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第3章
届かない場所
しおりを挟む鷹取はゆっくりと、屋上の縁を掴んでいた手を離した。
重力に引っ張られて、全身がずり落ちていく。
これでお終い。
誰かを待つのも、何かに期待するのも。
思えば求めてばかりの人生だった。
そのくせ結局、何も手に入れることはできなかった。
ただ胸に残っているのは、子どもの頃の思い出だけ。
あの優しかった母の笑顔と、そして、コウノトリのヒナを助けたときの──。
「隼人!」
突如、真上から叫び声が聞こえた。
と同時に、両腕を強く掴まれる感触。
重力に抗う力に引っ張られて、がくんっと身体が空中で静止する。
何事か、と鷹取は顔を上げた。
見ると、屋上の縁から顔を出した人物が、鷹取の両腕をしっかりと掴んでいる。
「隼人! 上がって来い!」
「翔っ……?」
必死の形相でこちらを見下ろしていたのは、幼馴染の烏丸翔だった。
足の怪我が痛むのか、こちらを引っ張り上げようと踏ん張るのに顔を引き攣らせている。
「隼人、早く……! 縁の所、掴み直すんだよ!」
「……なんで……」
なぜ、彼はここへ来たのだろう。
てっきり愛想を尽かされたと思ったのに。
「隼人!」
彼の必死な様子に根負けして、鷹取はようやく、自らの手で縁を掴み直した。
そのまま上半身を乗り上げ、屋上の内側へと跳び戻る。
そうして二人同時に、その場へ仰向けに倒れるようにして、それぞれ寝転がった。
清々しいほどに晴れた空を見上げながら、乱れた息を整える。
やがて呼吸が落ち着いてきた頃、ぽつりと呟くように鷹取が言った。
「なんで助けた?」
烏丸は普段通りの、淡々とした声で答える。
「助けてって、言われたような気がしたから」
その返答に、鷹取は自分で質問しておきながら、やはり聞かなければよかったと後悔した。
事前に動画のURLまで送りつけておいて、自分は今さら何を言っているのだろう。
助けてほしいと、ここに来てくれと、心の底からSOSを送ったも同然じゃないか。
「……笑えよ、翔。無様だろ? かっこ悪いよな。俺、今なんにも持ってないんだぜ? 母さんには先立たれるし、お前には逃げられるし、度胸試しにも失敗したし。それに……もしお前が来なかったら、自分の命だって」
全てを失った。
いや、そもそも最初から、何も持ってなどいなかったのだ。
「結局俺は、ずっと空っぽだったんだ。一人で馬鹿な真似ばっかりして、結局何も……」
視線の先で、一羽のカラスが飛んでいた。
上昇気流に乗って、ゆらゆらと弧を描くように空に浮かんでいる。
「……どれだけ欲しがっても、手に入れられないものって、あると思う」
しばしの沈黙の後、烏丸が言った。
その声はどこか哀愁を帯びている。
彼もまた何かに手を伸ばして、届かなかったのだろうか。
「なら、どうすればよかったんだ? 欲しいものが手に入らなかったら、虚しいだけだろ?」
「どうすればいい、じゃなくて、自分がどうしたいかだよ」
やけに冷静に、烏丸は言った。
「何もかもが、必ず手に入るわけじゃない。だから、ただ欲しがるだけじゃなくて、その目的のために自分が何をしたか。何ができたか。それが大事なんだと思う」
まるで確信を得たかのように、その声には迷いがなかった。
「……俺は、母さんに何もしてやれなかった」
後悔の念を鷹取が零すと、烏丸は寝返りを打つようにして、こちらへ身体を向けた。
「愛してあげたんでしょ」
「え?」
言われたことの意味がわからず、鷹取もまた彼の方へ目を向ける。
「お母さんのこと、ずっと愛してたんでしょ。きっと伝わってるよ、その気持ちは」
愛していた。
ずっと。
この世の誰よりも、母のことを考えていた。
鷹取は再び空へと視線を戻して、遠く離れていくカラスの背中を見つめた。
数日前、母が鷹取の身体へ馬乗りになって、首を絞めたときのことを思い出す。
ごめんね、と泣きながら、母は何度も鷹取の名を呼んでいた。
あれは、何に対しての謝罪だったのだろう。
息子の気持ちに気づいていながら、応えてやれないことへの懺悔だったのだろうか。
「……母さん」
視界がぼやける。
鼻の奥がつんとする。
揺れる瞳に映る青い空の真ん中で、カラスはどこまでも遠く、手の届かない所まで飛んでいった。
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