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アルゴスの献身 7

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 礼拝堂の地下に、シュヴァルツェンベルク家の墓所があった。代々の棺が、うっすらと埃を被って、安置されている。

 重厚な彫刻の施された柩の前で、プロケシュは立ち止まった。かつての彼の上官、シュヴァルツェンベルク将軍の棺だ。

「プリンスの死は、ボローニャで聞いた。落雷に打たれたような衝撃を感じた」
低い声で、プロケシュは言った。

「彼はずっと、危篤状態でした」
「僕は、新聞で報道されていることしか、知らなかったんだよ」
「……そうですか」

「去年、ウィーンに帰ってきた時、宮廷の人々は、彼の具合が悪いと噂していた。でも、直接会ってみると、彼は、とても元気だった。僕は、周囲の人は心配し過ぎるんだと思った」

 年明けすぐ、プリンスは、公務の途中で具合が悪くなり、喀血した。
 2日間、昏々と眠り続けたが、二週間もすると、起き上がることができるようになった。彼は再び、劇場などに出入りするようになった。

 プロケシュが、2度目にボローニャへ旅立ったのは、この、最後の小康状態の時期だった。

「だから、2度目にイタリアに赴任した時は、新聞の報道さえも、信じられなかった。新聞のネタ元は、宮廷に出入りしている人だろうからね。実際、最後に会った時も、彼の健康に不安はないように見て取れた。まさか、半年もしないうちに死んでしまうなんて……そんなこと、考えもしなかった!」

「彼は、巧妙に病気を隠していました。我々付き人だけでなく、医者に対してさえも」
 乾いた声で、モルは応じる。


 不思議なことに、主治医は、それが死病であるという診断を、なかなか下そうとしなかった。4月に入り、新しい2名の医師が加わるまで。彼らが、いわゆるセカンド・オピニオンの形で、皇帝に対し、ライヒシュタット公の余命が残りわずかであることを宣告したのだ。彼の死の3ヶ月前のことだ。

 モルには、それが、悔しかった。もう少し早く、主治医が、プリンスの病気を認め、皇帝に、転地を進言してくれたなら! そして、無茶ばかり重ねる彼の行動を、制限してくれていたら! 

 プリンスは、付き人に対しても、決して、具合が悪いことを認めなかった。夜、咳と高熱で眠れず、昼間うたた寝をする上官を、モルたちは、不審の目で見ていた。彼の具合が悪いことは、明らかだった。

 しかし、それを指摘しても、プリンスは無視した。予定された外出を、取りやめようともしない。主治医も、大した病ではないと言う……。

 しょせん、モルたちは、付き人だ。皇族の無理を諫めることなど、到底、できるものではなかった。


 プロケシュは俯いた。
「短い間に、僕は、二人の親友を亡くしたことになる。ゲンツと、そして……」

 プリンスをメッテルニヒの秘書長官と同列に扱われて、モルは、嫌な気がした。

 「プリンスが亡くなった日の前日、僕は、ローマで、ナポレオンの母君のレティシア皇太后にお会いしていた。なんたる奇遇だろうね」

 ……ナポレオンの母。
 つまり、プリンスの祖母だ。

「それは、貴方の方から?」

 モルは尋ねた。もし、プロケシュが、自分から、プリンスの祖母君を訪ねたのなら、少しはこの男を許すことができると思った。
 プロケシュは、首を横に振った。

「任地にいた僕の所に、ブロッセーディ侯爵が尋ねてきたんだ。彼の妻が、ナポレオンの弟の娘だった」


 ナポレオンの上の弟、リュシアンは、2度、結婚している。最初の結婚で生まれたのが、ロロットだ。
 つまりロロットは、プリンスの従姉に当たる。

 こんなところにまで、「ナポレオン」の名を出すプロケシュを、モルは疎ましく思った。
 ナポレオンの息子でさえなかったら、プリンスは、転地療法を許されたのに。それ以前に、あんな風に、ウィーンに閉じ込められて暮らすこともなかった……。


「ロロットが僕を、祖母レティシアの元へ連れて行った」

 プロケシュの言葉は、平坦だった。が、モルは、一抹の揺れを感じ取った。不安だ。ナポレオンの親族に接触することによって、オーストリアへの忠誠を疑われはしまいかという、微かな恐怖……プロケシュはそれを、自らにさえ、認めていなかった。

「あの、ナポレオンの母君に会えたんだ。さすがに、僕は感動した」

 ここでもやはり、ナポレオンだ。なぜ、プリンスの祖母と言えないのか。
 モルは、憮然とした。
 レティシア皇太后は、高齢の為、目が見えなくなっていたという。

皇太后マダム・メールは、僕に、プリンスへの言葉を託されたよ」

目をつむり、プロケシュは諳んじた。

「……あなたの父の、最後の意思を尊重して下さい。あなたの時代は、やがてきます、あなたは、父の玉座に昇るでしょう」

 言葉を途切らせた。
 モルは無言で待った。
 ため息をつき、プロケシュは続けた。

「そして、僕の額に手を置き、祝福を授けられた。自分はもう、長くは生きられないから、孫に伝えてくれと……。同じころ、シェーンブルンで、プリンスが死の苦しみに喘いでいたかと思うと!」

「プリンスが亡くなられたのは、翌日の早朝のことでした」
平板な声で、モルは述べた。

「ああ、そうだ。僕は何も知らなかった。教えてくれないか、モル大尉。彼の最期を!」

 墓所に納められた死者たちは、静まり返っていた。モルとプロケシュの他、人の気配はない。
 服の隠しから、モルは、紙の束を取り出した。

「これは、私の日誌です。ディートリヒシュタイン伯爵に頼まれて、プリンスの死の様子を、詳細に記しました」


 ディートリヒシュタイン伯爵は、幼いころからの、プリンスの家庭教師だった。教え子が軍務に就くに及んで職を辞したが、それ以後も、ちょくちょく、宮殿へ足を運んでいた。いよいよプリンスの死が避けられなくなると、伯爵は、プリンスの死に顔を見たくないと言い出した。彼は、娘の出産を口実に、ヴュルツブルクへと出かけて行った。去り際、プリンスの様子を、手紙で、逐一教えてほしいと、モルに頼んだ。だが、さすがに毎日手紙を書く暇はなく、モルは、日誌をつけ、伯爵の希望に添うようにした。

 プロケシュから会いたいと言ってきた時、モルは、この日誌が再び役に立つと思い、持参した。


 低い、静かな声で、モルは7月21日から22日の間の日誌を読み上げた。死の苦しみにあったプリンスを落ち着かせ、眠りに誘うことができた、その、低い静かな声で。
 プリンスの死から1週間経ってから書き留めた記事だ。それまでは、書き物をしている余裕などなかった。

 淡々と、モルは、自分の日誌を読み上げた。プロケシュは、黙って聞いている。礼拝堂の空気が、密度を増したようだ。

「主治医のマルファッティが額に触れ、すでに冷たくなっていると言った。跪いていたマリー・ルイーゼ陛下は、立ち上がろうとなさったが、できなかった。ハルトマン将軍とマレシャル(マリー・ルイーゼの臣下)が、陛下を部屋の外へ連れ出した」

 モルは言葉を切った。
 ノートから目を上げた彼は、プロケシュの頬を、涙が伝っているのを見た。
 涙は、後から後から溢れ、滴り落ちた。落ちた涙は、シュヴァルツェンベルク将軍の棺の架台に滴った。

 「親友」が泣いている。
 モルは思った。
 そして、自分はとうとう、プリンスの死を泣くことがなかったな、と、今更ながらに思い至った。

 今ここで、彼の親友が、泣いている。






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