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第3章
まだ間に合う
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危ないので走らないでください! という看護師の制止を振り切り、烏丸は走った。
といっても右足はまだ痛むため、松葉杖をつきながら、ほとんど片足跳びのような形になる。
病院の外に出るだけでも一苦労だった。
時折勢い余って盛大に転んだが、痛みに呻いている暇はない。
こうしている間にも、鷹取は自らの命を危険に晒しているかもしれないのだ。
一刻も早く彼のいる場所に駆けつけて、馬鹿な真似を辞めさせなければならなかった。
やっとの思いで建物の外に出ると、まず辺りを見渡してタクシーを探した。
所持金はあまりなかったが、駅までの距離ならなんとか払えないこともないだろう。
しかし生憎、その場には一台も停まっていなかった。
タクシー専用の乗り場はあったが、ちょうど全ての車が出払っているらしい。
「……くそッ!」
仕方なく、烏丸は再び駆け出した。
タクシーもバスも待っている暇はない。
こうなったら自力で駅まで向かうしかない。
だが、ちょうど病院の敷地を出ようとしたところで足元の段差に躓き、脇の車道に飛び出すようにして派手に転倒した。
そこへ後ろからやってきた車にクラクションを鳴らされる。
擦りむいた膝を庇いながら烏丸が振り返ると、すぐ後ろに救急車が停まっていた。
まだ赤灯も点いていない救急車にクラクションを鳴らされる経験なんてそうそうないだろうな、と暢気に考えている間に、運転手が窓から顔を出して言った。
「はぁい、坊や。乗ってくぅ~?」
妙にねっとりとした女性の声。
聞き覚えのあるそれに烏丸が顔を上げると、そこにいたのは予想通り、あの丸眼鏡の胡散臭い看護師──百舌谷ことりだった。
「って、あんた、なんで救急車……っ」
もはや何からつっこんで良いのかわからず混乱する烏丸に対し、百舌谷は余裕の笑みで答える。
「説明は後! 今は一刻を争うんでしょお? ほら、乗った乗ったぁ!」
言いながら、彼女はおもむろに助手席のドアを開けた。
どうやら何もかもお見通しらしい。
ここまでくるともう盗聴でもされているんじゃないかと疑ってしまうが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
背に腹は代えられない。
藁にも縋る思いで烏丸が助手席によじ登ると、百舌谷はすぐさま車を発進させた。
と同時にサイレンを鳴らし始め、恐ろしいほどのスピードで公道を爆速する。
「……乗せてもらっといてなんだけど、これ、私用で使ってるんならまずいんじゃないの? もし急患とかいたら……」
「うふふ。鷹取くんだって重症患者予備軍でしょお? 急がないと死人になるわよぉ」
開き直りもここまでくるといっそ清々しい。
「……隼人の動画、見たの? 生配信のやつ」
「ばっちり見たわよぉ。面白くなってきたじゃない。例の駅前の第一ビルよねぇ? あ、ちなみに『自殺配信ですかー?』って煽りコメント打ったの私だから」
相変わらず語尾にハートマークが付いていそうなその口調は、もはやどこまでが冗談なのかわからない。
だが、そんな彼女の好奇心と職権の乱用癖にも、このときばかりは烏丸も心の底から感謝した。
◯
今度こそ本当に死ぬかもしれない、と思った。
駅前で一番高いビルの屋上。
その縁に手をかけて外側へぶら下がってみると、はるか下に見える地上は想像を絶するほどに遠かった。
ちょうど真下にある道を行き交う車たちが、まるで米粒のように見える。
万が一この高さから落ちれば、人間の身体なんてひとたまりもないだろう。
最初にここで懸垂をしようなんて考えた奴は頭がイカれているとしか思えない。
実際、ここで多くの阿呆たちが度胸試しに挑んできたが、数年前に一人の死者が出てからはすっかり人が来なくなった。
噂によれば、転落死体はもはや原型を留めていなかったという。
そんな曰く付きの場所での度胸試し──それも生配信ともなれば、不謹慎さも相俟ってそこそこの話題にはなるだろうと思った。
きっと今頃は動画の閲覧数も増え、批判や冷やかしも含めた多くのコメントが飛び交っているだろう。
もしかすると、今まで公開した動画の中で一番の再生数になるかもしれない──と、そこまで考えたところで、あまりの馬鹿馬鹿しさに鷹取は笑った。
この期に及んで、一体誰に見てほしいというのだろう。
たとえどれだけ多くの人間が鷹取に注目しても、一番見せたかった相手はもういない。
母は死んだ。
昨日の朝、鷹取が目を覚ましたときにはすでに冷たくなっていた。
すぐに救急車を呼んだが手遅れだった。
急性アルコール中毒だった。
だからあれほど酒はやめろと言ったのに。
「ほんと……親子そろって馬鹿だよなぁ」
もしも今ここで手を離したら、自分は母の元へ行けるのだろうか。
母はもう先に行ってしまったが、今すぐにでも追いかければ、まだ間に合うのだろうか。
(でも……どうせ間に合ったところで、きっと俺を受け入れてはくれないんだろうな)
わかっている。
欲しいものは、いつも手に入らない。
どれだけ手を伸ばしても、それは遠く離れて行ってしまう。
いつもそうだった。
満たされない。
何をしていても、虚しかった。
誰と一緒にいても、いつも寂しかった。
だから、こうして一人で死んでいくのは、自分にはお似合いなのかもしれない。
どうせ誰と何をしても満たされないのだ。
まさに咳をしても一人。
これ以上望むものなんて何もない。
(俺は……)
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