沖田氏縁者異聞

春羅

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第五章

第八話

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 三月になった。

 そろそろ雪も溶けてきて、毎日のようにたくさん、サラサラに乾いた雪が降るという蝦夷も同じだろうか。

 こんなに春が待ち遠しかったことってない。

 勉強は……どうかなぁ……自分では頑張ったつもりだけど。

 夜に少しの明かりを灯して本を開いていると、やっぱり時々、急に見えにくく文字がぼやけることがあった。

 でも以前のような恐怖心はなくなってきた。

 治るという希望が、光をくれる。

 頬と目蓋を斜めに裂いた傷も、少しずつ薄くなっていた。

「最近根詰めて勉強してるって聞きましたけど、大丈夫なんですか? 病気にでもなったら大変ですよ」

 久々に弓継が会津に手伝いに来た。すっかり一人前の顔をして、月野は小言ばかり言われていた。

 弟というよりお兄さんというより、まるでお父さ……って、また怒られちゃう。

「Dr.Joseph……Panacea? これ……」

 弓継は、ペラリと机からめくって流暢に読み上げた。

 名前や住まいが書かれた小さな紙、つまり名刺は当時段々と一般的になった自己紹介方法で、これは良順から借りたものだ。

 弓継も月野がイギリスで治療を受けることは知っていたので、疑問の原因はすぐにわかった。

「Panacea……万能薬、だなんてすごい名前だなぁと思って先生に訊いてみたらね、あまりに名医だからって患者さん達に呼ばれている愛称なんだって」

「……万能薬っていうか……ふぅん……」

 月野は、自分と同じように、てっきり感心するかと思っていたが、眉を寄せて考え事をする姿勢で片拳に顎を乗せている。

「……俺も少し眼科を調べたんだけど」

 気を取り直した風に話題を変えた。

「完全に失明しちゃうと治すのも難しいみたいだから、あんまり無理しないでくださいね」

 そんな話、初めて聞いた。

 休ませようとして言ってくれているのかな。

 ……あ、わたしが勉強不足なだけかも。

「俺も、一緒に行ってもいい?」

 不安そうな顔をしたのが伝わったのか、ケロリとして弓継は言った。

「……ほら、これからは蘭語より英語が主流になるらしいし。もっと西洋医術を学びたいし」

「診療所はいいの?」

 東京にもある良順の診療所は、弓継がいないと実際困る。

「うん。こっちの方が大事」

「勉強熱心だね」

「うん。他の医生に頼むし」

 良順にも許されて三人で行くことになったが、三月の中旬になってもイギリスからの連絡はなかった。

 忙しいのだろうと、良順は言う。

 月野は桜が満開に咲くまでは春という実感が湧きにくい質なので気長に待つことができたが、弓継は目に見えてイライラしていた。


 土方が呟くと、これでもかと口振りを真似して伊庭が続く。

「やっと来やがったか」

「待ちくたびれたぜ」

 睨み付けるとニヤリと笑う、その背後には存在感を消し気味の大鳥がいた。二人の上官だ。

「お二人には参りますよ。余裕なんですねぇ」

 明治二年三月、予測はしていたが、ついに薩長が動いた。

 品川から八隻もの艦隊を率いて宮古湾を目指すという。その中には最新鋭の甲鉄……旧名ストーンウォール号が加わっていた。皮肉にも、幕府の金で作って奪われた主力艦だ。これに適うのは開陽しかなかったと、海上戦には素人の土方でもわかるが、沈んだものを今更嘆いても仕方のないことだ。

 今ある戦力で、何をやっても勝つしかない。

「早速軍議を開きますから、行きましょう」

 陸軍奉行である大鳥は、わざわざ報せに、と言うより迎えに来たのだ。

 こういう気取らなさが、兵士から慕われるところなのだろうな。

 土方に対する態度も、元から物腰柔らかだがさらに丸くなった。推測に過ぎないが、役名で判然と、土方を格下に従けたからだ。見下しているわけではなく、部下を蔑ろにしないという信念と安心感からだろうと、やっとわかってきた。

