Vの秘密

花柳 都子

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池のせい

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 兄は私の手を掴み、自分のほうへ引き寄せようとしている。
 当の兄はというと、心霊スポットではぐれないために使ったあのロープを、少し離れたところにある幹の太い木に結びつけ、私の手を掴むのとは反対の手首に巻いていた。そして、その付け根を引っ張ることで自分と私の体を支えているのだった。
 しかし、兄の手首はロープによって既に傷だらけで、下手したらこのままふたりとも落ちてしまう可能性を孕んでいた。
 よく見ると、太い幹の木は私たちより上方(私が落ちてきた道の延長線上)にあり、そこはなだらかに池に続く迂回路のようになっている。
 あそこまで登れなくとも、その迂回路は徐々に池に近づいているので、私がこのまま平行移動した先にその道が現れるはずだった。
 兄もそのことに気づいているらしく、私に目配せをしてくる。
 話す余裕も、手を離す意思もないと悟り、私はできるだけ兄に負担をかけないように、急な斜面になんとか足を踏ん張り、近くの岩──体重をかけても問題ないか確認しつつ──に掴まりながら、綱渡りでもするようにすぐ先の道まで駆け抜けた。
 兄は私を支える責任から解放され、長いロープをうまく使って、私と同じ道へと足を伸ばした。
 私が助けてくれた礼をすると、「声が聞こえたから」などと何でもないふりで口にする。私のかけていた音楽のことかと思ったが、以前から兄はこの手の発言をしているので、一概にそうとは言えないかもしれない。
 ともあれ、傷だらけの痛々しい手首を気にする兄に、私は気休めでもないよりはマシだとハンカチを巻きつけた。
「──兄さんは、瀬名さんたちを探しに来たんじゃなかったの?」
「そうだよ。これくらいの広さだったら探し切れると思って。けど、どこにもいなかった」
 確かにこの林はそれほど広大ではないが、私が落ちそうになった池はかなり落ち窪んだところにあって、そういう意味では下方への奥行きがある地形だった。
「もしかしたら、この池に落ちたのかもしれない──とも、思ったんだけど」
 兄は神妙な顔で言う。
 現に私も落ちかけたのだ。迂回路はおそらく冷静な状態なら見逃さないが、いかんせん池があることも、そこまでが落ち窪んだ危険な箇所であることも、林に入った時点では知りようがない。
 池までは迂回路以外に安全に降りていけそうな場所はなかった。ふたりが慌ててこの林を抜けようとして、足を踏み外した可能性は十分にある。
「で、なんでまたロープを使ってまで降りようとしてたの?」
 ──迂回路もあるのに、と私は目で訊ねた。
「これだよ」
 兄がそう言って差し出したのは、藤倉さんのものと思われるスマートフォンだった。
「そこの途中の岩に引っかかってて。だから落ちたんじゃないかと思ったんだけど」
 兄はそう言うものの、半信半疑といった様子だった。
 私の目から見ても、誰かが落ちた形跡はない。
 強いて言うなら、私が滑落した時の滑った跡が多少見えるのだが、それ以外には特に斜面に変わった様子はない。
 また、池そのものにも瀬名さんや藤倉さんの姿は見えず、漣が立っているなどの異変もない。
「もしかしたら、この池以外にも見えない危険があるのかもしれない」
「…………熊に、襲われた、とか?」
「熊? あぁ、出るって言われてるんだっけ。まぁゼロじゃないけど、そうだとしたら、俺たちももう襲われてたっておかしくないよ」
「それはそうだけど……」
 私と兄はどちらからともなく、なんとなく池に向かう道をゆっくり下っていた。
 特に目的があったわけではないが、本当に瀬名さんや藤倉さんが落ちたわけではないことを確認しようとしたのかもしれない。
「ところで、お前こそよくここに来られたな。なんか危ない目に遭わなかったか?」
「遭ったよ」
「えっ!?」
「今、この場で」
「……それはお前の不注意でもある」
「いやそうだけど!」
 それは大前提である。
 もちろん兄が訊ねたのは、私が接触したであろう涌井さん由来の危険についてだろう。
 けれど、私がここまで来た経緯を知らない兄に一から説明をするのは面倒だったし、それ以上に私にとってはこの池まで──正確にはこの池に──まるで何かに導かれたように自然に来てしまったことのほうが恐ろしかった。
