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第4章
僕は狂ってしまうほど
しおりを挟む車内には死体しかなかった。
いや、正確には『これから死ぬ予定の人間』しかいなかった。
右を見ても左を見ても、老若男女すべてが血にまみれている。椅子に座っている親子連れも、手すりに掴まって立っている学生も、みんなどこかしらに怪我をしていて、中には骨が飛び出ている者もいる。
「結人さん? 座らないんですか?」
逢生ちゃんが言った。彼女は最後尾の席が空いていると言って僕を誘導する。
しかし僕はそれどころではなかった。
このままこのバスに乗っていれば、僕らは死ぬ。
このバスは、これからすぐにでも事故に遭うはずだ。
「逢生ちゃん、だめだよ。降りよう。今すぐ」
「え? 何を言ってるんですか、結人さん。……まさか」
僕の体質を理解している逢生ちゃんは、すぐに察しがついたらしい。緊張した面持ちで僕の顔色を窺っている。
「そのまさかだよ。事故るんだよ、このバス。早く降りなきゃ」
「で、でも」
戸惑う逢生ちゃんに背を向けて、僕は運転席の方へと走った。
「運転手さん、停まって。停めてください!」
「わっ、なんだ!?」
僕が声を掛けると、運転手の男性はいきなりのことに驚いた様子だった。
「停まってください。お願いですから!」
僕が掴みかかると、バスは激しく横揺れした。どうやらハンドルを取られたらしい。蛇行運転を始めた車内では、人々のどよめきと短い悲鳴が上がる。
「おい、やめろ。危ないから!」
運転手が怒鳴る。
僕は停まってほしい一心だった。
自分はどうなっても構わない。バスを停めて、逢生ちゃんの無事を確保することさえできればそれでよかった。
けれどバスは停まらない。そのうち対向車線にはみ出して、前方からは大型トラックが迫ってくる。
このままではぶつかってしまう。
「結人さん、落ち着いて!」
逢生ちゃんの声が聞こえた。
瞬間。
彼女の渾身の力で、僕の身体は後方へと引っ張られた。
運転手は僕の腕から解放されると、ギリギリのところでハンドルを左へ切り、トラックとの正面衝突を免れた。
激しい揺れと遠心力によって、僕と逢生ちゃんの身体は通路の上に放り出された。座席に頭をぶつけ、二人そろってその場に転がる。
痛む頭を押さえながら、僕はゆっくりと顔を上げ、改めて車内を見渡した。
そうして、再び愕然とした。
騒然とする車内には、今は誰一人として屍となる者はいなかった。
すべての人間が、生きた姿を保っている。
通路に尻餅をついている学生も、母親にしがみついている幼い子どもも、みんな健康的な姿で、不信感を露わにした目を僕に向けている。
そんな冷たい視線を一身に受けて初めて、僕は我に返った。
あのまま僕が運転手の邪魔をし続けていたら、このバスは明らかに事故に遭っていた。
僕のせいで。
今ここにいるすべての人が、怪我をするか、死んでいたかもしれない。
「このガキ……!」
怒りに震えるその声に気づいて、僕は後ろを振り返った。すると振り向きざまに、襟首を乱暴に掴まれて、そのまま上へと持ち上げられた。
「なんてことしやがる。もう少しで大事故になるところだったんだぞ!」
そこに見えた顔は運転手のものだった。
僕は何とも答えられずに、ただされるがままになっていた。
全身に力が入らない。
何も考えられない。
頭が回らない。
そしてそれ以上に、自分自身に絶望していた。
目の前の運転手は、僕の顔面を目掛けて拳を振り上げる。
「やめてください!」
そのとき、またしても逢生ちゃんの悲痛な声が届いた。
「すみません。ごめんなさい。すぐに降りますから……!」
そう言って、彼女は僕の身体を運転手から無理やり引きはがす。
「さっさと行け!」
運転手は良心的にも、出口の扉を開けてくれた。
その慈悲に甘えて、僕らは外へ向かう。
その際、段差で躓いた僕の身体に引っ張られて、逢生ちゃんもまたバランスを崩し、僕らは文字通りバスの外へ転がり出た。
アスファルトの上で重なるようにして倒れた僕らの背後で、バスは扉を閉め、すぐに走り去った。
「……大丈夫ですか、結人さん?」
上半身を浮かせながら、逢生ちゃんはやわらかな声で聞いた。
僕は何も答えられなかった。
大の字で仰向けになったまま、遠い秋の空を見つめる。
皮肉なほど透き通った青い空。
雲はほとんどない。
その中を、一羽のカラスが優雅に横切っていく。
ただ一言、阿呆とでも僕を罵ってくれれば、少しは僕も納得できたかもしれないのに。
「……ごめん。逢生ちゃん」
言いながら、視界が揺れるのがわかった。
自分のことが情けなくて、恥ずかしくて、涙が出そうだった。
「僕、もう少しで君を殺すところだった」
声が震える。
こんなはずじゃなかったのに。
「ごめん。本当にごめん。こんなつもりじゃなかったんだ。僕はただ、君を死なせたくなくて……」
僕はただ、逢生ちゃんを守りたかった。
彼女がどうにか生きてくれるようにと、それだけを願っていたはずだった。
なのに実際はどうだ。
僕はこの手で、彼女を殺してしまうところだった。
「結人さんはきっと……心配性なんでしょうね。お父さんと一緒です」
そう言って、彼女は笑った。そうして路上に放り出されたままの僕の冷たい手を、きゅっと握る。
「大丈夫ですよ。私は死んだりしませんから」
そんな彼女の言葉を、僕はきっと信じていない。
どれだけ信じようとしても、心の奥底には不安が潜んでいる。
だからこそ僕は誰も信じられずに、こんな風に暴走してしまったのだ。
こんな僕が彼女を信じるためには、一体何が必要なのだろう。
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