 長方形のやたらと大きな机……現代でいうと角張ったテーブルが中央に置かれ、そこに整然と椅子を並べた部屋。

 後から加わったニコール、コラッシュ、フォルタン、マルラン、クラト……よくこれだけ横文字を憶えたな俺は……と土方は思うが、総勢十人のフランス人が、既に集まっていた。薩長にはイギリスが付き、中立を保つと宣言していた筈のアメリカがストーンウォールを渡している。

 さながら米英と仏国の戦争だと、錯覚しそうになる。現に、榎本さえ待たずに作戦を始めてしまっている。

 土方が評するにあんなチャラチャラした野郎でもフランス人を束ねる立場にあるブリュネより、ニコールというフワリとした顔の一見には優男が、海軍奉行・荒井郁之助と回天船将・甲賀源吾に熱弁を振るっていた。

 遅れて軍議に参加した土方だが、最初から居ても訳がわからなかっただろう伊庭も、童顔丸出しでキョトンとしていた。

 早口のフランス語混じりでも聞き取れるらしく、頻りに驚愕と感嘆の声を上げていた大鳥に、易しく噛み砕いた説明を受けた。

「アボルダージュ(abordage)……接舷攻撃です」

「ぅわ! 見掛けによらず大胆だねぇ、ニコさん」

 伊庭、勝手に妙な徒名付ける癖はやめろ、と土方は睨み付けるが、大鳥はクスリと笑って補足した。

「主力艦ストーンウォールに狙いを定めて平行接舷し、反撃の余地を与えず一気に兵士が乗り移って攻撃する……確かに大胆ですよね。フランス人は流石、口説き上手です」

 口説くっつうか、無茶苦茶に乱暴な手込め同然だがな。

「甲鉄奪還か。船上だろうが俺達のやるこたぁ陸と変わらねぇな」

 船同士の大砲や銃撃戦に頼り切りの任せ切りにせず、直接攻め込めるという訳だ。

「甲鉄って……やめてよ、敵さんの呼び方は」

 榎本を始め幕軍は、その鉄壁の軍艦を専らストーンウォールと名指し、ちなみに秋田藩から奪った高雄も、回天に次ぐ速力から第二回天か二番回天か、アシュロットと呼んでいた。

 けどよ、嫌いなんだって横文字は、と土方には訂正する気などない。

「それ、と。まさかあなたが先頭切って乗り込むなんて、言わないでくださいね。指揮官だということをお忘れなく」

 口煩く諫められながらも、計画自体はすんなり決行されると思っていた。しかしそれを阻んだのは、他でもない味方の総大将だった。

「そんな大層な軍略を、私の許可も、相談すらなく進めていたのか」

 こんなことでヘソ曲げるのかと、意外に人間臭い面を見た。

 荒井、甲賀、ブリュネ、大鳥と、ちゃっかり土方まで接舷奪取の打診に行くと、榎本はいつも貼り付けている穏やかさは皆無にかなぐり捨てた形相で撥除ける。

 今日に至るまで、散々吟味されたであろう案をだ。

 いや、こんなことと言っても、実際にやられたらそりゃ腹立つよな。

 ……そうか。

 だからかっちゃんは、俺が出す案に時折渋い顔をしたんだ。

 蚊帳の外に出して勝手に策を練るなと。

 俺の場合、あまりの凄惨さに、というのも原因だと、思い当たる節が多々あるが。

 ここまで考え、……今更だな、と止めた。

「この軍のトップは誰か。よく考えてみるのがよろしいだろう。私はフランス人を教師としては認めたが、それ以上の権限を与えたつもりはない」

 その口で、よく友好的になれなんて言えたもんだ。

 普段優しげな奴ほど、キレると手が付けられねぇ、ということも思い出した。

 昔からの仲間のように親しくしていたブリュネは、ほとほと困り果てた様子で狼狽えている。

 やれやれ仕方ねぇな、と渋りながら、榎本に言っている心地はあまりしなかった。

「申し訳なかった。我々は、総督の指示が無くば立ち行かない。采配を仰ぎたい」

 聾桟敷に置いておきながら、また祭り上げるのか。

 矛盾を感じながら、土方は頭を下げた。

「上の動かし方を、よくご存知だ」

 後から大鳥に言われた言葉だ。

 土方の一言を皮切りに、漸く他の者達も宥め賺しを始めた。

「私としたことが幼稚な真似を。あなたに助けられましたね」

 機嫌を直した榎本は、別人のような顔……つまり見慣れた顔をして恥ずかしげに言った。要するにこの男は、何事も自らの思惑通りに進まなければ気に入らねぇ、という人間らしい心情が極端に強いのだ。

