29 / 50
第2章
母子
しおりを挟む〇
静かになった。
先ほどまで部屋中に響いていた母の奇声はもう聞こえない。
騒ぎ疲れて眠ってしまったのだろうか。
荒れ放題になったリビングの隅から、母の息遣いだけが微かに聞こえていた。
「……何が悲しいんだよ、母さん」
返事はないと知りつつも、鷹取は自問するように問うた。
ここのところ、酒の飲み方もその後の暴れ方もますます酷くなっている。
しばらくは落ち着いていた自傷行為もいつのまにか再開して、家の床には点々と赤い血が染みを作っていた。
おそらくは先日別れた男のことをまだ引きずっているのだろう。
どうせロクな相手でもなかったのに、なぜそこまで執着するのか、鷹取には理解できなかった。
そして同時に、その男の代わりにすらなれない己の存在が、酷くちっぽけで虚しく感じられる。
自分はここにいるのに。
まるで居ないも同然のように扱われて、自分の存在意義を真っ向から否定されているような気がしてしまう。
いっそのこと、この家を出てしまった方が楽になれるのかもしれない。
仕事を探さなくてはならなくなるが、選り好みさえしなければ働き口はいくらでもあるだろう。
だが、今この状態の母をここにひとり残していくのは不安だった。
自分が目を離した隙に、いつか自殺でもしてしまうんじゃないか――そんな懸念が頭の隅にちらついて仕方ない。
(昔は、こんなんじゃなかったのにな)
鷹取がまだ小さかった頃の母は、子どものことを何よりも優先する、慈愛に満ちた女性だった。
女手一つで子どもを育てながら朝から晩まで働いて、どれだけくたくたになっても家の中ではニコニコと笑っていた。
一体どれだけの負担がかかっていたのか、どれだけの感情を押し殺していたのかわからない。
だからあの日、ついに限界がきて、きっと何かが壊れてしまったのだろう。
母に初めて『手を焼かれた』日。
熱したフライパンに無理やり手を押し付けられて、あまりの痛みに幼い鷹取は泣き叫んだ。
キッカケは何だったのか、今はもう覚えていない。
ただ一つだけわかるのは、それまで母の中で積み上げられてきたものが、一気に崩れ落ちたのだろうということだけ。
母の心がそこまで追い詰めてられていたことに、幼い鷹取はその瞬間まで気づくことができなかった。
結局、自分は母にとっての何だったのだろう。
ただのお荷物だったのだろうか。
「隼人ぉ……。お酒、買ってきてよぉ……」
その声にハッとして、鷹取は顔を上げた。
見ると、リビングの隅に転がっていた母はいつのまにか薄目を開けて、無表情のまま暗い天井を見つめていた。
「……また酒かよ」
酒、酒と、口を開けばそればかり。
たまに隼人、と名前を呼ぶのも、何か頼み事をするときだけだ。
家にいれば酒を嗜み、外に出れば男を漁る。
あの『手を焼かれた日』から、母は自分の息子に一切の興味を示さなくなった。
その証拠に、あの日を境に、母はふらりとどこかへ出掛けたまま帰らなくなることが多くなった。
そうして児童相談所や施設など周りの人間が騒ぎ出して初めて、強制的にここへ戻らされる羽目になる。
そんなにもここへ帰るのが嫌なのか――と問い詰めてやりたくなる反面、それでも最終的にはここへ帰ってくるということに確かな安堵を覚える自分がいる。
都合の良い扱いを受けていると頭ではわかっているのに。
それでも心のどこかで、何かを期待してしまっている。
「ねえ、隼人ぉ。早く……」
うわ言のように繰り返す母を見兼ねて、鷹取は渋々と歩み寄った。
そうして傍らにしゃがみ込んでみるが、母は虚ろな目を天へと向けたまま、息子の顔を一瞥もしなかった。
「……お酒……」
「もうやめとけって。朝からしこたま飲んでただろ。自分の限界がわからねえのか? これ以上は飲ませらんねーよ」
鷹取が否定の意を示して初めて、母は息子の顔を見た。
「なんで、そんな冷たいこと言うの……?」
信じられない、とでもいうような目で、縋るように問う。
「だから、これ以上飲んだら危ねえって言ってんだよ。もうベロベロじゃねえか」
「あんたまで、私を見捨てるの……?」
会話が噛み合わない。
酔いのせいでもはや頭が回っていないのだろう。
「見捨てるとか、そんなんじゃねーよ。一体何の話をしてんだよ」
「今朝、お父さんから電話があったの……。すごく怒ってたわ。お前は子どもの面倒も見れない駄目な母親だって。このままいつまでも変わらないつもりなら、今後は仕送りもやめるぞって……」
お父さん、というのは母の実父であり、鷹取にとっては祖父に当たる人物だ。
実家からの仕送りがあるおかげで、鷹取たち親子は何とか生計を立てている。
だからこうして何を言われても、こちらが文句を言える立場ではない。
とはいえ、鷹取自身は祖父母とはほとんど面識がなかった。
会いに行く機会がないというよりは、一方的に避けられているのだ。
もともと何処の馬の骨ともわからない男との間に出来た子どもとあれば、そんな態度になるのも致し方ないのかもしれない。
