僕《わたし》は誰でしょう

紫音みけ🐾書籍発売中

文字の大きさ
4 / 62
第一章

見覚えのある人

しおりを挟む
 
 低い、落ち着いた声だった。
 どことなく耳に心地良い響きだったけれど、もちろん聞き覚えがあるわけじゃない。フランクに話しかけてきたところを見ると、おそらくは親しい間柄なのだろうけれど。

「その……ごめんなさい。今は、事故のせいで記憶が」

 記憶がないので、あなたのことはわかりません。と、率直に伝えてしまってもいいのだろうか。

 言い方によっては、相手を傷つけてしまうかもしれない。特に恋人ともなれば尚更だ。そう思うと、何も言えなくなってしまう。

 そのまま黙り込んでしまったぼくの方へ、男性は静かに歩み寄ってくる。
 カーテンの向こうから現れた彼の全身を改めて見上げると、その姿は思ったよりも年齢が上のようだった。

 およそ高校生には見えない。大学生、というよりは、新社会人といった風貌だった。
 おそらくは二十代の前半から半ばほど。清潔感のある黒髪に、白いワイシャツとダークグレーのスラックスというラフな出立ちだ。

「記憶喪失になったって聞いたけど、本当だったんだな」

 男性は形の良い目を細めて、神妙な面持ちでこちらを見下ろす。まつ毛の長い、どこか妖艶な眼差し。その左目の下には泣きボクロがある。

(泣きボクロ……)

 ふと、そのホクロに見覚えがあるような気がした。はっきりとは思い出せないけれど、ぼんやりとした既視感が脳裏を掠める。

「あの。あなたは、ぼくとどういう関係なんでしょうか」

 この人のことを何か思い出せるかもしれない。初めて得た感触に、自然と期待感が高まる。

「俺は、キミの通う学校の教師だよ。今は担任じゃないけど、前に受け持ったことがあったから」

「教師?」

 オウム返しに呟きながら、その事実を頭の中で咀嚼そしゃくする。

「教師……。そっか。それで見覚えがあったんだ」

「え。何か思い出したのか?」

「あ、いや。なんとなく見覚えがある気がしただけで。具体的なことは何も思い出せないんですけど」

 まさか両親よりも先に、学校の教師のことを思い出しかけるとは。

 いや。もしかしたら、この男性教師には過去に特別世話になったのかもしれない。さすがに恋人同士という間柄ではないだろうけれど。

「比良坂さーん。ちょっと失礼しますねー」

 と、そこへ今度は別の声が届く。
 サバサバとした女性の声。こちらの返事を待たずに、彼女は問答無用でカーテンを開けた。

「あら! ごめんなさい。取り込み中だった?」

 カーテンの向こうから現れた看護師の女性は、しまった、という仕草で口元に手を当てた。

「ああ、いえ。大丈夫です。もう帰るところでしたので」

 男性教師はそう言うと、どことなく慌てた様子でベッドから離れる。

「それじゃあ、俺はもう行くから。ゆっくり休めよ」

「えっ。もう行っちゃうんですか?」

 せっかく何かを思い出しかけているのに。
 それに、まだ大事なことを聞けていない。

「待って。あの。……先生の、名前は?」

 名前を聞けば、少しは何かを思い出せるかもしれないと思った。

井澤いざわだよ。井澤いざわなぎ

「井澤……先生」

 懐かしい響き、のような気がする。
 彼は看護師の女性に軽く会釈すると、そそくさと病室を出ていった。
 
しおりを挟む
感想 15

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

神楽囃子の夜

紫音みけ🐾書籍発売中
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。 【あらすじ】  地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。  年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。  四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。  

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

光のもとで2

葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、 新たな気持ちで新学期を迎える。 好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。 少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。 それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。 この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。 何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい―― (10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)

10年引きこもりの私が外に出たら、御曹司の妻になりました

専業プウタ
恋愛
25歳の桜田未来は中学生から10年以上引きこもりだったが、2人暮らしの母親の死により外に出なくてはならなくなる。城ヶ崎冬馬は女遊びの激しい大手アパレルブランドの副社長。彼をストーカーから身を張って助けた事で未来は一時的に記憶喪失に陥る。冬馬はちょっとした興味から、未来は自分の恋人だったと偽る。冬馬は未来の純粋さと直向きさに惹かれていき、嘘が明らかになる日を恐れながらも未来の為に自分を変えていく。そして、未来は恐れもなくし、愛する人の胸に飛び込み夢を叶える扉を自ら開くのだった。

処理中です...