の変化を感じ取った。部屋の隅から薄い霧がゆらりと湧き上がり始めた。記憶の曖昧さを表すかのように、ゆっくりと空間を満たしていく。まるで思い出が少しずつ薄れていくみたいに。
 そして霧の向こうに、別の光景がぼんやりと見え始めた。若い二人の姿。時間の波が動き始めている。
「霧の向こうに、過去の記憶が見えます」
 僕は渡辺さんに説明した。
「触れることで、別の時代に移ることができます」
 渡辺さんは決心したように、霧に一歩踏み出した。
 空間が変わる。小さな神社の境内。そこには伝統的な結婚衣装を着た若い男女が立っていた。六十年前の渡辺夫妻。
「私たちの結婚式⋯⋯」
 渡辺さんが息を呑んだ。
 若い正雄が凛々しく立っている。彼の瞳は希望に輝き、未来への期待に満ちていた。今とは全く違う、力強くて生き生きとした姿。
「光子、幸せにするよ」
 若い正雄の声が境内に響いた。
「一生、君の側にいるから」
「ええ、あなたは約束を守ってくれたわ」
 渡辺さんが涙を流した。
「六十年間⋯⋯ずっと」
 僕は渡辺さんの感情を深く感じ取った。六十年前の純粋な喜び。若い頃の希望。そして現在の複雑な想い。愛は時間を超越するものなのだと、改めて理解した。
 再び霧が立ち込める。時間の波が動き、別の記憶が現れた。
 小さな家のリビング。幼い子供たちが元気よく走り回り、三十代の正雄が新聞を読んでいる。家族の幸せな日常風景。とても温かくて、愛に満ちた空間。
「この家⋯⋯」
 渡辺さんの表情がぱっと明るくなった。
「最初に買った家よ。子供たちがまだ小さかった頃」
 中年の正雄は新聞から顔を上げた。
「光子、子供たちの運動会、今度の日曜だったよな?」
「覚えているわ」
 渡辺さんが嬉しそうに答えた。
「二人とも徒競走で一等賞を取ったのよ」
「あの日は暑かった。帰りにアイスクリームを買ったんだろう?」
「そうよ」
 渡辺さんの瞳に涙が光った。
「子供たちはとても喜んでいたわ」
 僕は中年の正雄に触れてみた。確かな感触がある。この時代の記憶は、まだ鮮明で力強かった。霧はほとんどなく、クリアに存在している。
「光子、いつも子供たちのために頑張ってくれてありがとう」
 中年の正雄が立ち上がり、渡辺さんに近づいた。
「光子、僕たちは幸せだったね」
「今も幸せよ」
 渡辺さんが答えた。
「ただ、あなたが⋯⋯」
 再び霧。今度はより濃い霧が重く立ち込めた。時間の波が現在に向かって動いている。
 霧の中から現れたのは、介護施設の一室だった。
 ベッドに座る現在の正雄さん。虚ろな目で窓の外をぼんやりと見つめている。濃い霧が彼をすっぽりと取り巻いている。認知症が進んだ現在の姿だった。若い頃の輝きは失われて、まるで別人のよう。
「正雄⋯⋯」
 渡辺さんが恐る恐る近づいた。
 老人がゆっくりと振り向く。
「こんにちは⋯⋯あなたは、どちら様でしょうか?」
 その言葉に、渡辺さんの顔がぎゅっと痛みに歪んだ。
「私よ、光子⋯⋯あなたの妻」
「妻?」
 老人は困惑したように首を傾げた。
「申し訳ございません、覚えていないようで⋯⋯」
 僕は渡辺さんの痛みを深く感じ取った。愛する人に忘れられる辛さ。でも同時に、諦めのような、受容のような静けさも感じられた。長い時間をかけて、この現実と向き合ってきたのだろう。
「大丈夫よ」
 渡辺さんが老人の隣にそっと座った。
「あなたが覚えていなくても、私が覚えているから」
「何を⋯⋯覚えていらっしゃるのですか?」
 老人が興味深そうに尋ねた。
「私たちの六十年よ」
 渡辺さんが優しく微笑んだ。
「結婚式の日、最初の家、子供たちの運動会、あなたの定年退職のお祝い、そして結婚五十周年の旅行⋯⋯」
 老人は静かに聞いていた。その瞬間、不思議なことが起きた。老人を取り巻く濃い霧が少しだけ薄くなり、過去の記憶の断片が霧の中でゆらゆらと揺らめき始めた。
 老人は霧の中の記憶の断片を見つめた。
「あれは⋯⋯私の記憶でしょうか?」
「ええ」
 渡辺さんが優しく答えた。
「あなたの人生の記憶よ。私たちの大切な思い出」
「美しい⋯⋯でも、掴めません」
 老人が手を伸ばすと、記憶の断片は霧のようにさらさらと逃げていった。
「あなたが忘れても、私が覚えているわ」
 渡辺さんが老人の手をそっと取った。
「私があなたの記憶を守るから」
 その時、老人が突然つぶやいた。
「波止場⋯⋯」
「え?」
「波止場⋯⋯デート⋯⋯桜⋯⋯」
 断片的な言葉。でも、それは確かな記憶の欠片だった。
 渡辺さんの顔がぱっと明るくなった。
「最初のデートね!港の波止場で、桜の季節に⋯⋯」