 三月二十一日未明、信号本艦・回天には荒井郁之助、相馬主計、野村利三郎、そして甲鉄への突入を任務と定めた兵士である神木隊と彰義隊四十名が乗り、アシュロットには神木隊二十三名、蟠龍には彰義隊と遊撃隊二十名が配置され、それぞれ箱館港を出た。

 土方は回天で、兵士の直接指揮をすることになった。

 しかし翌二十二日、大時化に遭った三艦は離れ離れに海原を彷徨い、アシュロットとは再会できたが、機関の故障を起こしていた。蟠龍は、もしはぐれたら鮫沖で落ち合うという取り決めを律儀に守っていた。

 まさに踏んだり蹴ったりだが、それはまだ続くことになる。

 三艦が揃ってから宮古湾へ攻め入るという計画を守れなかったのには、いくつか理由がある。

 まず、アシュロットが航行もできない程に故障し、修理をしなければならなかった。また、大時化を乗り切ろうと燃料の石炭を海に棄ててしまった為、回天からの補給が必要だった。

 そして、兵士の疲労も溜まっていた。まだ慣れない者も多い長距離航海の上、生きるか死ぬかの嵐に揺さ振られたのだから当然だ。

 しかし最大の理由は、宮古湾鍬ヶ崎港に薩長艦隊が入港、停泊しているとの情報を得たからだ。

 吉報である。ここで引き返す訳には行かない。

 アシュロットが甲鉄に接舷攻撃し、回天は他の艦を砲撃して援護する、と作戦を組み直した。


 二十四日、相馬と野村が、停泊していた山田湾大沢沖の北岸を指差した。

「岸が……黄色く染まっています」

「うぉあっ! キレイっすよ副長!」

 まだ蝦夷には咲かない菜の花が一面に広がっている。

 故郷を思い出す。

 きっと、二度と戻れねぇ風景だ、と。

 土方の頭上にはアメリカ国旗がはためいていた。アシュロットにはロシアの旗が。

 脱走艦であることを装う為で、共に乗り入れたフランス人曰く、他国旗を掲げるのは諸外国の戦では定石らしい。攻撃開始の前に自軍の旗に変えれば、国際法にも引っ掛からないという。

 法に触れる触れねぇの問題かよ、と土方ばかり正論文句叩いていられる状況ではなかった。

 かっちゃんに見ていてくれとか宣言した癖に、これじゃあ厭がられるかもな。

 しかし小綺麗な武士を夢見たままでは、到底勝てる戦ではなかったのだ。

 深夜、標的を目指して抜錨した。海も空も真っ黒に、二艦の行く手を包んでいた。


 甲板に出て暗がりに目を凝らす土方に、野村が言った。

「遅いっすねぇ」

 修理したアシュロットはまた故障し、僅か3ノット、つまり時速5.6kmしか出せなかったのだ。作戦決行は、夜明けを直前にした午前四時。

 間に合わねぇな。

「俺達だけで行って、途中でアシュロットが乱入してくれんのを待つか」

「まるでアレっすね。池田屋っすね」

 あの時は、たった五人で池田屋に踏み込んだ近藤達の窮地に、土方隊が駆け付けた。沖田が初めて血を喀いた……斬殺を手柄としてきた罰なら俺にと、土方が天をも恨んだ夜だった。

 つい五年前のことだが、遠い過去のようだ。

 三月二十五日、全速力の十二海里、時速22.2kmで閉伊崎を通り抜ける。

「一隻も見当たりませんね。もう出てしまったんでしょうか」

 宮古湾内を目の前にして、数少ない池田屋の頃からの隊士である島田魁が、広い肩を落とした。

 東の空が白み始めた。直に夜が明ける。

「いた! 戊辰丸です!」

 マストの上で見張りについていた軍艦並・新宮勇が声を張った。

 土方らが散々煽られた大時化を避ける為、出航もできないまま、より港内深くに停泊していた敵艦隊の姿は舘ヶ崎に隠されていたのだ。そして間もなく、二本マストに二本の帆桁を持ち、一本の煙突に下方が幅広……という独特の戦艦を見留めた。

