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戸惑う獣
しおりを挟む綾波は、乱したシーツをきっちりと元に戻し、美名が着ていたネグリジェを畳みベッドの上に置く。
ホテルの従業員が片付けると分かっているが、これは自分の性分だ。
――もう十時か。
そろそろここを出ないと――
バスルームから美名の鼻唄が聴こえてきてハッとする。
――やはり俺の耳に狂いはなかった。
聴いた途端に心を鷲掴みにする甘いハイトーンボイスだが、低音域も美しく響く。
少女の様にも大人にも見えて、清純な中にも仄かな色気が垣間見える美名は売り方次第で大スターになるだろう。
今まで他の誰にも見つけられず居たが、俺が見出だしたからには、必ずとびきりの歌姫にしてみせる。
まだ続く楽しそうな歌声を聴いて、思わず口元を緩めてしまう。
――美名は不思議な女だ。
俺の言う通りになる様に見えて決してそうではない。
身体まで奪うつもりは無かった。
俺は、まだついこの間まで他の女を愛していたのだ。
彼女は結婚して、その身体には新しい命を宿している。
幸せを願っている、と建前では取り繕っても、ずっと燃やしていた恋情を直ぐに消せる訳が無い。
彼女を見る度に、組伏せて滅茶苦茶に抱く映像が頭に浮かんだ。
心の底では幸せを壊してやりたいとも思った。
無論そんな事は出来ないが……
代々木公園で美名を見た時、彼女に似ていると思った。
目が離せなくて、美名を自分の物にしたいと思った。
だが、これから売り出す商品に手を付けるのは危険で愚かな行為。
手は出すまいと思って居たのに、美名の可憐さに我慢出来なくて欲望のままに抱いてしまった。
「辛抱の無い獣だな……俺は」
呟いた時、バスルームのドアが開いて美名が顔をひょっこり出した。
「綾波さん。着替えましたけど……これでいいんですか?」
腰まである長い髪を綺麗に編み込み、長い後れ毛がうなじにゆらゆらと揺れる。
紺色のシンプルなワンピースは美名の美しい身体の曲線を程よく強調して男心をそそるが……
袖から伸びるほっそりした腕を掴み、腰を抱いてくるりと後ろを向かせる。
美名はびっくりして目を見開いた。
綾波は溜め息を吐く。
「おい……ボタンがかけ違えてるぞ」
「えっ」
「世話が焼けるな」
背中の花の形をしたボタンが可憐なワンピースだが、これは不器用な女は着るのも脱ぐのも難儀するだろう。
敢えてこういうデザインの物を選んだのは彼なのだが。
彼が愛していた女も、背中のボタンを上手く嵌めるのが出来なくてよく困っていた。
(……こんな所も似ている。)
苦笑してボタンを一つ一つ外していくと、美名の滑らかな背中と腰までの曲線が現れ、思わず目を奪われる。
このまま脱がしてしまいたくなるのを何とか堪えて居たが、美名が擽ったそうに身を捩り小さな息を吐いた瞬間に彼の理性が決壊した。
「ふう……んっ……綾波さん……私自分で……あっ」
後ろから美名を強く抱いて首筋に唇を落とすと、その身体が震える。
「お前は……俺を挑発してばかりだ」
背中から手を差し入れて胸の膨らみをまさぐると、美名は途端に甘い声を出す。
「違……う……止めて」
言葉とは裏腹に抵抗する様子は無く、腕に身体を預けきって声を漏らす美名が可愛くて、溢れだした欲情が彼を苛む。
美名の身体を正面に向けて頬に触れると、その瞳は潤んでこちらを見上げて居て、彼の身体の中心がカッと熱くなる。
今口付けたら、点いた火は燃え盛り灰になるまで消す事は出来ないだろう。
美名が心持ち上を向き目を閉じて口付けを待つ仕草をした。
誘われるままに、唇を寄せて触れ合う寸前、スマホが鳴った。
「……ちょっと待て」
頬を赤くして目を潤ませる美名から離れスマホを取る。
『綾波く~ん?私よ!わ、た、し!』
「……新手の振り込み詐欺か何かですか」
『うふふっ。綾波君にはお金を振り込んで貰うより私の相手をお願いしたいわあ~』
「冗談はさておき、何のご用件です?志村さん」
電話して来たのは志村賢一(しむら けんいち)。
音楽業界きっての名プロデューサーだ。
若い頃は日本を代表する人気アイドルだった男だが、今では自分の本性丸出しのオネェプロデューサーだ。
だが彼にプロデュースされて売れなかった歌手は居ない位その手腕は凄い。
『んもう、相変わらず素っ気ない男ね!
ほら、アレよアレ!ダイヤモンドの原石は見つかったの?』
綾波は美名をちらりと盗み見た。
美名はまるで親の仇を打つような真剣な顔で姿見を振り返りながら背中のボタンと格闘している。
「そうですね……まあ、見つけましたよ」
『あらっ!その声の感じだと相当なお気に入りね?男?女?……女でしょ~綾波君もスケベねえ~』
綾波は咳払いする。
『Dream adventureのクレッシェンドに次ぐ看板ミュージシャンに私が仕立ててあげるわよっ!近い内に会わせてね?
