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第2章
責任と後悔
しおりを挟む「隼人……」
また母が呼ぶ。
今度は何を所望なのかと、鷹取が再び顔を向けると、
「私は、ダメな母親だから……。あんたのこと、産まない方がよかったのかしらね……?」
か細い声で、淡々と発せられたその言葉に、鷹取は一瞬頭の中が真っ白になった。
産まない方がよかった。
それはつまり、自分が生まれてきたことが間違いだったということか。
「そうよ……あんたが生まれたから、私は『母親』になったの。こんな、誰からも見捨てられるようなダメな母親に……」
全身から血の気が引いていく。
まるで不意打ちで背中を刺されたような、鋭い寒気が鷹取を襲った。
息子の存在意義を否定するだけでは飽き足らず、もはや過去の全てをなかったことにしたいというのか。
母の吐露したそれは、実の息子にとっては刃物よりも冷たく、恐ろしい切れ味を持っていた。
「隼人、ごめんね……。最初から、私が間違ってたのね」
今にも事切れそうな声で言いながら、母は傍らの息子へそっと手を伸ばした。
その様子を、鷹取は無言のまま、わずかに見開いた目で見つめていた。
やがて母の手は息子の上着の裾を掴んだかと思うと、力任せにそれを自身の方へと引き寄せた。
されるがままの鷹取は身体ごと引っ張られ、体勢を崩して母の足元へ倒れ込む。
そこを入れ替わるようにして母はその場に起き上がり、鷹取の上へと馬乗りになった。
「母さ……っ――」
母を呼ぼうとしたその声は、喉元へ伸びてきた母の手によって遮られた。
母の痩せ細った両手が、確かな握力を持って息子の首を締め上げる。
「ごめんね、隼人……。私のせいで、ごめんねぇ……」
虚ろな瞳からぼろぼろと涙を零し、何度も謝罪しながら、母は震える両手で実の息子を殺そうとしていた。
その光景を、鷹取は愕然としながら無言で見上げていた。
(今さら俺を殺して、一体何になるっていうんだよ)
嫌に冷静な頭で、鷹取は考える。
『息子』が存在しなければ、母は『母親』ではなくなる。
だから自分を殺して、最初から全てをなかったことにしようとでもいうのか。
今まで積み上げてきた全てのことを。
幼い頃、まだ幸せだった頃の思い出も、全て。
ギリギリと指の腹が首の肉へと食い込み、頸動脈を圧迫する。
呼吸が上手く出来ず、次第に意識は朦朧としてきた。
反撃は、しようと思えばいくらでもできる。
普段からそれなりに鍛えている男子高校生の鷹取と、酒に溺れ心身ともに弱りきった母親との力の差は歴然だ。
鷹取がその気になれば、上に跨った母を振り落とすことなど造作もない。
だが、解放を求める身体とは裏腹に、鷹取の心はそれを拒絶していた。
身体が鉛のように重い。
まるで全身が石になったかのように動かない。
このままでは危険だと頭ではわかっているのに、心中ではむしろ、それを受け入れることが道理であるかのような気さえしていた。
母を追い詰めたのは自分なのだ。
母の心を壊し、こんな事態を招いたのも自分自身。
(俺は……)
やはり生まれてきたのが間違いだったのか。
かすみがかった意識の中で、あの『手を焼かれた日』のことがフラッシュバックする。
幼い鷹取の手をフライパンに押し付けながら、あの日の母は一体何を思ったのだろう。
息子の存在が邪魔だと思ったのか。
やはりお荷物でしかないと気づいたのか。
「……なん……で……」
児童養護施設に預けられていた頃、職員たちの間でコウノトリのニュースが話題に上ったとき。
地方紙の片隅に載ったインタビューの記事で、母は『自慢の息子』だと語っていたという。
あれも、結局はただ形式的に言わされただけの戯言だったのだろうか。
「……なん、で……だよ……」
母は手の力を緩めない。
きっと、今度こそ本気で殺すつもりなのだろう。
いつものように酒瓶を投げつけるだけとは訳が違う。
しかしこの期に及んでもなお、母の虚ろな目は明らかに焦点が合っていなかった。
視線は確かにこちらを見下ろしているのに、その瞳には鷹取の姿が映っていない。
いつもそうだった。
母はもう何年も前から、息子の顔など見ようともしていなかったのだ。
「なんで、愛してくれないんだよぉ……っ!」
「ごめんね、隼人ぉ」
もはや声すらも届かない。
これ以上は無意味だ――と認識した途端。
それまでわずかに残っていた生への執着が、鷹取の中から溶け出すようにして失われていった。
(もう、疲れた……)
母が振り向いてくれないのなら、これ以上生きていても仕方がない。
ならば、こうして母の手で殺してもらえることがせめてもの救いか。
視界がぼやけていく。
されるがまま、薄れゆく意識の中で、鷹取は最後の瞬間を待った。
だが、それまで静かだった部屋の中に、突如としてインターホンのチャイムが鳴り響いた。
「鷹取さーん。児童相談所ですが、いらっしゃいますかー」
ドンドンドン、と玄関の扉を叩く音。
今までにも何度も経験のあったシチュエーションだ。
児童相談所の職員たちが、うちの家の前に群がっている。
どうやら今回も、母の騒音を聞きつけて近所の人が通報したらしい。
母の両手から力が抜け、急激に喉へと入り込んだ空気に、鷹取は咳込んだ。
生理的な涙が溢れ、肩で息をする鷹取の耳に、母の呟きが微かに届く。
「私、いま……何を」
呼吸を整えながら、鷹取が再び顔を上げたとき。
酷く驚いたような顔でこちらを見下ろす母と、久方ぶりに、一瞬だけ目が合ったような気がした。
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