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アルゴスの献身 8
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「君は、随分顔色が悪いな」
礼拝堂を出て、広い庭園を歩きながら、プロケシュが話しかけてきた。
「軍から休暇をもらいました。もう2週間ほどで、チロルへ出発します」
「休暇! そんなに具合が悪いのか?」
驚いたように、プロケシュが問う。
「まさか、プリンスが亡くなられた悲しみで?」
モルは肩を竦めた。
「精神に引きずられるような肉体を、私は軽蔑しています」
「いや、申し訳ない」
プロケシュは、居心地が悪そうだった。ポプラの並木が続く、とても気持ちのいい庭にいるというのに。
「君は……」
プロケシュは立ち止まった。眼前に聳える丘を見上げている。
丘の上には、ヴェルベデーレ宮殿がある。かつて、ライヒシュタット公が憧れたオイゲン公の、宮殿が。
「君は、彼に、本物の愛情を持って尽くしてくれた」
「本物の愛情ですって?」
モルの顔色が変わった。
「どういう意味ですか」
「誤解してもらったら困る。僕は、彼にとって、それは救いだったと考えているのだ」
「……救い?」
「君は、ザンニーニとつきあっているのだろう?」
モルは答えなかった。
彼から目をそらし、プロケシュは続けた。
「君の交友関係の中で、貴族でないのは、彼だけだ」
「スタンも、貴族ではありません」
「彼は、君の同僚だ。だが、ザンニーニは違う」
モルは、息を詰めた。
元気だったころ、プリンスはしばしば、モルを疎んじるような素振りを見せた。皇帝から、プリンスの監視を命じられた身として、それは、仕方のないことだと、モルは諦めていた。仕方がないことではあるが、辛い日々だった。
一方でモルは、プリンスが自分を嫌うのには、他に理由があるような気がしてならなかった。
彼は、プロケシュが、何か良からぬことを、プリンスに吹き込んだのだと、疑った。何か……自分の性的傾向に関する情報を。
そうでなければ、優しいプリンスが、あそこまで露骨な嫌悪感を見せるわけがない。
詰めていた息を吐きだし、モルは尋ねた。
「あなたは……あなたは、プリンスに何か言いましたか?」
「何か?」
「私について」
「ああ」
プロケシュは微笑んだ。
「ボヘミアの曳き馬と、イタリアの馬車馬に挟まれた、純粋なアラビア産の馬のようだと言った。初めて会った時の印象を、プリンスに聞かれて」
「イタリアの馬車馬?」
「スタンだよ」
「ボヘミアの曳き馬、って……」
「ハルトマン将軍さ、勿論。オツムはアレだけど、馬力だけはありそうじゃないか」
「ひどいな」
上官と同僚の悪口に、モルは、与しなかった。だが、大嫌いなプロケシュの前で、気持が、いくらか、解れた。なにより、彼がそれ以上、ザンニーニについて触れてこなかったことに安堵した。
モルは尋ねた。
「それで、アラビア産の馬とは、どういう意味です?」
プロケシュは、じっと、モルを見つめた。
「プリンスが覚えているナポレオンの軍馬も、アラビア馬だった」
「……」
……プロケシュは、俺を、褒めたのか。
……プリンスの前で。この俺を。
モルは絶句した。
「最初にボローニャに赴任になった時、パルマに寄ったんだ」
相変わらず口の端に微笑みを載せながら、プロケシュは言った。
「そしたら、マリー・ルイーゼ様に聞かれた。新しい付き人のモルという人は、どんな人? 息子は、大層気に入ったようだけど、って」
……「彼は精神、知識、しっかりした性格を持ち、口が固く、そして進取的です。僕は彼が大好きです」
プロケシュは、プリンスが母に送ったという手紙の一節を諳んじた。
思わず、モルは喘いだ。
プロケシュは、遠い目をした。
「彼は、僕にも 愛している と言ってくれたよ。初めて会った時」
ナポレオンを擁護する本を書いたプロケシュに、プリンスは言った。
……「僕はあなたを、ずっと前から知っていました。そして、その間ずっと、あなたのことを愛していました。
(Ich kenne Sie und liebe Sie zeit lange.)」
「知ってます」
かろうじてモルは答えた。
その話は、元家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵から聞かされていた。プロケシュをプリンスに引き合わせたのは、他ならぬこの、ディートリヒシュタインだった。
「プリンスは、スキンシップ過剰な人だった。しょっちゅう、手を握ったり、抱き着いたりしてきた。君に対してもそうだったろ、モル」
「いいえ」
憮然として、モルは答えた。
一度だけ、彼の方から手を握ってきたことがあったが……。
「よかった」
プロケシュの顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。
「それが君を、苦しめるのではないかと、心配していたのだ」
「少佐がおっしゃったように、私には、ザンニーニがいましたから」
感情をこめずに、モルは応じた。
「いや、変な意味に取らないで欲しい。プリンスは、人との触れあいに飢えていたんだ。だって彼は、子どもの頃から、ずっと、孤独だったから。最後に会った時も、」
