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第3章
思い出
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気がつくと、すぐ目の前に桜の木があった。
視界の全てを桃色で覆い尽くすほどの、一本の大きな木。
その圧倒的なまでに咲き誇る花たちを、羽丘は一人ぼんやりと見上げていた。
一体いつからそうしていたのかわからない。
緩やかに吹く風が頬を撫でる度、花びらは音もなく頭上から舞い降りてくる。
(私、さっきまで何をしてたんだっけ?)
何も思い出せない。
ほんの一瞬前までの記憶がない。
けれど、不思議と不安はなかった。
むしろ、心はこれ以上にないくらいに凪いでいた。
こんなにも心穏やかな日には、ついあの歌を歌いたくなってしまう。
レミー・バトラーの『マザー』。
両親がよく聴いていた、洋楽のバラード。
母が子を思う愛情を綴った歌詞と、子守唄のような優しげなメロディ。
この歌を歌っている時間が、羽丘は何よりも好きだった。
一度深呼吸してから歌い始めてみると、声の調子は想像以上に良かった。
こんなにも気持ち良く声を出せたのは、なんだかとても久しぶりのような気がする。
「雲雀は本当に歌が上手ね」
と、不意に後ろから声を掛けられて、羽丘はハッとした。
いつのまにか、背後に人がいたらしい。
顔を見なくてもわかる。
この声は──、
「お母さん、お父さん!」
すぐ後ろに、両親がいる。
そう思って、羽丘は笑顔で振り返った。
しかし、
「……あれっ?」
振り返った先には誰もいなかった。
不思議に思って辺りを見渡してみても、人らしきものは見当たらない。
と、今度はまたどこからか別の声が聞こえた。
「綺麗な声だね。小鳥がさえずってるみたい」
落ち着いた、少年の声。
それを耳にした瞬間、羽丘は思わず胸を高鳴らせた。
「……翔くん!」
その名を噛み締めながら、今度こそ期待を膨らませて、羽丘は後ろを振り返った。
しかし、視線の先には誰もおらず、ただ桜の花びらがはらはらと落ちてくるだけだった。
「翔くん……?」
まるで狐につままれたようだった。
皆、一体どこへ行ってしまったのだろう?
「ひばりちゃん! あーそーぼっ」
と、今度はやけに幼く甲高い声が届いた。
反射的に、「うげっ」と唸りそうになった。
また面倒なのが来た、と思った。
けれど、どうせ振り返ったところで誰もいないのだろうと、恐る恐る後ろを確認してみると。
そこには幼稚園児くらいの小さな女の子が一人、にこにこと満面の笑みを浮かべて立っていた。
まごうことなき、幼い頃の飛鳥だった。
「って、なんであなたはここにいるのよ!」
思わずツッコんでいた。
当の飛鳥はマイペースにえへへ、と笑って小首を傾げている。
「……ほんとに、なんでよりにもよって、飛鳥だけがここにいるのよ。今までも散々、私の邪魔ばっかりしてきたくせに」
神様のイタズラか、と羽丘は頭を抱えた。
今までの人生を振り返ってみても、飛鳥はどんな場面にも無遠慮に足を突っ込んでくる。
「でも、まあ……そうよね。私なんかに何年も付き纏うような物好きは、あなたぐらいだものね」
小さく溜息を吐きながらも、羽丘はその場にしゃがんで、飛鳥の目線に自分のそれを合わせた。
思えば彼女との思い出も、全部が全部悪いものだったわけじゃない。
特に、去年まで一緒に二人でやっていたネット配信は、それなりに楽しめていたような気がする。
それに、飛鳥がよく泣いているのを慰めた後、幸せそうな顔で「大好き」と言ってくれるのは、あまり悪い気はしなかった。
「いいわ、少しだけなら相手してあげる。何して遊びたいの?」
羽丘がそう折れると、飛鳥は嬉しそうに、ぱあっと顔を輝かせた。
「あのね! あすかね、これからもずっと、ずーっとひばりちゃんといっしょに……──」
そこで急激に、意識が遠くなった。
(あれ?)
目の前が真っ暗になって、飛鳥の姿が見えなくなる。
声も聞こえない。
なんだかふわふわとする。
まるで水の中にいるような心地だった。
やがて暗闇の中で、何も聞こえないはずなのに、誰かが自分を呼んでいるような気がした。
それに導かれるようにして、ゆるゆると瞼を上げてみると、白い照明の光に包まれた視界に、見覚えのある天井が映った。
真っ白で清潔感のあるそれは、病室の天井で間違いなかった。
この場所を、羽丘は知っている。
けれど、なぜ病院のベッドなんかで自分は横になっているのだろう?
考えているうちに、そこへさらに一人の少女の顔が視界に飛び込んできた。
飛鳥だった。
先ほどの幼い姿とは打って変わって、ずいぶんと背が伸びている。
いつのまにかこちらの背丈も追い抜いてしまったその身体は、今や誰もが羨むようなモデル体型だった。
にも関わらず、その中身は相変わらずの泣き虫だ。
現に今もこうして、ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、必死でこちらに何かを訴えている。
(また怪我でもしたのかしら)
見ると、彼女の鼻の頭には新しい擦り傷が出来ていた。
きっとまた何もない所で躓いて転んだりでもしたのだろう。
仕方ないなあ、と羽丘は彼女に手を伸ばそうとした。
しかし、右手は飛鳥の両手でがっちりと掴まれていて動かない。
代わりに、残った左手を伸ばす。
思ったより腕が重い。
まるで重石でも付いているかのようだった。
指先を震わせながらも、なんとか飛鳥の頭の上へ、ぽん、と手のひらを乗せられたと思った瞬間。
また、意識が遠くなった。
これは、深い眠りに落ちるときの感覚だ。
飛鳥は泣き止まない。
いつもならこうすればすぐに泣き止んで、明るい笑顔で「大好き」と言ってくれるのに。
今はなぜか、彼女はどこか驚いたような顔をして、ただ溢れ出る涙を流し続けるだけだった。
◯
「……雲雀……ちゃん」
今しがた頭を撫でてくれていた羽丘の左手を、飛鳥は強く、両手で握りしめた。
その手はすでに冷たくなっており、瞳を閉じたまま動かない羽丘は、もう二度と返事をすることはない。
「なんで……最後にそんなことするの……?」
弱々しく呟いた飛鳥の声と、嗚咽を掻き消すように、心電図のモニターが平坦な連続音を発していた。
無機質に鳴り響くその音が、耐え難い現実を突きつけてくる。
やがてその場に駆けつけた医者が一通りの確認を終えた後。
この日、午後一時をもって、羽丘雲雀の臨終が告げられた。
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