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アルゴスの献身 6

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 チロルへの出発が、2週間ほど後に迫ったある日。モルは、シュヴァルツェンベルク家の夏の別荘へと向かった。

 そこは、ヴェルベデーレ宮殿のある丘の、麓にあった。
 見上げる壮麗な宮殿は、かつて、サヴォイア公オイゲンの邸宅だった。オイゲン公は、フランス貴族出身で、オーストリア軍に入った。トルコとの戦いで、大きな軍功のあった将軍だ。

 少年の頃、ライヒシュタット公は、白い軍服(オーストリアの軍服)に憧れ、オイゲン公のようにオーストリアに貢献することが夢だったという。フランスに生まれ、ハプスブルク家に忠誠を誓ったオイゲン公は、そのまま、プリンスの境遇そのものだった。


 「モル大尉! よく来てくれた!」

 精悍な、日に焼けた男が話しかけてきた。
 プロケシュ少佐だ。
 薄情だった、プリンスの「親友」。
 彼は、ローマ法王庁に派遣が決まると、あっさりとプリンスを置いて、イタリアへ行ってしまった。

 プロケシュが一時帰国したのは、去年の秋のことだった。友人の帰国を知らされていなかったプリンスは、部屋に入ってきたプロケシュの姿を目にした途端、文字通り、息を詰まらせた。

 プリンスは、友の帰国を、ひどく喜んだ。
 その頃彼は、すでに、熱や咳に苦しめられていた。だが、プロケシュの訪れにより、再び、以前のような生気が戻ったように感じられた。

 それなのに、プロケシュは、ウィーン滞在中、滅多に宮殿を訪れなかった。

 プリンスは、再三、プロケシュに来てくれるよう、手紙を書いた。当時、プロケシュは、メッテルニヒの秘書長官・ゲンツの私塾に通っていた。なかなか訪れない友に痺れを切らし、プリンスは、ゲンツの愛人宅にまで、手紙を送った。これにより、ゲンツの愛人が、プリンスの恋人と誤解され、後始末に、モルら付き人達は、てんてこ舞いをさせられたものだ。

 年が明けて2月、プロケシュは再び、ボローニャへと戻っていった。それきり、手紙の一本も寄越さなかった。
 もちろん、手紙が来たら来たで、自分がひどく苛立ったであろうことは、モルにはわかりきっていた。しかし、プリンス自身は、どんなに喜んだろう。

 モルは知っていた。
 プロケシュがプリンスに、いつかフランスへ連れて行く、と、約束したことを。

 元家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵は、プリンスに、プロケシュ宛の手紙を書くことを禁じた。しかし、それは、不要な用心だった。すでにプリンスは、椅子に座ることが、できなくなっていたからだ。それどころか、紙を持ち上げ、読む力すらなかった。病床で彼は、モルが本を読んで聞かせるのを好んだ。内容は、どうでもいいらしかった。ただ、モルの、低く穏やかな声を聞いていた。

 本を朗読するように、モルが、プロケシュからの手紙を読み上げたなら、プリンスは、どんなに喜んだろう。肺を吐き出すような苦しい咳も、一時、治まったかもしれない!
 冷淡な母親の訪れによってさえ、余命を1ヶ月も永らえさせたプリンスのことだ。「親友」プロケシュが、もっと頻繁に訪れてくれたなら、あるいは……。

 それは、自分の八つ当たりであることは、モル自身にもわかっていた。しかし彼は、誰かを恨まずにはいられなかった。
 プリンスの死を、未だに泣くことができないモルは、人を恨むことによってしか、悲しみを発散することができないのだ。


 プロケシュは、数日前に、イタリアからウィーンへ帰ってきていた。
 彼はかつて、故シュヴァルツェンベルク将軍の補佐官だった。その縁で、シュヴァルツェンベルク家の別荘に宿泊していると語った。

 「モル大尉。君は、シュヴァルツェンベルク将軍の墓に参ったことがあるか?」
 せかせかした口調で、プロケシュが尋ねた。

 モルは首を横に振った。
「機会がなかったものですから」

 シュヴァルツェンベルクは、偉大な将軍だ。ライプツィヒの戦いを勝利に導いた、立役者でもある。その墓に参ったことがないなどとは、威張れたことではなかった。

「君も、国外勤務が長かったものな」
だが、プロケシュは、気にする風もない。
「いい機会だ。将軍の墓へ参ってみるか」

 先に立って歩き始める。後ろからついていくモルは、彼を見下ろす形になった。

「僕は、シュヴァルツェンベルク将軍の副官だった。彼の最後の日々に、付き添って過ごした。君が、最後まで、ライヒシュタット公と共にあったように」
「……」

モルは答えなかった。プロケシュは、彼の沈黙を気にする風もなかった。

「将軍は、プラハで重病になられてね。ウィーンで療養しておられた。ある時、ライプツィヒに名医がいると聞いて、そちらへ移ることになったんだ。もちろん、僕も随行することにした」

 歩きながら話し続ける。

「そんな僕のことを、『将軍の家族の一員になったのだ』と揶揄する者もいた」
「どなたですか。そんな失礼なことを言うのは」

 思わず、モルは問い返した。軍人として、上官に付き従うのは、当然の忠誠ではないか。
 プロケシュは、肩を竦めた。

「婚約者の母親だよ。当時僕は、婚約していたんだ」
「婚約?」
「すぐに破談になったがね」

 初めて聞く話だった。モルは固唾を飲んだ。

「彼女は、一人っ子だった。親は、娘をウィーンから出したくなかった。だから、シュヴァルツェンベルク将軍は、関係ない。最初から親は、娘を、どこへ飛ばされるかわからない兵士の妻にはしたくなかったんだ。それから2年待ったが、婚約者からの手紙は来なかった」
「……」

 何と言ったらいいのかわからなかった。

「昔の話だよ」
プロケシュは、平然としていた。






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