 老人の表情に微かな認識が浮かんだ。
「光子⋯⋯」
 再び霧が大きく動いた。今度は波のように押し寄せる霧。そして現れたのは港の美しい波止場。満開の桜の下に、二十代の正雄が立っていた。
「光子、遅れてごめん!」
 若い正雄が手を振った。
「今日は一日、君と過ごせると思うと朝から胸がドキドキしてたんだ」
 僕は深く感動していた。現在の正雄さんの断片的な記憶「波止場」が、最初のデートの記憶につながった。記憶は失われても、感情の核の部分は残っているのかもしれない。愛の記憶は、完全には消えないのかもしれない。
「光子、将来の夢はある?」
 若い正雄が桜の下で尋ねた。
 渡辺さんは六十年前と同じ気持ちで答えた。
「幸せな家庭を持つこと。あなたとの家庭よ」
「僕もそうだよ。君と家庭を持って、子供たちに囲まれて⋯⋯」
「その夢は叶ったわね」
 渡辺さんが静かに言った。
 時間の波が次々と記憶を運んでくる。結婚式、新居、子供の誕生、仕事の成功と失敗、日常の喜びと悲しみ。六十年の記憶が波のように美しく打ち寄せては引いていく。
 僕は、時間の美しさを感じていた。記憶は波のように寄せては返す。でもその波一つ一つに、深い愛情が込められている。人生って、こんなにも美しいものなんだ。
 そして最後に、再び温泉旅館の部屋に戻った。結婚五十周年の記念旅行。縁側に白髪の正雄さんが座っている。
「ただいま」
 渡辺さんが微笑んで言った。
「おかえり、光子。どこへ行っていたんだい?」
 正雄さんが振り向いた。
「私たちの思い出を旅してきたのよ」
「そうか。私たちには素晴らしい思い出がたくさんあるね」
 二人は窓の外の庭園を眺めた。夕日が差し込み、紅葉が美しく輝いている。
「光子、ありがとう」
 正雄さんが静かに言った。
「何のお礼かしら?」
「私の記憶になってくれて。私が忘れても、君が覚えていてくれる」
 渡辺さんの目に涙が溢れた。
「ええ、私があなたの記憶よ。あなたが忘れても、私は忘れないわ」
「それでいい」
 正雄さんが優しく言った。
「それが愛というものだろう」
 窓の外で日が静かに沈んでいく。庭園の紅葉が夕日に照らされて、まるで炎のように美しく燃えている。

 記憶の渚が静かに消えて、僕たちは現実に戻った。
 渡辺さんはゆっくりと目を開けた。頬には涙の跡があったが、表情は深い平安に満たされていた。来た時とは全く違う、穏やかで安らかな顔。
「素晴らしい体験でした」
 彼女が言った。
「正雄と⋯⋯もう一度思い出を共有できました。彼が忘れても、私は覚えている。それが今の私の役割なのかもしれませんね」
 僕は渡辺さんの変化を感じ取った。悲しみは残っているが、同時に受容と安らぎもある。彼女は新しい愛の形を見つけたのだ。
「記憶されなくても、記憶し続ける」
 僕は言った。
「新しい愛の形ですね」
「その通りよ」
 渡辺さんが微笑んだ。
「彼が私を忘れても、私は彼のことを愛し続ける。六十年の記憶を持ち続けることが、私にできる最後の愛の表現なのね」
 琴音さんが静かに言った。
「愛とは、記憶を超えたところにあるものです。たとえ忘れられても、愛し続けることができる」
 僕は深く感動していた。佐伯さんは「さよなら」を言って前に進んだ。渡辺さんは記憶を守ることで愛を続けている。人それぞれに、異なる愛の形がある。どれも美しく、どれも尊い。
 渡辺さんが帰った後、僕は夏希と二人になった。
「憶、すごかったね」
 夏希が言った。
「六十年の愛って、こんなに深いものなんだ」
「はい」
 僕は答えた。
「時間の長さじゃなく、愛の深さなんですね」
 夏希が僕の透明になった手を心配そうに見つめた。
「あと数日⋯⋯」
「大丈夫です」
 僕は微笑んだ。
「残された時間で、まだできることがあります」
 でも僕の心の奥で、ある想いが強くなっていた。もう時間がない。夏希に伝えたいことがある。雪野の言葉が頭に響く。
「もっと早く、伝えていれば」
 でも僕の場合、伝えたところで何が変わるのだろう。それでも、言葉にする意味があるのだろうか。
 夕日が波音堂を美しく染めていた。時間は、波のように寄せては返していく。そして僕の時間も、間もなく引き潮を迎えようとしていた。
 残された時間で、僕は何を学び、何を伝えることができるだろう。
 窓の外で波が静かに寄せている。美しい夕暮れだった。そして僕は、夏希への想いを、ついに伝える時が来たのかもしれないと思った。
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