飛べない少年と窓辺の歌姫

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第1章

邂逅

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       ◯



「うっ……ごほッ」

 夕食の味噌汁を口に含んだ瞬間、喉が強張って大きくむせ返った。
 危うくベッドを汚しそうになって慌てて口元を押さえる。

「っ……はあ」

 何度か咳をした後、やっと落ち着いて深呼吸をする。
 そうして恐る恐る口を開けて「あー」と声を出してみると、まるで風邪をひいたときのような掠れた音が漏れた。

(……ひどい声)

 変わり果てた自らの声に失望し、羽丘はねおか雲雀ひばりは静かに溜め息を吐いた。

 ここのところ、喉の異物感がどんどん大きくなっているような気がする。
 ずっとイガイガして気持ちが悪い。

 一度うがいをしようと、病室を出てトイレへ向かう。

 蛍光灯に照らされた廊下はしんとして、あちこちの部屋から食器を動かす音だけが響いていた。

 途中、自動販売機と長椅子が並べられた休憩所の横を通る。
 この時間帯にはあまり人のいない場所だったが、そこに一人だけ、車椅子に乗った人物が手元のスマホをいじっている姿があった。

 なんとなく珍しいものを見たような気がして、羽丘はその人物の顔を横目で眺めた。

 痩せ型の、どこか覇気のない少年だった。
 年は自分と同じくらいで、十代の半ばほどに見える。
 あまり血色が良いとは言えない肌とは対照的に、艶のある黒髪だけがやけに美しい。

 と、少年は羽丘の視線を感じ取ったのか、ふとスマホから目を離して顔を上げた。

 互いの目が合い、ハッと気まずくなった羽丘は慌てて前を向き、足早にその場を立ち去ろうとする。

 しかし、

「ねえ。あんた、昼間に中庭で歌ってた奴?」

 不意打ちで投げかけられた少年の言葉に、羽丘は思わず足を止めた。
 恐る恐る振り返ってみると、少年のどこか哀愁を帯びた瞳がこちらを見上げていた。

「……あなた、見てたの?」
「うん。何か揉めてたよね。看護師たちに連れ戻されてた」
「!」

 言われて、気恥ずかしさからカッと顔面が熱くなる。
 まさかそんなところまで見られていたなんて。

 羽丘が何も返せずにいると、少年は淡々とした調子で続けた。

「身体、どっか悪いんでしょ。なんでそこまでして、あそこで歌ってたの?」
「なんでって……」

 歌っていた理由。
 そんなものは考えるまでもない。

 けれど、

「別に、あなたには関係ないでしょ。私がどうしようと、私の勝手なんだから」
「まあ、そうなんだけど……。なんか、気になって」
「何がよ」

 他人にプライベートの事情を説明する必要はない。
 さっさと会話を切り上げて、羽丘は一刻も早くその場を立ち去りたかったが、表情の乏しいその少年は思いのほか饒舌に語りかけてくる。

「あのとき歌ってたあんたの顔、すごく穏やかだったからさ。なんでそんな風に、幸せそうに笑うことができるんだろう……って思って」
「……それ、馬鹿にしてる?」

 一体どんな顔をしていたのか、自分では思い出せない。
 けれど、なんとなく皮肉を言われているような気がして、警戒しながら軽く睨んでみると、

「いいや、馬鹿にはしてない。本当に、羨ましくなるぐらい幸せそうに見えたんだ。だから……そんな風に笑えるのって、なんか良いなって思って」
「……何それ」

 褒められているのか、そうでないのか。
 まるではっきりとしない自分への評価に、羽丘はどこかもどかしさのようなものを感じる。

「別に私じゃなくたって、歌を歌って楽しそうにしてる人なんかいくらでもいるでしょ。それこそ自分の趣味に浸ってるときに、嫌そうな顔をする人なんていないんじゃないの?」
「そうかな……。俺、趣味とかないから、よくわかんないや」
「あなた、趣味がないの? 好きなこととか、これだけは辞められないってものとか……一つぐらいはあるんじゃないの?」

 長話をするつもりはなかったのに、つい反射的に聞いてしまった。
 趣味を持たない人間なんて、余程のことをやり尽くした老人ぐらいだと思っていたし、何より、好きなものを持たないまま生きるなんて、自分には考えられない世界だったから。

「まあ、辞められないものなら一つだけあるよ。この足の怪我も、それのせいだし」

 言いながら少年は、福木で固定された自らの足を見下ろした。

「それって、骨折? スポーツでもしてたの?」
「スポーツっていうか、度胸試し。橋の上から川に飛び込んだんだけど、ちょっと失敗してさ」
「飛び込んだ? 何それ、危ないじゃない。度胸試しって……そういうの、下手したら死んじゃうんじゃないの?」

 ばっかみたい、と思わず非難してしまう。
 好きでもないことに挑戦して、それで大怪我を負ったなんて笑い話にもならない。

「あなた、死にたいの?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「なら、度胸試しなんてバカみたいな真似は今すぐやめることね。そんなことを続けてたって何の意味もないし、あなた、いつか死ぬわよ。たまにユーチューバーとかが話題集めのためにわざと危険なことをしてたりするけど、実際にそれで死んだ人もいるって話だし――」
「心配してくれてるの?」
「!」

 聞かれて、ハッと我に返る。
 なぜ自分が、こんな見ず知らずの少年を相手に真剣に話をしているのだろう。

「別に、心配なんかしてないわよ。あなたがどうなろうと、私には何の関係もないんだからっ……」

 そこまで言ったとき、思い出したように喉が絡んで、げほげほと激しく咳が出た。
 そういえば今はうがいをするためにトイレに向かっていたところだったのだ。

「喉、大丈夫?」
「ほっといて!」

 これ以上無意味な会話を続けたところで、時間の無駄でしかない。
 ただでさえ、自分に残された時間はもう少ないというのに。

「とにかく! 好きでもないことに命を賭けるなんてバカらしいって言ってんの。それでも続けたいなら勝手にすればいいわ」

 半ば吐き捨てるように言って、羽丘はその場を後にした。

 
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