「ストーンウォールだ!」

 誰からともなく歓声が上がる。

 あちらでも回天の姿は影となって見えるだろうに、八隻ある敵艦……ストーンウォール、春日、陽春、第一丁卯、飛龍、豊安、戊辰、晨風のどれもが機関の点火すらしない。

 煙突に三角の蓋をしたままなのが見える。蒸気船の常識……これでは一刻、二時間程度はビクともしない。

 動かぬ的だ。

 そう、動きがないのは当然だ。こちらは外国旗を掲げている。

 投錨の見物でもしようかと気楽に構えて、いや、寝転んででもいるに違いない。

「いくぞ」

 面舵前進帆を膨らませながら星条旗を下ろし、日の丸を昇らせた。

「撃てぇー!」

 船将・甲賀源吾が砲撃を命じる中、双方の船が騒然となった。そう、密かに味方側もだ。

 回天の槍出と艦首が、ストーンウォール号メインマストの縄梯子に引っ掛かかり後退すらできず、さらに波に流され船体が突き刺さる形になった。

 ……へったくそ。これじゃあ平行接舷じゃなくて脇腹突撃だ、と土方も言っている場合ではない。

 予測よりもストーンウォールが右手前に停泊していたのと、発見が遅れて舵が切れなかったのが原因だった。通り過ぎそうになったくらいだ。

 怒濤のように押し掛ける為には、移乗口が広くなければならない。

 しかも回天とストーンウォールの甲板高低差は一丈、約3mもある。この状況では目眩がする程の高さを、飛び降りなければならない。

 作戦もへったくれもねぇな。でも売った喧嘩を引っ込めるわけにもいかねぇよ。

「アボルダージュ!」

 高らかに叫ぶ甲賀には、眼下の甲板にガトリング砲が引き摺られてお出まししたのが、見えていないわけではない。

 こんな秘蔵っこがいるとは聞いてねぇぜ。

「先登!」

 かねて一番乗りを宣言していた通り、一等測量士官・大塚浪次郎が飛躍した。これに鼓舞され、軍艦役・矢作沖麿も身を乗り出す。その瞬間、胸を弾丸が突き抜けた。

 激昂し、彰義隊士達も次々下へと身を躍らせる。

 降りたら死ぬ。良くて相討ちだ。だが俺が行かなくて、戦わずに突っ立っててどうする。

 手摺りに吸い寄せられる躰の、肩を叩かれた。

「副長は下がっててくださいよ。力不足っすけど、代わりに俺がいきます!」

 野村……!