……「プロケシュ少佐。どうかお願いですから、僕の勇敢な戦士でいてください。いつだって。どこにいたって」
彼はそう言って、プロケシュの体を、強く抱きしめた。
礼拝堂を出て、広い庭園を歩きながら、プロケシュが話しかけてきた。
「軍から休暇をもらいました。もう2週間ほどで、チロルへ出発します」
「休暇! そんなに具合が悪いのか?」
驚いたように、プロケシュが問う。
「まさか、プリンスが亡くなられた悲しみで?」
モルは肩を竦めた。
「精神に引きずられるような肉体を、私は軽蔑しています」
「いや、申し訳ない」
プロケシュは、居心地が悪そうだった。ポプラの並木が続く、とても気持ちのいい庭にいるというのに。
「君は……」
プロケシュは立ち止まった。眼前に聳える丘を見上げている。
丘の上には、ヴェルベデーレ宮殿がある。かつて、ライヒシュタット公が憧れたオイゲン公の、宮殿が。
「君は、彼に、本物の愛情を持って尽くしてくれた」
「本物の愛情ですって?」
モルの顔色が変わった。
「どういう意味ですか」
「誤解してもらったら困る。僕は、彼にとって、それは救いだったと考えているのだ」
「……救い?」
「君は、ザンニーニとつきあっているのだろう?」
モルは答えなかった。
彼から目をそらし、プロケシュは続けた。
「君の交友関係の中で、貴族でないのは、彼だけだ」
「スタンも、貴族ではありません」
「彼は、君の同僚だ。だが、ザンニーニは違う」
モルは、息を詰めた。
元気だったころ、プリンスはしばしば、モルを疎んじるような素振りを見せた。皇帝から、プリンスの監視を命じられた身として、それは、仕方のないことだと、モルは諦めていた。仕方がないことではあるが、辛い日々だった。
一方でモルは、プリンスが自分を嫌うのには、他に理由があるような気がしてならなかった。
彼は、プロケシュが、何か良からぬことを、プリンスに吹き込んだのだと、疑った。何か……自分の性的傾向に関する情報を。
そうでなければ、優しいプリンスが、あそこまで露骨な嫌悪感を見せるわけがない。
詰めていた息を吐きだし、モルは尋ねた。
「あなたは……あなたは、プリンスに何か言いましたか?」
「何か?」
「私について」
「ああ」
プロケシュは微笑んだ。
「ボヘミアの曳き馬と、イタリアの馬車馬に挟まれた、純粋なアラビア産の馬のようだと言った。初めて会った時の印象を、プリンスに聞かれて」
「イタリアの馬車馬?」
「スタンだよ」
「ボヘミアの曳き馬、って……」
「ハルトマン将軍さ、勿論。オツムはアレだけど、馬力だけはありそうじゃないか」
「ひどいな」
上官と同僚の悪口に、モルは、与しなかった。だが、大嫌いなプロケシュの前で、気持が、いくらか、解れた。なにより、彼がそれ以上、ザンニーニについて触れてこなかったことに安堵した。
モルは尋ねた。
「それで、アラビア産の馬とは、どういう意味です?」
プロケシュは、じっと、モルを見つめた。
「プリンスが覚えているナポレオンの軍馬も、アラビア馬だった」
「……」
……プロケシュは、俺を、褒めたのか。
……プリンスの前で。この俺を。
モルは絶句した。
「最初にボローニャに赴任になった時、パルマに寄ったんだ」
相変わらず口の端に微笑みを載せながら、プロケシュは言った。
「そしたら、マリー・ルイーゼ様に聞かれた。新しい付き人のモルという人は、どんな人? 息子は、大層気に入ったようだけど、って」
……「彼は精神、知識、しっかりした性格を持ち、口が固く、そして進取的です。僕は彼が大好きです」
プロケシュは、プリンスが母に送ったという手紙の一節を諳んじた。
思わず、モルは喘いだ。
プロケシュは、遠い目をした。
「彼は、僕にも 愛している と言ってくれたよ。初めて会った時」
ナポレオンを擁護する本を書いたプロケシュに、プリンスは言った。
……「僕はあなたを、ずっと前から知っていました。そして、その間ずっと、あなたのことを愛していました。
(Ich kenne Sie und liebe Sie zeit lange.)」
「知ってます」
かろうじてモルは答えた。
その話は、元家庭教師のディートリヒシュタイン伯爵から聞かされていた。プロケシュをプリンスに引き合わせたのは、他ならぬこの、ディートリヒシュタインだった。
「プリンスは、スキンシップ過剰な人だった。しょっちゅう、手を握ったり、抱き着いたりしてきた。君に対してもそうだったろ、モル」
「いいえ」
憮然として、モルは答えた。
一度だけ、彼の方から手を握ってきたことがあったが……。
「よかった」
プロケシュの顔に、ほっとしたような表情が浮かんだ。
「それが君を、苦しめるのではないかと、心配していたのだ」
「少佐がおっしゃったように、私には、ザンニーニがいましたから」
感情をこめずに、モルは応じた。
「いや、変な意味に取らないで欲しい。プリンスは、人との触れあいに飢えていたんだ。だって彼は、子どもの頃から、ずっと、孤独だったから。最後に会った時も、」
……「プロケシュ少佐。どうかお願いですから、僕の勇敢な戦士でいてください。いつだって。どこにいたって」
彼はそう言って、プロケシュの体を、強く抱きしめた。
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