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序章 黄昏の森

さくら姫、鍛冶屋のクラのもとへ

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 ──この世にあらざるところありそこなるところに神々すまう 神々この世をつくりひとつくる ひと神々とともにこの世をひろめる 神の御子治めし──

 そこまで読んだところで、どたどたと足音を立てながら近づいてくる者を感じて、聡明そうな細面の少年は古い書物を閉じる。
 控えて待っていると、予想通り昔の大いくさで負った刀傷が顔にある老武士がやって来た。

「おお、ここにいたのか。やはりおぬしを探すときは城の書物庫だな。姫は、さくら姫はどちらにおわす」

 やはりその事かと思い、心の中でため息をついたあと、問いにこたえる。

「姫様は供の者と城下に出かけおりまする」

 それを聞いた途端、老武士はへなへなと崩れて座り込んだ。

「またか。……またかまたかまたかまたかまたかぁぁぁ。 どうしてああじゃじゃ馬なのだ、尾張国白邸領領主瀬鳴弾正正就せなりだんじょうまさなりのひとり娘なのだぞ。見目麗しく聡明で黙って座っていれば縁談引く手あまたなのに、口をひらけば男勝りに言い負かし、目を離せば何処へやらとふらりふらりと出歩く始末、なぜ大人しくおなごらしくできんのだあぁぁぁ」

 少年はさくら姫の御守役である老武士を気の毒に思いながらも、何もこたえず黙って愚痴をきく。

──この御方の言い分もわかる。大名の姫様となれば家と家のつながりをつくるために嫁ぐのが当たり前なのだろう。しかし姫様はどうも違うような気がする。あの方は当たり前ではおさまらないと──

 少年は、さくら姫をどうあらわしていいか分からず、それを考えるのをやめた。そして今日のお供である弟分とさくら姫はどうしているのだろうと思うのだった……。

※ ※ ※ ※ ※

 そのじゃじゃ馬、でなくて、さくら姫は新緑の青空のもと城下町を離れて領内の東に続く街道を、総髪に浅葱色の小袖に灰白色の袴姿で乗った馬で駆けていた。

「姫さ……、じゃなくて、さら様ー、お待ちくださーい」

はぁはぁと前を駆ける馬を、職人姿をした短髪であどけない童顔少年が声をかける。

「なんじゃ、平助。もう息が切れたか」

さくら姫は馬を止め、平助を待つ。

「はぁはぁ、今日は、荷物が、多いから……」

ようやく馬に追いつくと、息も絶え絶えにこたえる。

「先にいく、クラのところで待っているからな」

と言うが早いか、さくら姫はふたたび馬で駆けていく。

「ちょ、姫……」

呆気に取られたが、追いつくのを諦め息を整える。

「やれやれ、いっときは大人しかったのに、あっという間に昔の姫様に戻ってしまったな」

そう言いながら、ゆっくりと歩き始める。

「おっさんのところならそう遠くはないし、おっさんがいるから大丈夫だろう。あとで怒られない程度に歩いて行くとするか」

 なにせ今日は荷物が多い、こんなに重い物を担いだのは久しぶりなのだ。ヘイスケは担いでいる行李を担ぎ直して、ふう とひと息ついた。

※ ※ ※ ※ ※

 「クラ! いるか?! クラ!」

 東の村に続く道沿いにある小屋に着いたさくら姫は、馬上から声をかける。

「馬上から話すとは、相変わらず礼儀を知らぬ奴だな」

 笑いながら住み家である粗末な小屋から出てきた男は、背丈が七尺ちかくある大男で、ほう髪の髪を無造作にまとめ、伸び放題の無精髭、筋骨隆々の躰に赤黒い肌に袖無しの着物にぼろぼろの野袴姿であった。

 見た目は恐いが、人懐っこい笑顔で、ひと目で好人物とわかる人物であった。

「おういたか。遊びに来てやったぞ。茶をもらおうか」

 横柄な物言いに普通なら怒るところを、涼やかに聞き流し、

「茶など無いが麦湯はある。それでいいか」

その返答にうむ、と応えながらさくら姫は馬から降りる。

 クラは馬を柵に繋いでから小屋に戻り、麦湯を湯呑みに淹れて持ってくる。それをひと口飲むと、さくら姫が言う。

「あとで平助がくる。その分も頼む」

「なんじゃ珍しくひとりかと思ったら、ちゃんとお供がいたか」

「おいてきた」

「おいてきたか、そりゃあいい」

 笑いながらそう言うと、桶を手にして出ていこうとする。

「どこへ行く」

「冷たい水の方がよかろうと思ってな、ちょっと裏の沢まで水を汲んでくる」

「わらわも飲みたい」

「案ずるな、ちゃんと沢山汲んでくるから」

そう言いながらクラは出かけていき、クラと入れ違いに、平助が到着する。

「ひ… さら様、ただいま着きました」

「おそい、歩いてきたな」

「無茶言わないでください、いつもより重いもの背負っているのですから」

ふん、と言いながらさくら姫は平助を見る。

 さくら姫より大きくあるが、年頃の少年としては小柄の躰である。それが背丈と同じくらいの行李を背負っている。
 この格好で馬の走りについてくるだけでも驚くのに、今日に限っては当人と同じくらいの大きさと重さの荷物を背負っているのだ。
 ついて来いはもちろん、おそいと言う方が無茶な話である。それでもさくら姫は文句を言うだけで、なじりもしないしお供を替えることもなかった。

 そんな話しをしているところに、クラが帰ってくる。

「おう、平助よく来たな。冷たい水を汲んできたぞ」

「お、おっさん、かたじけない」

 歳下少年のおっさん呼ばわりも聞き流し、微笑みながらクラは、汲んできたばかりの沢の水を湯呑みに淹れて二人に差し出す。

 美味しそうに飲むふたりを、クラは嬉しそうに見る。
 「馳走になった」というさくら姫、「ごっそさん」という平助に、はいよとこたえるクラ。

和やかないつもの光景であった。
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