 なんで……笑ってやがる。

 待て、行くな。

 そんなこと、指揮官が言っていいわけがなかった。

「よし。ここが死に場所と心得て、存分に暴れてこい」

「承知! ありがとうございます!」

 冷徹な鬼の命令に、なんで……礼なんか言ってんだよ。

 その姿はヒラリと、目の前から消えた。

 近藤が、新撰組の汚名、幕府の狡猾全てを背負って板橋に行った時。あの時と同じだ。

 ――……

「俺に行かせてください! 局長にお供したいんです!」

「及ばぬ身ですが、必ずやお守りします」

 ――……

 野村と相馬、二人して近藤に従いたいと志願した。

 それを認めた時も、こうして感謝を述べて、勢い良く頭を下げたのだ。

 ――……

「……ッ何も、できませんでした……! あんなに近くに、いさせてもらったのに……っ」

 ――……

 涙を流して後悔を吐露する野村を見て、こいつも俺と同じように、死に時を逃したと思い込んじまった男なのだと、土方は感じた。

「甲賀船将!」

 操船指揮を取る艦橋から、耳を突き裂く声が上がる。

「まだまだ! 構うな! 砲撃を止めるな!」

 甲賀は左股と右腕を続け様に撃たれ、それでもその場を離れなかった。同じく被弾したニコールと伝令役・安藤太郎は、既に船室に運ばれている。

 砲に置いてはこちらが上手だった。

 実弾に霰弾を装填した五十六斤砲が、戊辰の船体を貫通、艤装をぼろぼろにした。

 しかし戦闘は、当時の日本人が表現できた最短時間である四半刻……約三十分にも満たない内に終決したと報告されている。

 圧倒的不利な戦場にいた者達にとっては長く、九隻も犇めいては狭過ぎる港での超接近戦にしては、感情を差し引いても長時間とも言える。

 ストーンウォールに移乗できたのは僅かに六人。

 回天甲板上では移乗口である艦首、高位置の為に狙われ易い艦橋に銃撃が集中し、大半が死傷した。

 勝敗を分けたのはガトリング砲。またも新兵器にやられたのだ。

「撤退ー!」

 それを最期の命令に、甲賀は米噛みを貫かれ倒れた。涙を振るい、転瞬代わりに指揮をするのは荒井郁之助だ。

 土方はだらりと掛けられた縄梯子から手を伸ばし、傷付いた腕を引き上げる。

「撤退だ! 早く上がってこい!」

 新撰組隊士の中で下に降りた唯一の者となった野村は、負傷して逃げてくる仲間を先へ先へと誘導し、その背を押してやったりしていた。

 急がなければ、また狙い撃ちにされる。

「出航するぞー!」

「野村! 早くしろ!」

 最後に残った野村は、梯子に手を掛けようともせず茫然とそれを眺めていた。

 土方の声に顔を上げる。

「……お別れっす」

 両腕を撃たれて手も挙げられず、掴めないのだ。それに気付かない程に必死の戦いだった。自分の体重を腕に掛けてなど、登れない。

「副長と戦えて……すごく、楽しかったっす!」

 またそうして、笑いやがるんだ。

「馬鹿野郎! 諦めてんじゃねぇ! 待ってろ、お前一人ぐれぇ背負ってやらぁ!」

「土方さんダメです! 危険過ぎます!」

「そんな猶予はありません! 全員が死んでしまう!」

 身を乗り出すと一斉に止められた。

 留まっては、ここで終わりだ……わかっている。

 船体は二つの意味で不幸にも、ゆっくりと、動き始めていた。

「副長、私が降ります」

 落ち着き払った静かな声で言う相馬に、野村は背を向ける。

「じゃあな。お前がしっかり支えんだぜ」

 刀を抜き払い、一身を烈風のような銃撃の中に投じた。

 船上にいる誰もが、早くここから逃げなければと、歯軋りせんばかりに思っていただろう。

 遠ざかっていく敵艦の中、野村の躰が海に落ちたのが見えた。それでもさらに、遠くなっていくしかなかった。


 この大きな好機を手放そうかと迷うなんて、以前の俺には考えられなかった。

 姓を名乗る時は松本を使うのを許してもらっている。だから周りから見たら良順先生の養子扱いで、東京の診療所で上に立っても七光りにしか思われない。

 威を借るだけの、実績も経験もないガキだ。両親を亡くしたことで同情を引いて、可愛がられているだけだと。

 侮蔑の目に囲まれるのが辛いから、東京に帰りたくないのかも。

 揺るぎないもの……自分自身の力が欲しかった。

 だからこの話は、喜ぶべきものなんだ。

 俺が行かせてもらうのはやっぱり依怙贔屓にしか見られないだろうけど、そこで身に付けたものに、誰にも文句を言わせやしない。

 先生から、イギリスに留学しないかと言ってもらった。

 日本各地から医生を集めて送り込むらしいけれど、その内の一人に俺は選ばれた。

 迷ってしまうのはおかしい。

 断ったらバカだ。

 身寄りのない、知己とはいえ他人の子どもを育ててくれた恩義に応える意味でも、俺は先生に次ぐような医者になりたい。