……ああ、楽しみだわあ~!綾波君を骨抜きにした女がどんな子なのか……ワクワク!ワクワク!』
「別に骨抜きにされてませんよ」
『い――え!わかるわよ私には!ふふふ』
「その件に関してはもう少し固めてから連絡します。じゃあ」
永遠にからかわれそうな予感がしたので速攻で通話を終了した。
どうせ会う時には盛大に冷やかされるのだ。
「綾波さん、出来ました!」
美名がボタンを自分で嵌めたらしく、得意気になってくるりと回って見せるが、よろけてしまう。
素早く身体を支えると、照れ臭そうに舌を出した。
――骨抜きか……
そうなのかも知れない。
「自分で出来たか。よしよし」
頭を撫でてやると、美名は膨れた。
「小さな子供みたいに扱わないで下さい」
「じゃあ、大人の女の扱いをしてやるか?」
「えっ……」
綾波は美名を抱き上げるとベッドに運ぶ。
「綾波さ……」
美名を横たえると、ワンピースの背中に手を回してボタンを外していく。
「せっかく嵌めたのに」
美名が目を剥くが、首筋にキスをすると甘い声を漏らした。
「……後で着せてやる」
ボタンを全部外して、一気に脱がす。
綾波が選んだ薄いパープルの華奢な花のレースの下着姿の美名は息を呑む美しさだった。
恥ずかしがってシーツで隠そうとするが、両腕を掴んで動けなくさせる。
「綾波さん……離して」
「離したら、隠すだろう?」
美名は必死に手足を動かそうとする。
「俺が選んだんだ。服も下着も。それを着たお前の姿をじっくり見て何が悪い?ん?」
「綾波さ……明るくて恥ずかしい……」
「さっきも明るい中で抱かれただろう?」
美名は唇をきゅっと噛む。その目にはまた涙が滲んでいた。
「綾波さんの……変態」
綾波は一瞬呆気に取られたが、笑いが込み上げて来た。
「もうっ!笑ってる場合じゃ無くて……私、怒ってるんだから!」
怒って居るが、その様子を見て可愛いとしか思えなくて、彼の顔はいつの間にかにやけていたらしい。
腕の力を緩めた時、美名は直ぐ様綾波の頬を引っ張ってきた。
「――!?いてっ?」
結構な力で引っ張られ地味に痛い。
美名はシーツで身体を隠してそっぽを向いた。
「お前……噛みついたりつねったり……」
「それが何よ!私の身体を散々好きにした癖に!」
「お前……俺に抱かれるのが好きって言ったじゃないか」
美名は真っ赤になり睨んでくる。
――何を拗ねているのか……
綾波は可笑しくて堪らない。
美名は本気で怒って居るわけではないだろう。
多分、何か他に言いたい事があるけれど口に出せなくて苛立って居るのだ。
ひっつめた髪が乱れている。
そっとそれをほどいていくと、長い栗色の髪がベッドに拡がった。
「綺麗だ……美名」
その髪に口付けると、美名は射るような目を向けてきた。
熱く燃える目が、真っ直ぐに見ている。
「綾波さんは……ズルい」
「……?」
「私を……どう思ってるの?」
「!」
美名は狼狽える彼を潤んだ目でじっと見る。
――狼狽える?この俺が?
昨日会ったばかりの美名に、俺は夢中になっている。
何度抱いても足りなくてまた欲しくなる。
だから、その欲望を全部美名にぶつけた。
なのに、分からないのかお前は?
美名をシーツの上から抱き締める。
本当は、こんな物、すぐに取り去って滅茶苦茶に美名を奪いたかった。
「言っただろう……お前は俺が見つけた……」
「そんなんじゃなくて……っ」
美名は胸の中で首を振る。
「私は……言ったじゃない。好き……好きって」
その甘い声で、綾波の全身が熱く燃え始めた。
美名は首に腕を廻して耳元で囁く。
「聞かせて……綾波さんの気持ち……」
――俺の気持ちだと?
俺は……
可愛くて堪らない気持ちを腕に込めて抱き締めて、口を開きかけた時、またスマホが鳴った。
「――」
深く溜め息をついて、美名の額にそっとキスしてベッドから降りる。
美名はまた頬を膨らませて居る。
「もしもし」
『あ、綾波か?お前さ、子供の名前考えてくれないか?』
「祐樹――いきなり何だ」
綾波はこめかみを押さえた。
『いや、あと半年位で産まれるしさあ、今のうちから候補を出しておきたいんだよね。皆にも頼んであるんだよ!
男の子と女の子の名前を三つずつ、二週間以内に考えて俺の所までファックスくれよ。じゃあな!』
クレッシェンドのボーカルの西本祐樹は一方的に言いたい事だけ言うと、電話を切った。
――全く、相変わらず勝手な奴だ。
ベッドを見ると美名はまたワンピースを着るのに一生懸命になっていた。
「手伝ってやろうか」
「結構です!」
ツーンとそっぽを向いて不器用な手つきでボタンを嵌めようとするがその手は震えていた。
後ろからその手を握ると弱々しく抵抗するが、背中が震え始めて嗚咽をし始めた。
「美名……」
綾波は、彼女を包み込む様に抱き締めた。
「触ら……ないで……私の事なんて……好きじゃないくせに……」
「好きだ――」
「……」
「好きだよ……美名」
一旦言葉にしたら、止めなく苦しい位の甘さが押し寄せて、彼は戸惑った。
――俺は、もうこれ程までに美名に惹かれているのか?
「綾波さあん……」
子供がべそをかいて甘える様に、抱き付かれて泣かれた。
その髪を撫でながら、美名をいとおしく想うと同時に、美名に良く似たかつて愛していた女の事を思った。
――俺は、あの女以上に美名を愛す事になるのだろうか?
彼自身にもまだ、分からなかった。
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