「ふうん。導かれるように、ね」
「霊感もないくせに、って思ってるでしょ」
「いや、俺だってから。その点に関しては、と思うよ。そういうことも。何と言っても、ここは念が強いのかもしれないからね」
「念?」
「…………あれ、見てみろよ」
 兄が示す先には、小さな墓石のようなものがあった。
 まだ傷んでいない元気な花が手向けられ、周りは草木もなく、綺麗な状態が保たれている。
 明らかに人の手によるものだった。
「あれって……」
 近づいてみると、その墓石様の石には、名前らしきものが刻まれていた。
 カタカナで書かれているように見えるが、掠れていて正しく読むことは不可能だった。
「きっと、外国人夫婦の奥さんのことじゃないかな。どっちが先だったのかはわからないけど、井戸で亡くなったっていう旦那さんと、池で亡くなった奥さんを炎(炎上祈祷のこと)で慰めようっていうんだから、優しいんだか嫌味なんだか、よくわからないね」
 兄はそっと傾いていた花を直して、手を合わせた。
 私もそれに倣ってふたりでしばし彼女の死を悼む。
「ねえ。なんでそうまでして隠したいのかな。大昔のことなんでしょ? 今もこうしてお花まで用意して」
「大昔ね──本当にそうかな。俺は、わりと最近のことなんじゃないかと思うよ」
「え?」
「外国から移住なんて、そこまで大昔にできたとは思えないっていうのが一つ。それから、今の旧家の曾祖父たちがこの一連の噂を牛耳っている点から考えても、彼らが関係しているほうがしっくりくるっていうのが一つ」
「……つまり、少なくとも曾祖父が生まれてからのこと、って意味?」
「そう。曾祖父どころか、生まれてるって基準で言えば、祖父母の代もこの世に生を受けてたかもね」
「それ……つい最近じゃない」
「だから言ってる。いくら時効が成立してるとはいえ、自分たちが殺した、あるいは追い詰めたという自覚があるなら、しきたりなんかじゃなく、実際問題として何が何でも秘密を守りたいと思うだろ。他人の──外国人夫婦の──家庭は壊せても、自分の家庭や家を壊したくない、犠牲にしたくないって思いはたぶんあの村の人たち全員にある。だから、誰かを犠牲にしなければならないのならを。そして村人は犠牲にならないように、あなたを弔っていますよとアピールしている。けれど、お前たちのせいでこんなことになったとも同時に思っているから、旦那さんと奥さんは別々の場所にいる。もしくはふたり揃えば自分たちが対抗できないくらいの力を持ってしまう──とかね。どちらにしても、自分たちの罪がそれだけのことだったという自覚はあるはずだよ」
 兄の想像を、ただの妄想だと笑い飛ばすことはできなかった。
 私がここに導かれた理由も、実はというよりも、村人たちのという念が強いからかもしれなかった。
 なんだか底知れぬこの池が途端に不気味なものに思えた。
 足を引っ張られたりしないだろうかと、それこそ嫌な妄想に取り憑かれる。
 それを払拭しようと、私は口を開いた。
「兄さん」
「なに」
「──もしかして、全部さ、このなのかな」
 そう聞いたものの、なんだかそれも違う気もする。
「この池が村人たちの意思を汲んで、奥さんを死に至らしめて、それ以降も人を飲み込んでる──って?」
「いや、そこまでは……言ってない……けど……」
「……俺は、だと思うよ」
 兄は墓石を見つめながら呟いた。
「え?」
「──この池にはがいる」
? 精霊の精ってこと?」
「そう。本当にここで誰かが犠牲になってるかは、俺にはわからない。けれど、こので誰かが傷ついているって考えられるなら、このが誰かを守ってるって考えるのも、同じくらいあってもいい考え方じゃないかな」
「…………そう、だね」
 さわり、と風が頬を撫でる。
 周りの木々の葉がそっと揺れて、まるでが返事をしたみたいだった。
 私は兄の考えをもっと聞いてみたくて、野暮だとわかっていてあえて質問した。
「兄さんは誰を守ってると思うの? よそ者? それとも村人?」
「さあね。──どっちも、かもね」
 兄は、それが『これ以上、傷ついてほしくない』というの願いなんじゃないか、と想像を締め括ったのだった。





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