 絶対になる。

 でも月野さんは。

 ううん、あのひとが心配だとか、理由にしてはいけない。

 そんなのカッコつけだ。

 自分が一緒にいたいだけだ。

「さすが弓継くんだね!」

 月野さんは、心底おめでたいという笑顔満面で言った。

「……そんなことないよ」

 このままじゃいけない。

 好きになったらダメだ。

 そう叱責しながらもまだ弓継は、ちょっと先に行くだけで、月野さんだって、眼の治療の為にイギリスに来るのだからと自分を慰めた。

 また必ず会えるのだからと、少しの疑いも持たずに信じて、留学の決意を固めた。

 準備をしながら言った。

「月野さんも、さ。ジョーとかいう医者の知らせを待ってないで、イギリスに押し掛けちゃえばいいのに」

 こんなに持って行けないから貸してくれる、という言葉は嬉しかったが、次から次に出てくる医学書の量に月野は唖然とする。

「……無理だよ」

「だって、もう四月だよ? 待たせ過ぎ!」

 月野は、今この国を離れてしまうのに迷いを感じていた。

 宮古湾での戦いで、幕府軍は敗れたという。

 イギリスに行ったら、どちらが勝ったかはわかっても、土方さまがご無事かまではわからないかもしれない。

 蝦夷の医者になりたい。

 その“役割”を手にした上で蝦夷へ行きたい。

 でも、医学所に居て改めて学んだ大きなことは、一人一人の他人の、命の重み。

 もし医者になれて……それでもし、患者さんを治せなかった時、眼が悪いから救えませんでしたなんて絶対に言い訳できないし、わたしが許せない。

 こういう風にいろいろと理屈っぽいから、可愛くないと言われてしまうんだ。

「良順先生が直に会ってもう一度お願いするって言ってくれたから、呼んでもらえるまで待ってるよ」

 良順も留学生達の監督として一月くらいイギリスへ行くので、直談判してやると意気込んでいた。

「なら、先生が喧嘩しないように俺も付いて行かなきゃ」

 ここ、会津の医学所には代理のお医者さまが来てくださるけれど、寂しくなるなぁ。

「月野さん寂しいでしょ。俺が残ってあげよっか?」

「弓継くんこそ、ホームシックで泣かないでね」

「誰がっ!」

 このままじゃいけない。

 土方さまに、また会えるという保証はないんだ。

 一度切りと決めたはずの勇気を持ちたい。

 それでも決意はできずにいた。


 空を見上げても。

 どこまでも青みはなく、ただ暗く灰被りの雲が覆う天井。

 青空を懐かしいと思うのは、俺だけか。

 石田村の菜の花。緑と黄が一面に広がる上の、眩しいくらいの青。

 もう二度と見ることのない、故郷の面影。

 今の頭上にある空では、なにも描けない。

「歳さん? どうしたのさ、ボサッとしちゃって」

「……お前こそなんだよ、んな粧し込んで」

 土方とはまるで正反対に張り切った様子の伊庭は、まだパリッとした、下ろしたてであろう黒ジャケットを身に着けている。

 冷やかし目的で訊ねてみたが、訊くまでもなく、例の女写真家の元へ行くのだ。

「え……ちょっとね、一音さんに会いに行こっかなぁって」

 さっと耳まで染めて鼻を掻く。

 ……だからガキ扱いされんだよ。

「焦れってぇなぁ。とっとと所帯持っちまえよ」

 苛ついていた。完全に八つ当たりだ。土方は、既に後悔していた。

「前の亭主に死なれてんだろ? お前まで戦に出続けるなんざ、気が気じゃねぇだろうよ」

 伊庭は黙っている。しかし心中は伝わってくる。

 “隻腕の、役立たずだからか”

 違う理由でそう言った沖田と、同じ顔をさせてしまっている。

「……歳さんだって……江戸に置いてきた女がいるんだろ。帰ればいいじゃないか」

「俺は……」

 こんなことを言うつもりではなかった。ただ、終わらせたかった。

 テメェの機嫌の悪さにうんざりする。

 この空のせいだ。

「俺はな、諦めちまったら近藤さんに合わせる顔がねぇんだよ」

 足手纏いだなどという意味は微塵もなく、伊庭だけじゃねぇ、泣かせる女がいるならば帰ればいいと本気で思う。だがそれを許したら、味方は誰もいなくなる。

 いや、きっと……敵軍も同様だろう。

「近藤さんが生きてたら……歳さんの幸せを望むと思うけど」

 伊庭は怒った様子も見せず、背を向けて殊更足早だ。

 どこかでわかっていた。俺だって、かっちゃんの言いそうなことぐらい。

 結局、自分が諦めきれないのを、大将のせいにしているのだ。

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前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

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