勘当されなかっただけマシだと、むしろ感謝すべきなのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
フラレたばかりのダメヒロインを応援したら修羅場が発生してしまった件
遊馬友仁
青春
校内ぼっちの立花宗重は、クラス委員の上坂部葉月が幼馴染にフラれる場面を目撃してしまう。さらに、葉月の恋敵である転校生・名和リッカの思惑を知った宗重は、葉月に想いを諦めるな、と助言し、叔母のワカ姉やクラスメートの大島睦月たちの協力を得ながら、葉月と幼馴染との仲を取りもつべく行動しはじめる。
一方、宗重と葉月の行動に気付いたリッカは、「私から彼を奪えるもの奪ってみれば?」と、挑発してきた!
宗重の前では、態度を豹変させる転校生の真意は、はたして―――!?
※本作は、2024年に投稿した『負けヒロインに花束を』を大幅にリニューアルした作品です。
神楽囃子の夜
紫音みけ🐾書籍2冊発売中!
ライト文芸
※第6回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
地元の夏祭りを訪れていた少年・狭野笙悟(さのしょうご)は、そこで見かけた幽霊の少女に一目惚れしてしまう。彼女が現れるのは年に一度、祭りの夜だけであり、その姿を見ることができるのは狭野ただ一人だけだった。
年を重ねるごとに想いを募らせていく狭野は、やがて彼女に秘められた意外な真実にたどり着く……。
四人の男女の半生を描く、時を越えた現代ファンタジー。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
僕《わたし》は誰でしょう
紫音みけ🐾書籍2冊発売中!
青春
※第7回ライト文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
交通事故の後遺症で記憶喪失になってしまった女子高生・比良坂すずは、自分が女であることに違和感を抱く。
「自分はもともと男ではなかったか?」
事故後から男性寄りの思考になり、周囲とのギャップに悩む彼女は、次第に身に覚えのないはずの記憶を思い出し始める。まるで別人のものとしか思えないその記憶は、一体どこから来たのだろうか。
見知らぬ思い出をめぐる青春SF。
※表紙イラスト=ミカスケ様
黒に染まった華を摘む
馬場 蓮実
青春
夏の終わりに転校してきたのは、忘れられない初恋の相手だった——。
高須明希は、人生で“二番目”に好きになった相手——河西栞に密かに想いを寄せている。
「夏休み明けの初日。この席替えで、彼女との距離を縮めたい。話すきっかけがほしい——」
そんな願いを胸に登校したその朝、クラスに一人の転校生がやってくる。
彼女の名は、立石麻美。
昔の面影を残しながらも、まるで別人のような気配をまとう彼女は——明希にとって、忘れられない“初恋の人”だった。
この再会が、静かだった日常に波紋を広げていく。
その日の放課後。
明希は、"性の衝動"に溺れる自身の姿を、麻美に見られてしまう——。
塞がっていた何かが、ゆっくりと崩れはじめる。
そして鬱屈した青春は、想像もしていなかった熱と痛みを帯びて動き出す。
すべてに触れたとき、
明希は何を守り、何を選ぶのか。
光と影が交錯する、“遅れてきた”ひと夏の物語。
キャバ嬢(ハイスペック)との同棲が、僕の高校生活を色々と変えていく。
たかなしポン太
青春
僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。
助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。
でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。
「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」
「ちょっと、確認しなくていいですから!」
「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」
「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」
天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。
異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー!
※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。
※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる